相思花へ誓うなら
夜狐雨鏡(高2 群馬県)
数多の遊郭が建ち並び、豪華絢爛な装飾と幻想的な釣り灯籠に照らされた夜の楽園・花街。愛と金と嘘に満ちたその場所で今、話題の只中にある遊女がいた。名は薄雲。花魁のお披露目式である突き出し道中を踏んで以来、異例の速さで最高位花魁の座についた逸材である。一度目にすれば、どんな堅物でも虜にするという傾国の姫。舞を舞わせれば天女の如く、女にしては低い歌声は繊細な感情を紡ぎ出す。その所作は美しく、端々からは教養の良さが滲み出る。彼女の噂は止まるところを知らなかった。薄雲が特に優れていたのは文学であり、知識人の旦那を唸らせた粋な言い回しはすぐに花街中に広まった。その一方で、彼女は寄せられる身請け話の全てを悉く切り捨てる孤高の存在、気高き高嶺の花としても知られていた。
横兵庫に結い上げた射干玉の髪、金細工に鼈甲、煌びやかな簪がそれを飾る。幾重にも重ねた着物も鮮やかに、薄雲は鏡台の前に座り、自身の唇に紅を塗った。爪に色をつけた指先で、手首に巻いた牡丹色の布を撫でる。
先日、一人の遊女が足抜けをしたとの情報が出回った。薄雲も面識があった彼女がどうなったのかはわからない。密かに、彼女らの幸福を祈った薄雲の視線が、鏡台に置かれた白い彼岸花の簪に向けられた。夜の帳が落ちた座敷の中、薄雲は二人の最愛と過ごしたかつての日々を追憶する。
澪が遊郭に来たのは、ちょうど六つを数える年だった。美しい花灯籠に、格子のついた雅な建物。華やかでありながら得体の知れない。そんな鳥籠に、身を売られた。
澪の生家は、古くより多くの軍人を輩出する名家だった。しかし先の大戦で当主が戦死。続く混沌と継承争いにより家は呆気なく没落してしまった。六つの少女にはどうにも出来ない結末である。しかし少女は、六つの子供とは思えぬ知識と機知、努力を怠らない姿勢を備えていた。母親譲りの艶やかな黒髪と、幼いながらに蠱惑的で端正な顔立ちは、花街で生きていく為の十分な武器になった。禿として店に入ってすぐ、数少ない花魁候補と判断されるほどに、目を見張る魅力があったのだ。
「君が新しく姐さんの所に来た新造さん?」
そう声をかけられたのは澪が禿を終え、振袖新造として店の最高位花魁の元に預けられた数日後だった。いくつもの芸事や作法、勉強の間の休憩時間。本を読んでいた澪は春風のような優しい声色に目線を上げ、はい、と応えた。
「お初にお目にかかります。振袖新造を賜った澪と申します」
源氏名は本名『レイ』の漢字をそのままに『ミオ』と読ませた。三つ指を揃えて丁寧に礼をとる。声をかけた人物は小さく笑みをこぼして、澪の正面に腰を下ろした。
「そんなに畏まらなくて大丈夫だよ。……初めまして。僕はここの姐さんにお世話になっている、若い衆の綾斗。これからよろしくね、澪」
綾斗。そう名乗ったのは銀灰の髪を短く一つに括り、夜空から青空へ変わる瞳を持った甘い顔立ちの少年だった。自分よりいくつか年上のその姿に澪は密かに息を呑む。花街に来て以来、自身が仕える姐女郎を含めて美しい女たちは何人も見てきた。しかし綾斗はその中の誰よりも美しかったから。
「綾斗、そいつが新しい新造か?」
言葉を返そうと思った矢先、音を立てて襖が開かれた。綾斗に問いかけながら入ってきたのは、彼よりは年下に見える少年。瑠璃紺色の髪を短く切りそろえ、意志の強そうな瞳をすっと細める。
「そう、澪って言うんだって。今挨拶していた所」
綾斗が振り向きながらそう答えた。少年はそれに頷くと手にしていた小包を澪の手に乗せる。
「お前に渡しとけって姐さんに頼まれた。あと、俺は梗夜。綾斗と同じ若い衆だ」
澪が包を開けると、入っていたのは桜の形をした砂糖菓子だった。
「どうして私に?」
不思議に思って澪が問いかければ、窓枠に腰掛けながら梗夜が言う。
「客にもらったからお裾分けだって、言ってたぞ」
どことなく冷めた物言いは綾斗と対照的なもので、簡素にまとめられた台詞には、それ以上の会話を拒むような無意識の壁が感じられた。誰も声を発しない沈黙、重苦しいその空気を破って澪は口を開いた。
「……梗夜様、何か気に触るようなことをしてしまったでしょうか?」
梗夜は特に気にした風もなく答える。
「梗夜でいい。あんたが何かしたわけじゃ無いから気にしないでくれ。……苦手なんだよ、遊女も、ここに来る客も」
空気重くして悪かった。と軽く頭を下げて梗夜は座敷を出ていった。きょう、と名を呼んだ綾斗の声を置き去りにして。
「ごめんね澪。悪い子じゃ無いから、あいつも」
眉を下げて困ったように笑う綾斗は、心配そうに襖の先へと目を向けた。澪はわずかに目を伏せてぽつりと呟く。
「……何かあったのですか?」
小さな声だったであろうに、耳ざとく拾った綾斗は先ほどまでとは違うどこか作り物めいた微笑へと表情を変えた。
「僕からは言えない……誰にも、話したく無いことはあるから、ね」
作ったような笑顔の裏が悲しげに歪んでいた。
廓に勤める遊女たちは、花街内であれば外出を許されている。澪は姐女郎馴染みの茶屋へのお遣いを済ませ、店に帰る途中であった。隣を歩く梗夜と軽い雑談を交わしながら帰り道を急ぐ。護衛としてついてきた彼と初めて出会った日から数年。当時に比べれば打ち解けて、くだらない話をする仲になったものの、互いに一枚壁を隔てたような縮まらない距離があった。
「梗夜、近道をして帰ろう」
店への近道である路地へ踏み入れながら澪が言えば、梗夜は小さく了解を示して後に続いた。なんでもないはずの帰り道に異変が生じたのはその時だった。
「……やめてっ、……離して」
進行方向で一組の男女が揉めている。女の首には遊女ではないことを示す木札が下がっていた。状況を察するに外から来た女が襲われかけているようだ。腰に下げた刀に手を添え、自身を庇う様に前に出た梗夜を澪は制した。女にしては低いが、よく通る声を発する。
「旦那さん、花街で一般の女性に手を出すことはいかなる理由があろうと認められておりません。その方をお放しください」
言いながら近づき、真っ向から男を睨みつけた。一瞬、女の手を掴む力が弱まったのに気づいた梗夜が男の手をはたき落す。澪はその場に崩れ落ちた女に手を貸して立たせた。路地の出口に向けて彼女の背を押しながら微笑む。
「もう大丈夫ですよ。……可能であればお早く帰ることをお勧めします。最近なにかと物騒ですからね」
何度も頭を下げて駆け去っていく女を見送る。ふと背後に影が差すのを澪は感じ取った。
「……なぁ嬢ちゃん、逃げられちまったんだけどどう責任とってくれんの?」
「さて……なんのことでしょう」
喉元まででかかった悲鳴を飲み込んで澪は背後の男に返した。その態度が気に食わなかったのか、男は澪の手を掴み壁に押さえつける。澪はなおも繕った顔を崩さない。
「お戯を旦那さん。ここは店ではありません」
それでも男は手を離さなかった。女に逃げられた腹いせか、小娘に言い負かされた苛立ちか。ぎりぎりと血管が閉まっていくような痛みに呻き声を上げかけた時、不意に負荷がなくなり両手が自由になる。茫然とする澪の目に梗夜の背が見えた。梗夜が男の手を捻り上げながら低く吐き捨てた。
「汚ねぇ手でこいつに触れるなよ。下郎が」
男は掴まれた腕をそのままに舌打ちすると、開いた方の手で梗夜の腹を殴った。背後に澪を庇っていた梗夜は避けきれず、まともに拳を喰らう。ふらりとその体躯がよろめいた。澪が支えようとするも、どうにか持ち堪えたらしく咳き込みながらも男を睨みつける。梗夜が腰に帯びた刀に手をかけた時、男の手が梗夜の顎を持ち上げた。なぶるような視線を当てられた梗夜の手が小さく震え、唇から漏れ出る呼吸が歪む。尋常ならざる状況に澪が梗夜を引かせようとした時、風を切る音と共に男の悲鳴が聞こえた。男の手から迸る赤色、金属室な音を立てて飛来した何かが落下する。わずかの血をまとったそれは、見知った小刀だった。澪が小刀に目を向けた一瞬、梗夜は不規則な呼吸音を鳴らしながらその場に崩れ落ちた。澪は我に帰ったように梗夜の肩を抱き寄せる。自身らが入ってきた路地の入り口から、悪寒が走るほどの冷酷な声が現れた。
「遊女を襲い、挙句護衛の若い衆にまで手をあげる狼藉。流石に目に余るものがありますねぇ旦那。……遊女を愚弄する権利など存在しない。一夜の夢を求めるならば、正当な対価を持ってご来店ください」
「綾斗!」
驚いたような澪に小さく微笑んで、男の目の前、梗夜と澪を隠すように立ちはだかった。傷のついた手を庇って立ち尽くす男に目を向ける。
「聞こえませんでしたか? 今すぐ失せろと、言ったんだ。……嗚呼それとも、警邏を呼ばれる方がお好みでしょうか?」
くすり、と目だけで笑いながら言い、次いで低く声を這わせる。
「二人を傷つけた罪は重い」
その気迫に押されたのか、警邏を呼ばれる事を恐れたのか、男は引き攣った声を上げるとその場から逃げ去っていった。それを見届けた綾斗は興味をなくしたかのように目線を外し、すぐに澪と梗夜へと向き直った。先ほどの名残が消えない淡々とした声音で問う。
「澪、きょう、怪我は無い?」
その姿に微かの恐怖を覚えて頷けば、綾斗はふっと、気を緩めて二人を抱きしめた。澪は困惑したように綾斗の名を呼び、呼吸が落ち着き始めた梗夜も驚きに目を見開く。綾斗は震える声で、心底安堵したように言った。
「間に合って、よかった」
廓に戻り姐女郎への報告を済ませた後、業務と稽古に戻ろうとする二人を綾斗は引きずっていった。幸い空き部屋になってる座敷には誰もおらず、綾斗は医務室から借りてきたという治療道具を取り出す。
「澪の方を先に手当てしてやれよ」
「……そうだね」
静かに言葉を交わしながら綾斗は澪の手をとった。男に握られた箇所は青紫に痣ができている。綾斗は冷えた手巾を患部に当てた。
「少し冷やしておいて。手巾が緩くなったら教えてね」
澪が頷くのを確認して、梗夜の手当に移る。薄く痣の広がった腹部に手を当てた。
「……痛みは?」
梗夜はなんとも無いというように首を振った。綾斗は澪にしたと同じように冷えた手巾をあてがう。冷やしている間に澪の腕に包帯を巻いた。澪の腕に巻かれていく白色をぼんやりと眺めていた梗夜が不意にぽつり、と零した。
「……俺さ、餓鬼の頃親の酒代のために身を売らされてたんだ」
感情のこもっていない、ひどく淡々とした声音だった。包帯の端を結んだ綾斗が無言で梗夜の腹部の手当を再開する。梗夜は続ける。
「綾斗に助けられて、逃げ込んだ花街で楼主に拾われた。……だからだろうな、この場所が怖いのは」
今まで聞いたことのない梗夜の過去、澪に語られることのなかった彼の本音。返事を待ってのことではないその言葉は、行き場をなくして音を失う。その音を澪が拾った。彼らには知っていて欲しいと思ったから。
「私の家は軍人の家系だったよ。大きくなったら父上のような立派な軍人になって大切な人を守りたかった。……だから、ここに売られたのは予想外。でも、二人に出会えたから。それだけは嬉しかった」
返答があると思っていなかったのだろう。梗夜の目が澪を映して、そうして気を許したように頬を緩ませた。綾斗が二人分の手当を終えた頃、夜の帷はとうに落ち、花街が最も賑わう時間が訪れた。幸い三人の指導役に当たる花魁に今宵の客足はないらしく、久々の穏やかな夜だった。街全体から聴こえる華やかな樂の音に耳を傾け、近頃教わったばかりの小説の話に花を咲かせた。ようやく縮まった三人の距離が心地よかった。
夜も更け、もうすぐ営業が終わろうという頃、三人がいる座敷の外から澪を探す声が聞こえた。襖を引き開ければまだ幼い禿が廊下に立っている。彼女は澪の姿を見とめ、正座をした。
「姐さんから言伝にございます。急な指名が入ってしまった故、支度が済むまで話し相手を頼む、と」
お相手は姐さん馴染みの旦那様にございます。と告げる少女に頷いて座敷を出ようとした澪を、綾斗が引き止める。振り返れば、髪を解いた綾斗が、澪の包帯を隠すように自身の髪紐を巻いた。幅の広い牡丹色のそれは、澪の透き通る肌によく映える。
「こんな物しかないけれど、少しは華やかになるかな?」
客に怪我を問われる事を心配しての配慮に礼を言い、澪は今度こそ座敷を後にした。
客の対応は姐女郎の馴染みということもあり、それほど難しくはなかった。支度を整えて現れた姐女郎の許しを得て座敷を辞す。普段ならばもう寝ている頃合いであったが、どうにも目が冴えてしまっていた澪は綾斗と梗夜がいるであろう控えの座敷へ足を向けた。遊女が客を通すための幾つもの座敷の前を通る。もう深夜ともなれば多くの遊女が、客に一夜の夢を見せているのだろう。やがて己も担うことになるであろう勤めを、なるべく考えぬふりをして進んでいた澪の鼻腔に独特な甘い香りが届く。目を向ければ不用心にも襖の開かれた座敷があった。閉めようと近づいて目に入った室内の様子。澪は漏れそうになった声を飲み込んで気づかれぬように襖を閉めた。えも言われぬ恐怖が全身を這い上がり、込み上げて来た吐き気を抑え込んで駆け出した。
辿り着いた座敷の中は薄暗かった。橙色の鬼灯灯籠がぼぅと光っている。襖の空いた音に気づいた綾斗が澪の名を呼んだ。
「おかえり澪。……何か怖い物でも見たかい?」
それには答えず澪は呟く。
「……梗夜は?」
「寝てるよ。……かなり堪えたみたいだ」
よく見れば綾斗の膝を枕に穏やかな寝息を立てる梗夜の姿があった。灯に照らされた白い顔はどこか病的にも見えて、そう、と澪は呟く。それきり一言も発さなくなってしまった澪を怪訝に思い、綾斗が再度その名を呼べば、澪はどこか壊れそうな、悪夢でも見たかのような怯えた表情を浮かべた。
「おいで」
綾斗は低く囁き、手を伸ばす。仄暗い部屋の中に、結わずに垂らされた銀灰がさらりと揺れた。澪はふらふらとおぼつかない足取りで綾斗に近づき、その場に座り込む。背に腕が回されて引き寄せ得られた。
「……嫌じゃなければ、お兄さんに言ってみな」
幼子をあやすような柔らかい声音に絆されて、澪は消え入りそうな声を発した。
「……花を喰らう蝶を見たの。……怖かった」
ここがどのような場所か知っていたつもりだった。遊女たちが見せる一夜の夢がいかなる物であるか知っていたつもりだった。それを下げずむつもりも、貶すつもりもない。ただただ、恐ろしかったというだけ。
澪聞いて、と片手で澪の背を撫で、もう片方を梗夜の額に当てていた綾斗が囁く。「さっきこいつが僕に助けられたって言っていただろ。……あの時僕は、きょうの親を殺したんだ」
ひゅっと、澪の喉から掠れた息が漏れた。綾斗は大切そうに二人を見つめ、微笑む。
「君たちのためなら僕はなんだってやるよ。……だから悪夢を忘れて、今はおやすみ」
綾斗は、低く高く歌を口ずさむ。暖かな微睡に、澪はゆっくりと身を委ねた。
よく晴れた日暮れの頃だった。楼主の口から告げられた言葉に、拒否する権利がない事を悟った綾斗は作り笑いを浮かべて丁寧に礼をとる。花魁道中に付き従い、廓に戻って来た直後のことであった。
丑三つ時を回った深夜。遊女も客も寝静まった静寂の中、澪は中庭の東屋で小さく歌を口ずさんでいた。姐女郎の花魁道中に付き従った際の重い結い髪を解き、高い位置で一つに括る。春先のまだ冷たい空気が頬を撫でた。ふと、静寂に石畳を踏む足音が混ざる。振り返った澪は足音の主の名を口にした。
「綾斗?」
銀灰の髪が細い月明かりを反射する。眉を下げて少し困ったように笑った綾斗がひらひらと手を振った。
「こんな時間に出歩いて、体に悪いよ」
隣に腰を下ろしながらいう綾斗に、澪は悪戯を思いついたように唇の端を釣り上げた。品らしく口元を袖で隠し、もう片方の腕を広げてたおやかに礼をとってみせる。廓言葉で台詞を紡いだ。
「おいでなんし。旦那さん」 綾斗は何度か瞬きをし、それからしみじみとしたように呟いた。
「……そっか、もうすぐ花魁さんだもんね澪も」
その声音にこれ以上揶揄う気は失せてしまって、澪はぼんやりと空を見上げた。
「……花魁になったら三人で過ごす時間も減るんだろうなぁ」
自分で言っておきながら、なぜか涙が溢れた。ぽつりと小さな声で本音をこぼす。
「寂しい……」
「……綾斗、お前澪のこと泣かした?」
澪の言葉に被せるように梗夜の声が割って入った。
「びっくりした……きょうどこから来たの? あと誤解だからね。」
突然の登場に驚きながら綾斗が言えば、梗夜は誤魔化すように黙って笑みを浮かべた。不意をつかれたように笑い声を漏らす澪は、目尻の涙を拭いながら梗夜を手招く。
「花魁になったら三人で集まれる時間減るのか、って考えてたら寂しくなっただけだから綾斗のせいじゃないよ」
ならいいけど、と呟いて梗夜は東屋の机に腰を下ろす。
「きょう、机に座るのやめなさい」
「誰も見てねえし、大丈夫だろ」
綾斗の注意にもどこ吹く風。いつもと変わらない空気感が心地よい。そんな中、改まったように二人を見つめて綾斗が口を開いた。
「……二人に聞いてほしいことがあるんだけど」
一瞬の静寂。楼主から告げられたこのことを、どうしても二人に話しておきたかった。
「……国のお役人が僕を雇いたいらしいんだよ。僕が趣味で描いていた小説、あれを気に入っていただけたようでね」
国は身分に拘らず優秀な人材を求めている。それは花街の住人であろうと変わらなかった。
「……その割には浮かない顔だな。悩んでんのか?」
机から余った足を揺らしながら、梗夜が問うた。
「そうだね。……この上なく名誉なことなんだろうけど、君たちと離れるのは寂しいなぁ」
三人とも、もはや家族と過ごしたよりも長い時間を共に暮らしてきた。簡単に離れるには縁を強く結びすぎたのだ。ふと、思いついたとでもいうように澪が口を開く。
「もし私が、一緒に逃げようって言ったら二人はついて来てくれる?」
遊女にとって花街から逃げ出す。つまり足抜けをするということは重罪だ。けれども好いた男と添い遂げるため、春をひさぐこの仕事に嫌気がさして足抜けを試みる者は少なくない。澪の言葉に綾斗と梗夜の声が重なった。
「行かないね」
「行かねぇな」
そのまま梗夜が言う。
「見つかれば遊郭の奴らは当然追ってくる……逃げた先で待ってんのは隠れ生きるか、死ぬかの二択。そんなの許せねえよ。だが、ここは金がものをいう花街だ。誰にも憚られずに出る方法がある」
そうだろう綾斗、と梗夜は自信ありげな笑みを浮かべた。綾斗は梗夜の言わんとしていることを、澪が徐に呟いた意味を悟った。
「ごめん、少し弱音を吐いた。……一つだけあるよ。三人堂々とここを出ていく方法が」
そう言ってから一呼吸、間をおいて綾斗は続けた。
「しばらくは学校に通わないとなんだけど、お役人の給金ってここよりいいらしくてさ。出世できたら大金稼ぐのだって夢じゃない。……正面から堂々と迎えに行くよ、二人のこと」
晴れやかに、そして堂々と言い切った綾斗の胸を拳で叩き、梗夜が言う。
「生き抜いて見せるさ俺も。とりあえず、澪のことは任された」
澪もまた梗夜の隣に、同じように拳を並べて真っ直ぐに綾斗の目を見る。
「私、花街一の花魁になるよ。どんな金持ち旦那の身請け話だって断れるくらいの。……だから、ちゃんと見つけにきてね」
もちろん、と頷いた綾斗は思い出したかのように袂から木箱を取り出した。
「誓いの印に」
木箱の中に入っていたのは真っ白な彼岸花の簪と、同じ意匠の耳飾りが一つずつ。
「異国の言葉で『相思花』って言ってね。花言葉が『想うはあなた一人』」
澪の髪に簪を、梗夜の片耳に耳飾りを付けながら綾斗は語る。
「……僕が想うのは、愛するのは、君たち二人だよ」
最後に二人を見て、甘く愛おしげな笑みを浮かべる。
花街数多の美女に勝る、何よりも美しい笑みだった。
鏡台の上に置かれた、真っ白な彼岸花の簪を手に取る。横兵庫に結われた射干玉の髪へとそれを挿した。
「薄雲花魁お時間です」
座敷の外からの自身を呼ぶ声に応えて薄雲は襖を開けた。そこにいた若い衆の片耳には白い彼岸花が一輪咲いている。一つ頷き、薄雲は若い衆を伴って廓の廊下、そして自身が所属する廓所有の舞台へと続く、外回廊を進んだ。彼女が歩くたびに、髪を飾るびら簪がしゃらしゃらと音を奏でる。
今宵行われるのは春の訪れを祝う祭り。澄み切った夜空の下、花灯篭は妖しく辺りを照らし、押しかけた人々や芸事を披露する遊女たちで花街はいつにない賑わいを見せている。舞台に上がる手前、薄絹で覆われた控えの間で薄雲は帯に挟んでいた二本の舞扇を抜き払った。隣に控えた若い衆が薄雲を見つめて拳を突き出した。彼は薄雲の護衛として、このあと舞台のすぐ脇に控える予定になっている。
「行ってこい。『澪』」
その声に薄雲は、澪は晴れやかに笑って頷いた。
「行って来ます。『梗夜』」
舞台へ上がる。
煌びやかに重い着物を翻し、豪奢な簪がしゃなりと揺れる。巧みに操る舞扇、宵闇よりもなお黒い射干玉の髪、白い肌は灯篭の灯りを柔く孕む。妖艶に蠱惑的に舞い踊るその姿は、正に傾国。下界に舞い降りた天女、夜の闇に降り立った魅惑の鳥、全てを魅了する高嶺の花。
訪れたすべての人々の目線を集めながら舞う薄雲の、透明な瞳がそれを捉えた。月明かりを紡いだような銀灰の髪、舞台前の白い灯に照らされた夜と朝の瞳。見間違えようのない、何よりも美しいその微笑み。薄雲は扇に隠した顔に涙を堪え、花の綻ぶ笑みを浮かべる。舞台の傍からその姿を見とめた梗夜もまた、屈託のない笑みを浮かべた。相思花を宿す二人が心中で迷いなく言い放つ。
――やっと出会えた、もう一人の最愛。