浜辺のペリドット
茉莉(高3 福島県)
夏休み真っ只中。帰省客が増え、街にいつもより人が増える頃。受験を控える私は、勉強に身が入らず、堪りかねて気分転換に出た。
「ちゃんと勉強しなよ」
「だって、集中できないんだもん。そっちだって同じでしょ? なんでファミレスに?」
葉月は気まずそうに顔を逸らした。
「……気分転換」
「同じでしょ」
「一緒にすんな」
「あははっ」
「声デカいよ」
「ごめん。ふふっ」
「笑いすぎ」
ひとしきり笑い終えて、昼ごはんにと頼んだオムライスをほおばる。彼女は私と会う前にもう何か食べたのか、水を飲んでいる。
「よく考えたらさ、私らの高校生として最後の夏休みだよ? 遊ばない?」
すると葉月は、急に難しい顔をして俯いてしまった。そんなに悩むことだろうか、とも思ったが、遊ぶ準備も何もしていないのだろうし、当然だと思い至る。
「別に無理に行こうとしなくてもいいよ?」
「いや。行く。こうなったら、ぱーっと遊んでやる!」
「お、いいね。食べたら行こう」
「うん」
とても嬉しそうに、彼女は笑った。
それから、私は早々にオムライスを食べ終えて二人で外に出た。とはいえ、私は財布とスマホしか持っていないため、一度家に戻ってから行くということにした。彼女は帰らなくていいというので、私だけが一時帰宅だ。
「ただいまー」
「お帰りー」
居間では、おにぃがゲームをしながら寝転がっていた。相変わらずの自堕落ぶりである。
「帰ってきたけど、また行ってくるね」
「そう? 帰りは何時ごろになる? 母さんにも話しておくけど」
「何時だろ。分かんないから、帰る頃に連絡する」
「え、お前行かないの?」
わざわざ画面から視線を上げて、おにぃは驚いた顔をした。その様子に、首を傾げた。
「どこに? とりあえず、友達のこと待たせてるから、もう行くね!」
「あ、おい!」
おにぃの用事に付き合う筋合いはない。玄関の棚の上に置いたままにしてしまっていた首飾りをかけ、私は足早に家を出た。
「おまたせ!」
「いいよ。どこいく?」
ファミレスの時とは違い、すっかり乗り気だ。
「行きたいところとか、ある?」
「たまには遠出して、海とか?」
「うわ、久しぶりだなぁ。行こう。電車もあるし」
「じゃあ、出発!」
そうして私たちは二人で駅に向かったのだった。
電車に乗るのは珍しい。ちょうどいいところに駅がなく、大体はバスか徒歩、もしくは親の車で行動するため、電車に乗るのは珍しくて好きだ。
「なんかこうしてどっか行くの、メチャクチャ久しぶりだ」
「私も。でも葉月のところは、よく遠出してたでしょ?」
「最近はもう行ってないよ? お父さんもお母さんも、弟のことで手一杯だから」
「あぁ、そっか。ごめん、変なこと言った」
「気にしないで」
葉月の家は、普通の家庭とは少しばかり違っている。六歳も離れた体の弱い弟のことばかりを気にかけて、葉月のことにはあまり関心がない。色々と複雑で、よく私の家に泊まりに来ていた。
かわいそうだなんて言えば、怒られるのは分かっている。それに、友達に向かってそんなことを言えるはずがなかった。大切な親友なのだから。
運よくボックス席に座れたため、私と葉月は車窓の景色を楽しんだ。慣れた街並みが流れているだけのはずなのに、電車が珍しいのかいつもより気分が高揚している。
「楽しみだなぁ」
「そうだね。海なんて、滅多に行かなかったし」
「日差しすごいしね。あ、日傘もって来ればよかった」
「かなり焼けてるから大丈夫でしょ」
「何が大丈夫なんだよ」
二人でそんな他愛のない話をしながら、車窓の風景を見つめる。晴れた空だった。目がくらむほど、太陽の光が差していた。
電車に揺られて四十分ほど。駅で降りると、一気に夏らしい熱気が顔に吹き付けた。同時に何となく磯の臭いがする。
「電車でこっちに来たの、初めてかも。いつも車だったから」
「そうなんだ」
「葉月は?」
「来たことあるよ」
「へぇ」
二人で改札を抜けると、海岸までは一本道だ。
こうして、二人でのんびりとした時間を過ごすのはひさしぶりだった。なぜか夏休みに入ってからは、ばったりと会うことが多かったが、すぐに勉強しろとすごまれていつも早々に帰っていた。二人での時間は楽しい。楽だし、気を遣う仲でもないから、羽目を外しても恥ずかしくない。
他愛のない話をしながら歩き、震災以降海が見えないほど高くなった堤防を上る。
そこには、青く広い海が広がっていた。
「はあー。暑いけど、風が気持ちいいね」
「うん。最高」
チラホラといる海水浴客も、お盆に差し掛かっているためか多く見える。
「なんで海だったの?」
「えぇ? 何となく」
「ふはっ、葉月、それよく言うよね」
「ふふ」
楽しそうな顔を見られてよかった。
ふと、自分の思考に疑念を持った。
(あれ……なんで、見られてよかったって思ったんだろう。最近もよく会ってたのに、なんで――)
そこで私は腕を強くひかれた。
「下、降りよ!」
「え、海入るの? タオルとか持ってきてないんだけど!」
「あ、そっか。じゃあ、そこのコンビニで買っていこう」
なぜだろう。二人の時間は楽しくて、話しがたい時間であることは確かなのに、なぜこんなにも不安になるんだろうか。
タオルを買って、また海へ行くと、葉月は早速海へ走っていた。
「ちょっとぬるいなあ」
「冷たくても微妙でしょ。このくらいがちょうどいい」
「そうだね」
それから私たちはひたすら遊んだ。海辺を駆け、水をかけあって、もはやタオルでカバーできないほどに濡れてしまった。それでも別によかった。葉月の楽しそうな顔を見ることができたから。
二人して遊び疲れて、浜辺の流木に腰かけて休む頃には、綺麗な夕焼けのオレンジで空が染まっていた。
「やっぱり、こうして騒ぐのは楽しいね」
「本当にね! 楽しい!」
「葉月にしては珍しいね。そんなにテンションが上がってるの」
すると彼女は、急に視線を海に向けた。間が生まれるも、別に苦ではない。
「ねえ」
「何?」
二人で向き合い、目の前にある彼女の顔は、どこか寂しげだった。
「今日はありがとう。すごく楽しかった。久しぶりに会えて、本当に良かったよ」
「急に何? そこまで久々でもないのに」
なぜだか、海に行く直前の不安が蘇ってきた。自然と身構えてしまう。それを隠すように、できるだけ笑顔を作った。
そんな私の様子も分かったのか、葉月は軽く笑って言う。
「……もう忘れなよ。私のことなんて」
「……え」
葉月は立ち上がって、裸足で浜辺を歩き出す。私はピクリとも動くことができなかった。
「もういいよ。いい加減、私のことなんて忘れて、前に進まないと」
「何、言ってるの」
「私はもう――」
「聞きたくない」
どうしてもその先の言葉は聞きたくなかった。今の、今日の全てが消えてしまうような気がしてしまったから。
葉月は俯いた。
「……ダメだよ。ちゃんと向き合わないと。私みたいになっちゃう」
「それ、は」
「私、ここに来たことあるって言ったでしょ」
「……うん」
とうとうと語る彼女の背は、酷く寂しそうだった。
「最後に家族で来た場所なの。ここに来たきり、お父さんもお母さんも私に構うことなんてなかった。だから私がここで見つかった理由も分からないし、私がここで海に入った理由も分からない。二人にはこれからも、絶対に分からないんだよ」
葉月の話に、私は相槌を打つことすらできなかった。目を背け続けていた事実を、変えようがない現実を、他でもない彼女によって突きつけられているのだから。
首に掛かった首飾りを、ギュッと握る。
「もう疲れたの。弟のことは嫌いじゃないけど、それでも少しでいいから私との時間を作って欲しかった。だから、もう、私がいない方が、弟にお金使えるし、私が変に学費とかで負担かけるくらいなら、もういなくなった方がよっぽどいいし」
「葉月」
彼女の名前を呼んでも、何かが吹っ切れたのか、はたまたどうでもよくなったのか、彼女は話し続ける。
「成績だってそこまでいいわけじゃないし。私なんて、あの二人にとって必要ないみたいだから、だからせめて、楽しかった時のこと思い出しながら、終わりにしようって――」
「バカ!」
思わず叫んでしまった。
きょとんとして振り向いた葉月に、私は言ってやった。
「何かあれば、ウチに来てって何度も言ったじゃん! 葉月にだけは、頼ってほしかった! ずっと一緒にいたかった! っ、なのに、なんで……なんで、行っちゃったの……?」
葉月の顔は、悲しみに染まっていた。今にも泣きそうなほど、歪められた顔。彼女は何も言わなかった。
かまわず葉月の両肩を掴んでさらに叫ぶ。
「なんで? なんで相談の一つもしてくれなかったの? 嫌なことがあったなら、いつでも話しに来ればよかったでしょ! 呼ばれたらいつでも行った。葉月に会いに行った! なのに、なんで、……」
気づけば、彼女に縋るような体勢になってしまった。葉月は何も言わない。それどころか、なんの反応もしない。
「何か、言ってよ……」
葉月は一度私を離し、私の背に手を回した。
「私ね。大好きだったの。一緒の時間。二人で一緒に帰るときも、学校でバカな話しながら過ごすのも、こうして騒いで二人一緒に疲れ果てて笑うのも。全部、大好きだった。でもね、これだけはダメだった。二人で笑い合う時間は、楽しいまま、汚したくなかった。……夏帆には、太陽みたいに笑っていてほしかった。悲しませたくなかった」
もう、涙が溢れて仕方なかった。
「そんなの、気にしなくて、よかったのに、っ」
「私には大事なことなの」
おかしそうに笑う声。なのに、その声はすぐに低くなる。
「あの日……お母さんもお父さんも、私に連絡一つくれなかったの。学校が終わって、夏帆と別れて、帰ったら、弟が急に倒れちゃったみたいでさ。その関係で、忙しかったんだと思う。でも……急に、どうでもよくなっちゃって。ここに来たの。学校終わってすぐじゃなかったから、着く頃にはもう日が沈みかけていて。ここでぼーっとして、気づいたら、もう夜になっていた。慌てて連絡しようと思ったけれど、何も連絡なんて来てなかった」
葉月の声は、悲しみなのか怒りなのか分からないくらい、悲痛なものだった。
「当たり前だよね。私に構う暇なんてなかったんだろうし。でもさ、少しくらいは、気にしてほしかった」
「葉月、っ、」
「だから、毎年夏帆の家で誕生日とか、クリスマスとか、一緒に過ごせて本当に楽しかったの」
少しだけ、腕の力が強くなった。
「そばにいて、楽しい時間を過ごさせてくれて、本当にありがとう」
そう言って彼女はまた、海へと歩きだしてしまう。顔なんて、見えなかった。
追いかけられなかった。葉月の気持ちに気づけなかったことも、どんな思いで笑っていたのかも、みんな分かってしまったから。
それでも私は、今にもいなくなろうとする彼女に声をかけないことなどできなかった。
「葉月!」
彼女はゆっくりと振り返った。
「忘れない! 葉月のこと……大事な、一番の親友のこと! 絶対に!」
すると葉月は、これまでにないくらいに笑った。彼女の頬には、一筋の輝きが流れていた。
私は彼女が海へと消えていく後ろ姿を見送った。ただ、そこに立ち尽くしていた。
穏やかな波の音。堤防の向こうを走る車のエンジン音。水平線を滑る舷灯。強い磯の臭い。五感が過敏になって、様々な情報が頭に入って来る。彼女の気配だけが、もう感じられない。
彼女はもう逝ってしまった。もうこの世界のどこにもいない。二度と彼女に会うことはない。
きっとお盆だったから。逝ってしまった日が、終業式だったから。私のところに何度も来てくれたんだ。私が葉月を亡くしてからずっと、閉じこもっていたから。
「葉月……」
彼女の名前を呼んだ刹那、ほんの一瞬だけ、柔い風が耳元をくすぐる。
ふと我に返ったとき、日が落ちて暗くなった空には、煌々と北極星が光っていた。
ぼんやりと、帰らなければと思った。その心情を見計らったように、スマホの着信音が鳴る。
「もしもし……」
『夏帆! あんた今どこにいるの! 今日は葉月ちゃんの告別式だって言ったでしょう⁉』
「告別式……」
あぁ、そうだった。
一体、何のめぐり合わせなのだろう。なんであの日に葉月が逝ってしまったのか、全てが腑に落ちた。
母の怒声をよそに、私は足元で微かに光っていた物を拾い上げた。
電車で帰るとだけ母に言って、私はとりあえず昼間に出てきた家の近くの駅に向かった。改札を出ると、落ち着きのないおにぃが滅多に見ない礼服を着て迎えに来てくれていた。
「遅い! お前、帰りは連絡するって言ってただろ……って、その服、」
「今からでも、遅くない?」
「あ、あぁ。でも、その服で行くのか?」
「……上だけ着替える」
おにぃの車に乗って、一度家に帰って制服に着替え、会場へと移動する。
その間、私はずっとそれを握っていた。
会場へ入ると、葉月の家族や他のクラスメイト、そして私の両親が座っていた。泣いていたり、呆然としていたり、各々の反応をしている。お坊さんの御経も、木魚の規則的な音も、何も耳に入らなかった。焼香を済ませると、開いていた扉の中にある彼女の顔を見る。
その顔を見て、私は思考が冷えた。
自分の首元にあるもの、しかと握られたそれ。葉月から聞いた全て。
もうそこからは、感情が付き動くままに行動した。
ただ静かに俯くだけの葉月の両親に、私は怒鳴りつけた。
「なんで少しも葉月のことを顧みようとしなかったの!」
「は、」
二人は怪訝そうな顔をして私を見た。
「夏帆、やめなさい!」
「葉月はいつも寂しそうだった。いつも、家族のことを気にしてた! おじさんもおばさんも、なんでもっと葉月のこと気にかけてあげなかったの? なんで葉月のこと、なんで放ってたの!」
「夏帆!」
「葉月、泣いてたんだよ! 自分がいなくなっても、帰りが遅くなっても、連絡一つなかった。誰も気にしなかった! 葉月はずっと、家族みんなで同じ時間を過ごすことを望んでたの! 葉月との時間を少しでも取ってくれていたら、葉月は……こんなに、寂しそうに笑って死ぬことなんてなかったのに!」
言い切った私は、また泣いてしまっていた。会場のみなが静まっていたことも、葉月の両親が驚愕に表情を変えていたことも、何もかもがどうでもよかった。
「葉月がなんであの海で見つかったか、分かっていますか?」
「え……?」
おばさんは心当たりも何もないのか、首を傾げるばかり。
「葉月は、最後に家族で行ったあの浜辺で、家族の思い出が綺麗なまま、終わりたかった。家族のことを嫌いになりたくなかったから、あそこで全部終わらせたの」
「最後の、外出……」
おじさんもまた、茫然とするばかり。
「少しでも向き合ってたら、何かは、変わっていたかもしれないのに……っ、」
涙が溢れて止まらなかった。ふと、手にある小さな感触を思い出す。
いつか、お揃いだと言って買った、彼女の誕生石・ペリドットの首飾り。あの場所に落ちていたことは、きっと偶然ではない。
二人は困惑した顔をするばかりで、少しも葉月の死を悼んでいるようには見えなかった。
「おじさんも、おばさんも……葉月のことなんてどうでもよかったんでしょ」
「夏帆、いい加減にしなさい。終わったことを嘆いても――」
「終わってない」
「何を言ってるの!」
「あの日は葉月の誕生日だった!」
「っあ、……」
「……」
片や口に手を当ててハッとしていて、片や目を見開いている。そんな二人の反応を見れば、明らかだった。
「連絡一つもしないって……親としてどうなの……?」
会場にいる全員が静まった。私は止まらない涙を無理やり拭い、棺を振り返った。
「葉月……ごめんね」
私の前に化けて出たのは、きっと私に前に進んでほしかったからなのだろうか。それとも、私に本当のことを話してほしかったのか。もう今となっては分からない。もう二度と、彼女の本心を知ることはできない。
私はやっと事の重大さに気づいたかのように彼女の名前を呼ぶ二人へ、ペリドットの首飾りを渡した。
「これ、葉月のです。海で拾いました」
それだけを言って私は会場を出た。
あの後、葉月の両親はひたすら泣いていたという。葉月の死を嘆くくらいの情が残っていて、よかったと思った。全ての取り返しがつかないくせに、もう遅いのに。
あれから首飾りは私に返された。一番仲が良かったのは私なんだから、持っていてほしいと。
葉月の命日……いや、誕生日には、あの浜辺に行っている。葉月に会える気がしたから。
あの日のできごとは今でもよく分からない。私が見た幻覚なのか、はたまた本当に葉月が会いに来てくれたのか。
どちらでもよかった。あの子の本心を知ることができたことは確かで、私が忘れないと誓ったことには変わりがない。今も昔も葉月は一番の親友だから。葉月がいなくても何とか生きていける自分を、複雑に思うこともあるけれど。
あの夕方と同じ穏やかな波の音も、堤防の向こうの車のエンジン音も、強い磯の臭いも、あの時と同じ。
「葉月。ちゃんと、覚えてるからね」
見上げた先には、眩しい太陽が輝いていた。
波の音に紛れ、遠く、葉月の声が聞こえた気がした。