こばんざめ
宮﨑大輔(高2 和歌山県)
ぼくはコバンザメ。
いつも大きな魚にくっついて生きている。
海の中では、それが一番楽だからだ。泳ぐ力は弱いけれど、くっついていれば、どんな速さにもついていけるし、ときには食べ残しを分けてもらえる。
ぼくがよくお世話になっているのは、灰色の背中をもつサメのおじさんだ。彼は怖そうに見えるけれど、実はとても気前がいい。
「好きにくっついてろ。おまえがいても、
重さなんて感じないからな」と笑う。
ぼくは毎日、海を流れていく。
サンゴの森をすりぬけ、群れ泳ぐ魚たちを横目に見ながら。
自分のヒレで泳いでみようと思ったこともある。
けれど、すぐに息が切れてしまうのだ。だから、いつも誰かの下で暮らしてきた。夜になると、海の底から光がわきのぼる。
小さなプランクトンたちが星みたいに光り、暗い水の中を漂っていく。
ぼくはそれを見ていると、なんだか空を泳いでみたくなる。
でも、コバンザメにできるのは「くっつくこと」だけだ。
ぼくが離れて生きられるなんて、そんなこと、考えたこともなかった。
けれど、その夜はちがった。
深い海底から、ふしぎな光の泡が浮かび上がってきたのだ。
それは普通の泡よりも大きく、ひとつひとつが月のかけらみたいに輝いていた。
サメのおじさんは言った。
「近づくな、危ないぞ」
でもぼくは、どうしてもその泡にさわってみたかった。
ヒレの先が泡に触れた瞬間、世界がぐらりと揺れた。
体がふわりと軽くなり、ぼくはサメのおなかからはがれてしまった。
そして、気づいたときには――
海の上、空のただ中を、自由に漂っていたのだ。
目の前には、雲をくぐり抜けて漂う巨大な影があった。よく見ると、それは空を泳ぐクジラの群れだった。背中には白い雲がふわふわと積もり、尾びれを振るたびに星のきらめきをまき散らしている。
ぼくは目を見張った。海の中で聞いたことのあるクジラの歌が、ここでは風に乗って響いていた。音は低く、深く、胸の奥を震わせる。まるで空そのものが歌っているみたいだった。
「やあ、小さな魚」
声がして振り向くと、クジラの背に腰かける雲の精がこちらを見ていた。髪は霞のようにほどけ、瞳は夜明けの色に光っている。
「ここでコバンザメを見るのは珍しいね。どうして空に?」
ぼくは正直に答えた。「海の底から光の泡が浮かんできて……さわったら、ここに来てしまったんだ。でもどうして泳げているのかは、ぼくにもわからない」
雲の精はにっこり笑った。「君はもう“誰かにくっつく魚”じゃなくなったんだよ。だから、ここでは自分のヒレで進めるのさ」
胸がどきんとした。ぼくはこれまで誰かの背中にいなければ生きられないと思っていた。けれど今、確かにひとりで空を進んでいる。
そのとき、遠くで光がかき消された。星々がひとつ、またひとつと闇にのみこまれていく。大きな翼を広げた黒い影が、音もなく近づいてきたのだ。羽ばたくたび、星の光が吸い込まれ、夜空に穴が空いたようになる。
空クジラたちは歌をやめ、クラゲの群れは散り散りに逃げた。雲の精が小さな声でつぶやく。「……闇の鳥だ」
ぼくの胸に、冷たい波が走った。
黒い影はどんどん大きくなり、ぼくの目の前に迫った。闇の鳥は巨大で、翼を広げると雲ごと夜を覆い隠すようだ。光を飲み込むその動きに、ぼくは思わずヒレを縮めた。
でも、怖がっているだけではだめだと気づいた。海での暮らしで身につけた、「くっつく」力はもう必要ない。ぼくはヒレを広げ、空気をかき分けて鳥に向かって進んだ。すると、闇の鳥が目を光らせ、低く唸った。
「おまえ……小さな魚よ、空の主になるつもりか?」
声は風に乗って耳元に届く。ぼくは答えられなかった。ただ、胸がどきどきして、でも同時に自由を感じていた。
鳥の翼がぼくを包もうとする。吸い込まれそうな恐怖。だが、ぼくは思った。海で誰かにくっついているだけの生活も悪くなかったけれど、それだけじゃ満たされない。ぼくは星の光を背に、少しだけ鳥の胸に突き進んだ。
すると闇の鳥は意外にも静かになり、翼をゆっくり下ろした。空の海が再び光を取り戻す。ぼくはふっと浮かび、思わず笑った。怖かったけれど、空の海はぼくを拒まなかったのだ。
雲の精がひらりと飛んできて言った。「君はもう空の一部だね。怖がらずに、好きなところへ泳いでいい」
ぼくは胸いっぱいに空気を吸い込み、初めて自分のヒレで自由に飛ぶ喜びを味わった。海の中での暮らしは安全で、心地よかった。でも、空には未知がある。光も闇も、すべてがぼくのものだった。
夜空を泳ぐコバンザメは、小さな勇気を胸に、まだ見ぬ星の海へと進んでいった。
空の海を進むと、星屑の中に小さな光の群れが見えてきた。透明なクラゲのような生き物が、ゆらゆらと漂いながら星のかけらを食べている。ぼくはそっと近づいた。クラゲたちは最初、ぼくを警戒して身をすぼめたけれど、やがて光の粒を分けてくれた。「ありがとう」と言うと、彼らはゆるやかに光を揺らして笑ったように見えた。
さらに進むと、雲を編んで巣を作る渡り鳥の群れに出会った。鳥たちはぼくの姿を見て驚いたけれど、雲の精が「彼は空の海を泳ぐ者」と紹介してくれたおかげで、警戒心を解いた。ぼくはそっと雲の間を通り抜け、彼らの遊ぶ空間に溶け込む。鳥の群れと一緒に飛ぶと、羽ばたきのリズムが気持ちよく、空を泳ぐ楽しさをさらに実感した。
夜が深くなると、星の光がますます鮮やかになった。ぼくは自分のヒレを広げ、星屑の海を泳ぐ。海での暮らしとはまったく違うけれど、ここには誰かにくっつかなくても生きられる自由があった。小さなクラゲも、鳥たちも、みんなぼくを受け入れてくれる。ぼくは初めて「自分の居場所」を感じたのだ。
闇の鳥の影が去った後も、空の海には不思議な緊張感が残っていた。でも、ぼくはもう怖くなかった。ヒレを動かすたび、風と光を感じ、空の生き物たちと心を通わせる。海での暮らしも愛していたけれど、この世界はもっと大きく、冒険に満ちている。
ぼくは胸いっぱいに空気を吸い込み、さらに遠くへ泳いだ。星の間を抜け、雲の迷路をくぐり、光の川に沿って進む。新しい仲間たちと出会い、光の町や未知の海域を探検する日々が、これから始まるのだ。ぼくは空の海の一部となり、ヒレを動かすたび、自由と希望を味わった。
空の海を進むうちに、ぼくは遠くに巨大な光の大陸を見つけた。光の川が幾重にも流れ、空気が金色に輝いている。雲の間に立つ建物は水晶のように透明で、風に揺れるたびに虹色の光を放っていた。
ぼくは恐る恐る近づくと、地面ならぬ光の表面を歩く生き物たちがいた。頭に星をのせたウサギのような生き物、羽根が虹色に光るトリ、手足が長く柔らかい魚……みんな光の大陸で自由に暮らしている。
「新しい仲間かい?」小さなウサギが声をかけた。ぼくはヒレをぱたぱたさせて頷いた。みんなは驚きつつも、すぐに笑顔を向けてくれた。空の海よりもさらに奇妙で、楽しい場所だ。
ぼくは思った。ここにはまだ、見たことのない冒険がたくさん待っている。闇の鳥も光の泡も、この大陸の一部なのだろう。胸が高鳴る。ヒレを動かすたび、自由と期待が体中に広がる。ぼくはこの世界で、もっと遠くへ泳ぎたいと願った。
光の大陸の奥に進むと、ぼくは輝く森のような場所にたどり着いた。木々の枝は透明で、中には小さな星のかけらがぶら下がっている。ぼくがそっと近づくと、森の中央から金色の光を放つ生き物が現れた。
それは星のかけらを守る者、光の守護者だった。長い尾と翼を持ち、目は深い夜空のように黒く光っている。守護者はぼくをじっと見つめて、静かに言った。「この森の光を傷つける者には容赦はしない。だが、君の心は純粋そうだ」
ぼくはヒレをぱたぱたさせながら説明した。「ぼくは海でくっついて生きていたけれど、ここに来て自由に泳げるようになった。星のかけらがどうしても気になって……」
守護者はにっこり笑った。尾で星のかけらの一つをそっとぼくの前に差し出す。「触れていい。ただし、光を大切にし、決して奪わないこと」
ぼくは小さく頷いた。ヒレでそっとかけらに触れると、温かく柔らかい光が体中に広がった。ぼくの背中にも星がいくつもくっついたように感じる。光のかけらたちはただ美しいだけでなく、守られるべき存在だと実感した。
その瞬間、遠くで風のような音がした。闇の鳥が再び近づいてきたのかもしれない。守護者はぼくに告げた。「恐れるな。光の心を持つ者は、闇に負けない」
ぼくは胸を張った。海の中ではできなかったことも、ここでは挑戦できる。ヒレを広げ、光の大陸をさらに奥へと進む決意をした。自由と光、そして仲間たちが、ぼくの背中を押してくれるようだった。
光の大陸の奥を進むと、空がいきなり暗くなり、流れ星がひゅんひゅんと飛び交う空域に入った。流れ星はただの光ではなく、触れると弾かれるように強い風が巻き起こる。ぼくはヒレを広げ、慎重に泳ぎながら進んだ。
「これが試練の流れ星か……」胸がどきどきする。海ではくっついているだけで安全だった。でもここでは、自分の力だけで進まなければならない。ヒレで風をかき分け、光の川を縫うように泳ぐ。
突然、目の前の流れ星が大きく光り、ぼくの進路をふさぐ。避けようと体を傾けた瞬間、光がぼくの背中をなで、温かく包んだ。その瞬間、守護者の言葉が蘇る。「恐れるな。光の心を持つ者は、闇に負けない」
ぼくは思い切って流れ星の間を突き進んだ。風が体を押し返すけれど、ヒレでしっかり空気をつかみ、前に進む。初めて、自分の力だけで進む喜びを感じる。怖さとワクワクが同時に押し寄せ、胸が高鳴った。
流れ星の試練を抜けると、空の海が再び穏やかに広がっていた。クラゲたちが光を揺らし、鳥たちが羽ばたいて歓迎してくれる。ぼくは息を整えながら、少し誇らしい気持ちになった。自分でもできるんだ、と実感した瞬間だった。
光の守護者はにっこり笑い、尾で光の道を指し示した。「よくやった。君は空の海を泳ぐ者として、さらに進む資格を得た」
ぼくはヒレを広げ、光の道を進んだ。まだ見ぬ世界が、ぼくを待っている。海の中では味わえなかった冒険と自由が、ここにはあるのだ。
光の道を進んでいると、遠くの闇の中で黒い影が揺れた。あの闇の鳥だ。前に出会ったときよりも巨大で、翼を広げると星の光さえ飲み込む勢いがある。ぼくはヒレをぎゅっと広げ、恐怖を抑えながら向き合った。
鳥の目が光り、低く唸る。「おまえ、小さな魚よ。前回は逃げたな。今回は光を奪わせないぞ」
ぼくは背中の星のかけらを感じながら答えた。「ぼくは逃げない。光も仲間も、絶対に守る」
鳥が翼を打つたび、空の海が揺れる。風に押され、星の粒が散りそうになる。でも、ぼくはヒレでしっかり空気をかき、鳥の攻撃を避けながら進む。空の仲間たちも応援するように羽ばたき、光の粒を揺らして道を照らしてくれた。
闇の鳥は一度、空中で停止して見下ろした。目には驚きがあるように見えた。「小さな魚よ……おまえ、成長したな」
ぼくは息を整えながら、胸の中で強く思った。海ではできなかったことも、ここでは挑戦できる。光を守るためなら、怖くても進める。
鳥はゆっくりと後退し、闇に溶けていった。空の海は再び穏やかに光を取り戻す。ぼくはふっと力を抜き、自由に泳ぐ喜びを噛みしめた。初めて、恐怖を乗り越えた自分を誇らしく思えた瞬間だった。
雲の精が近づき、笑顔で言った。「君はもう空の海の一員だね。恐れずに進めば、まだ見ぬ光の世界に出会える」
ぼくはヒレを広げ、さらに遠くの光の地平線へ泳いだ。冒険はまだ終わらない。闇も光も、ぼくのものなのだ。
光の大陸のさらに奥、星屑の渦が渦巻く場所にたどり着くと、空気が静かに震えた。そこには古い光の塔が立ち、天井のない空間に光が差し込み、ぼくの背中の星を柔らかく照らしている。
塔の中から現れたのは、年老いた光の守護者だった。目は深く、夜空の奥を映すように黒く光る。「よく来たね、コバンザメ。君は空の海で何を学んだ?」
ぼくは答えた。「光の仲間たちと出会い、流れ星の試練を乗り越えて、闇の鳥にも立ち向かいました。でも、この空の海はどうしてあるのか、まだよくわかりません」
守護者はゆっくり頷いた。「この空の海は、海と空、光と闇をつなぐ場所だ。星のかけらは世界のエネルギーで、流れ星は試練の象徴。光を守る者は、それを乱す闇から守る役割を持つ」
ぼくは背中の星を見つめた。自分がただ泳いで自由を楽しむだけではなく、守るべきものがあると気づく。海ではくっつくことしかできなかったけれど、ここでは自分の意思で光を守れるのだ。
守護者は尾を揺らし、奥の地平線を指した。「君にはまだ旅がある。闇も光も、仲間たちも、すべて君の冒険の一部だ。恐れず進めば、空の海の秘密も見えてくる」
ぼくはヒレを広げ、光の塔を背にして泳ぎ出した。海では味わえなかった力と責任を背負いながら、星屑の間を進む。胸が高鳴る。自由と光、そして仲間たちとの冒険は、まだまだこれからなのだ。
光の大陸を抜け、空の海の穏やかな流れに戻ると、クラゲたちがゆらゆらと光を揺らし、鳥たちが羽ばたきながら迎えてくれた。ぼくはヒレを広げ、仲間たちと一緒に泳ぐ喜びを噛みしめる。
闇の鳥との再会、試練の流れ星、光の守護者との出会い……すべてがぼくを強くしてくれた。海ではできなかったことが、ここでは自然にできる。自由と勇気、責任も少しずつ身についた。
クラゲたちが光を分け、鳥たちが羽ばたきで道を作る。ぼくはその中を泳ぎながら思った。仲間たちがいてくれるから、怖くても進める。孤独ではない。この世界で、自分の居場所を見つけられたのだ。
空の海の流れに沿って泳ぐたび、ぼくは光の大切さを実感した。背中の星は温かく輝き、胸の奥まで伝わる。自由を手に入れたけれど、同時に守るべきものもある。それが冒険の意味なのだと理解した。
ぼくはヒレを大きく広げ、仲間たちと共に光の川を滑るように進んだ。空の海の世界は広く、まだ見ぬ場所がたくさんある。でも、怖くはない。ぼくには仲間がいて、光があり、勇気もある。
夜空に散らばる星々の間を泳ぎながら、ぼくは心から笑った。海の中でくっついて生きていたころの自分も愛しい。でも、今のぼくは空を自由に泳ぎ、冒険し、光を守る存在になったのだ。
朝の光が空の海を淡く染めるころ、ぼくは背中の星を感じながらゆっくり泳いでいた。光の大陸も流れ星も闇の鳥も、すべてぼくの経験になった。もう恐れることはない。
仲間たちもそれぞれの光を揺らし、空を舞う。クラゲは小さな光を分け、鳥たちは羽ばたきで道を作る。ぼくはその中を自由に進む。海でくっついていたときには想像もできなかった景色だ。
風が胸を押し、星屑がヒレに当たる感触は、まるで空そのものが友達になったようだ。ぼくは笑い、ヒレを大きく広げる。自由と責任、勇気と光。それらを全部抱えたまま、ぼくは泳ぎ続ける。
遠くの闇に再び鳥の影が見えたが、ぼくは気にしない。今なら、光と闇の両方を受け止められる。空の海はぼくの居場所であり、冒険の舞台であり、守るべき世界だ。
ぼくは思った。海でも空でも、くっついて生きるだけではなく、自分の力で自由を掴むことができる。波間のくらしから始まった小さな冒険は、今や星の海へと続いている。
そして、ぼくはゆっくりと空の海に溶け込み、光と仲間と共に、新しい日々を泳ぎ始めた。ヒレを動かすたびに、自由と希望が体中を満たす。ぼくの冒険は終わったのではなく、新しい波間で始まったのだ。