断片に棲む

佐々木(高3 新潟県)


 下駄箱の前、ふと、前をゆく人の髪に小さな塵をみつけ、ほぼ無意識に手を伸ばした。

 かじかんだ指先が髪に触れると同時に、振り返った彼女と目が合って、僕は吐息だけですみません、と呟いた。

「あの、塵が付いていて、本当に」

誰に何を疑われたわけでもないというのに、僕の口は忙しなく回った。弁明に合わせてしどろもどろに動く自分の手が、視界の端に情けなく映る。より怪しげになってしまった自身の行動を省みて、僕は現物を見せる事で解決を図った。

「ほ、ほら、このとおり!」

僕の手に乗っていたのは、小さな桜の花びらだった。

「桜?すごいね、マジックみたい」

台詞も相まってマジシャンのようになってしまった僕に、彼女は拍手を繰り出してそう言った。貴方の髪に付いていたものなんだから、すごいのは貴方ですよ、とは言えず、彼女の笑顔をただ眺めた。端正な顔立ちによく馴染む笑顔だ。緊張から強張る頬を気持ちばかり緩めて、僕も笑顔のような顔をしてみた。人との会話も、笑顔を作るのも得意ではない。

「ありがとう」とにこやかに言い、去ってゆく彼女の後ろ姿を見届けて、長いため息をつく。

 途端に、違和感に襲われた。今は雪の降りゆく真冬である。桜の季節にはまだ遠く、そんなものを身に纏った彼女は、容姿も相まって何処か幻想的に思えた。僕は現実味のない彼女に化かされるようにして、ゆらゆらと外へ出た。

「一緒に帰ろうよ」

彼女は待っていた。生徒玄関を出てすぐの、寂れた土だけの花壇の横で。何故?

「嫌?」

動揺から硬直する僕を見て、彼女は言う。嫌ではない。でもどうして?浮かんだ言葉は何も出ず、僕は「いいえ」とだけ答え、黙って隣を歩いた。

「一年生でしょ?名前なんていうの」

「一年生?もしかして、先輩ですか?」

そういえば言ってなかったね、と呟く彼女をよく見ると、コートの襟から覗くスカーフの色が緑色である事に気が付いた。一年生である僕の靴紐には、学年共通の赤色があしらわれている。緑はたしか、一つ上だ。

「気にしなくていいよ、べつに。偉いわけじゃないんだし」

途端に緊張が走った僕を見兼ねてか、先輩は変な顔をしてそう言った。

「夏目です」

「え?」

「え?あ、名前」

「あぁ!」

確実にタイミングを間違えた。僕の会話のリズム感は、まさしく音痴のそれなのだ。

先輩の名前も気になったが、一拍空けてしまうとタイミングを掴むのが難しく、そのまま変に黙り込んでしまった。

「じゃ、私、こっちだから。またね」

「はい。さようなら」

引き止めて名前を訊こうか悶々としているうちに、先輩の姿は見えなくなった。

 次の日も、そのまた次の日も、偶然玄関で遭遇してしまった僕たちは、ずるずると帰路を共にしていた。何故だかその偶然は、暫く続いた。

先輩は玄関先で会うたびに、にやりと笑って肩をぶつけてきた。そして、そのまま並んで歩く。

「三丁目の端のお家にね、白いチワワがいるの。すごく可愛くて、お利口」

「チワワ、なんか苦手です。小さくて……薄膜隔てたすぐそこに臓器があるじゃないですか」

「あぁ〜わかる。私も猫派だもん」

多分わかってないな、と思った。

「あ!」

先輩はボロい自販機を見ると、小さく声を上げてそれに近づいた。

「見てて。今からマジックするから」

先輩がお釣りのレバーを引く。老朽化を感じさせる軋んだ音が鳴り響くが、先輩は気にも留めずに続けてジュースのボタンを押した。

ピッ、と調子の外れた音がして、自販機の蛍光灯が点いた。

「これ、マジックというか仕様では?」

先輩は顔を顰めて、「マジックだって全部仕様だよ!」と言った。うーん、確かに?

先輩はよく喋る人だった。くだらない話を反復横跳びするように、不規則に会話は進んでいく。

くだらない、かと思えば急に「この世界に足りないものはなんだと思う?私はね、永遠だと思う」なんて難しい話を持ち出すから、僕は曖昧な相槌を打ってぼんやりと「壮大だなぁ」と感じるばかりだった。先輩に理由を訊くと「だってこの世に永久機関はまだ無いし、人間だってすぐ死んじゃうし。私たちが死んだ後も変わらず残るものなんて、あるのかなぁ」とのことだった。

先輩の小難しい話を聞くと、僕はいつも納得してしまう。先輩の何処か哲学めいた思想には、そういう、不思議な力がある。

「大切なものは失ってから気付くって言うじゃん」

ある日先輩が言った。僕はあまり深く考えず答える。

「あんなのきっと適当ですよ。思い出は美化されて、過去は綺麗に平される……今よりよっぽど綺麗に見えるその過去に縋って、センチメンタルに窓外を眺める自分に酔っているんだ」

くだらない、と吐き捨てるように言ったあとで、僕はしまったと思って俯いた。捻くれた精神を患った僕は、いつもこういう棘のある言い方ばかりしてしまう。先輩が珍しくすぐに返事をしなかったから、不安になってこっそりと顔色を伺った。彼女は心底面白そうに笑っていて、ほっとしたのと驚いたのとで、僕は口を開けて「ぇえ」と間抜けな声を発した。

「面白いね。君はいつでも」

「記憶と記録って違うじゃん。記憶はね、たぶん美化されていいんだよ。自分の都合の良いように、切り取って装飾して、額縁に入れて飾るの」

先輩は続けた。

「ねぇ、私たちもきっと、違う形でお互いを思い出すんだろうね。それが本当の姿じゃ無かったとしても、そんなこと知らずに、美化されている事にも気付かずに。それって寂しいかな。でも、しかたないね」

先輩は言った。諦めたようなその笑顔が、僕にはすごく大人びて見えた。

 先輩の話は基本くだらないが、為になる事もあれば興味深い話もあった。

「あのね、裏庭に桜の木あるじゃん」

「はい」

「あの木の中で一本だけ、小さな冬桜の木があるんだよ」

これ、秘密ね、と先輩は悪戯に笑う。

「あぁ、道理で!」

僕は納得した。初めて会った日、先輩の髪に付いていたのは桜の花びらだった。冬なのに桜なんて、と違和感があったが、冬桜か。

 先輩は僕の言葉に首を傾げたが、ふと目の前に鳩を見つけると「鳩は歩く時に頭を振るせいで視界が常にぐらぐらしているへんな生き物だ」という事を楽しげに話し始めた。

先輩は結構、移り気なのだ。

「夏目くん」

これは、冬の終わり。いつかの日の、僕の家の曲がり角がじんわりと迫ってきた頃。急に先輩が立ち止まって、僕の名前を呼んだ。僕は顔を上げて先輩の方を見た。先輩はいつも僕のことを「君」と呼ぶから、名前を呼ばれたのは初めてだった。

「なんですか」

「雪がさ、どれだけ春の近くへ行ったって、それって結局無意味だと思わない?どうせ溶けちゃうんだから」

顔の半分をマフラーに埋めた先輩が雪を蹴る。この時期にローファー、滑らないのかな、なんて考えながら返事をする。

「まぁ、はい」

雪が春先まで残っても、春は雪が溶けてから来るものだ。

「だったら、頑張らない方がいいのにね」

なんだか悲しい考え方だな、と思った。先輩は、頑張らなくていい理由を探すのが上手だ。

「雪は無くなっても、蒸発して何処かを漂っているんです」

僕は言う。先輩は珍しく此方を見た。明らかにいつもとは違う、期待するような顔をしている。

「なんですか」

「いいの。続けて」

僕は少しばかり襟を正して続けた。

「……塵を燃やしたら灰になって、擦り減った鉛筆の芯は文字になる……この世に在るものって、無くならないんですよ」

 先輩は急に立ち止まって呟くように言った。

「じゃあさ、人は、何が残るの」

「遺骨と、遺灰が残ります」

僕は答えた。シャク、と雪を踏む音が響く。先輩は歩き出した。合わせるように後を追うと、先輩が此方を横目に話し出す。

「なら、生命ってなんなんだろう。人格は、命と一緒に跡形も無く消えてしまう」

急に屈んだ先輩のあとを追いかけて、一拍遅れた灰色のマフラーが宙に舞う。

「私は、君が死んだって、骨の燃え滓を両手で掬って、灰すら遺されていない人格の記憶に思いを馳せる事しか出来ないの」

 先輩は手のひらに乗せた雪が溶けるのをじっと見つめていた。じっと。綺麗な横顔に真っ黒な瞳、その先にある白い雪、雪を見つめる先輩を、僕はただ見つめた。

 赤い指先は雪を両手で包み込み、そのまま圧迫した。水がぼたぼたと地面に垂れる。

「私はね、君に死なないで欲しいの」

彼女は少し目を細めて此方を見ている。

「ねぇ」

そのまま、大きく振り被った。

「なんでだと思う?」

 レジェンド投手宛らの投球は、僕へのデッドボールとなった。僕のコートからぽたぽた雫が落ちてゆく。

答えられない。そんな僕の情けなさすら見透かして、彼女は訊いてきているようにも思えた。

 先輩は何かを期待する幼子のような、はたまた縋り付くかのような、上手く読み取れない何かの感情を目に宿して、此方をじっと見つめている。

暫しの沈黙の末、僕は口を開いた。

「雪、投げないでくださいよ……」

僕は逃げたのかもしれない。

そう気付いたのは、彼女の曖昧な笑みを直視できずに目を伏せた時だった。

「じゃ、またね」

「はい。また」

普段さようならを使う僕は、今日だけ「また」という言葉を使った。

先輩の言葉に上手く答えられなかった分際で、縋り付くような真似をしたのだ。

ひどく愚かで、みっともない僕の姿がそこにはあった。

チラチラと降る雪がひとつ、彼女の髪に落ちたのが見えた。僕はそれを眺めて、黙って踵を返した。

もう手を伸ばせる日は来ないだろう。

次の日、彼女は玄関前に居なかった。

先輩は毎日、僕と帰る時間を合わせていたんだと、その時気が付いた。後悔すらできない。知っていたって変わらなかった。現実は決まっていたかのように、粛々と、ただ足元を過ぎてゆく。

三丁目の子犬。

久しぶりに一人で帰った日、僕はなんとなく子犬の元へと寄ってみた。

細い格子の隙間から顔を出して、高く吠える小さな犬。話で聞いていたほど可愛らしくもなく、口元に覗く鋭利な歯が怖かった。

しばらく見ていたら飼い主と思しき老婆が出てきて、犬を数回撫で回したあと僕に飴玉をくれた。

少し溶けたカンロ飴を舌で転がす作業の傍らに、老婆から子犬と孫の話を聞いた。

老婆は覚束ない手付きで携帯を数分操作すると、ものすごい剣幕で吠える子犬の動画を出し、液晶に向かって「本当、可愛いねぇ」と言った。

その間子犬は舌を収納することなく、僕が「どんな生き物も近くに居ると可愛らしく見えてくるのだなぁ」としみじみしたところで急に吠え、僕の喉に飴を詰まらせた。

自動販売機の裏技。

青いボタンの上にはジュースや炭酸飲料、赤いボタンの上には缶コーヒーやココアがずらりと陳列している。

僕はそれを一通り流し見たあと、お釣りのレバーを強く引いて、無雑作に青いボタンを押した。薄い闇に覆われていた自販機の蛍光灯が、数回ちかちかとしたあと飲み物たちを明るく照らした。

こんなの知ってて、何の役に立つのだろう。ふんわりとそう思った。楽しげにそれを披露する彼女を思い出し、苦しくなって、そのまま息を止めた。苦しいことに理由があれば、それは僕の苦しさではなくなる気がした。

 馬鹿みたいに眩しい蛍光灯の隅で、羽虫が死んでいるのをみつけた。

冬桜。

ふと、裏庭に一本だけあると教えてもらった冬桜の木を探そう、と思い立ち、昼休みに裏庭へと出た。季節は冬というには少し遅く、春というには早かった。裏庭は閑散としていて、聳え立つ枯れ木と肌寒さが更に寂しさを増幅させる。気の早い虫が頭上を舞うのが鬱陶しく、苛立ちながら練り歩いた。

大きな室外機の裏へ行くと、小さな桜の木があった。その木は僕と同じくらいの高さで、弱々しく枝を伸ばし、先端にぽつぽつと散りかけた桜を付けていた。

お世辞にも綺麗とは言えない低木だったが、なんとなく、春の桜より好きだった。

僕は今年も、彼女を思い出して冬桜を眺め、喪失感を恐れて春の桜から目を逸らした。

子犬は全く可愛くないし、自動販売機の電気はお金を入れれば簡単に点いた。忘れたって構わないのに、どうにも忘れられなかった。

大切なものは失ってから気付くと、よく言ったものだ。先輩との思い出は装飾されて、一番きれいなところに飾ってあった。恋の色眼鏡は度がきつく、脳はとっくに茹だっている。この記憶たちが美化されているのかなんて、もう僕には到底分かりそうになかった。

 丸一年、先輩とはすれ違う事すらなく、ただ僕一人だけ、凍結した暦の上にいる。 

冬の始まりを告げるように木枯らしは吹いて、冷たく鋭い雨が線状に降る、ひどく寒い日。先輩は僕の前に現れた。同じコートに同じマフラー、寸分狂わず同じ場所。

 雨が静かに彼女を打ちつけて、長い髪から絶えず雫が落ちている。

 気がつくと、僕は先輩に傘を差し出していた。

「あの」

反射的に声をかけてしまって、僕は自分自身に戸惑った。

「久しぶりだね」

先輩は少し驚いたような顔をした後、やわらかく目を細めてそう言った。

 久しぶりにその顔を見て、あぁ、僕はこのひとが好きだったんだと思った。この笑い方も、少し首を傾げるその仕草も、好きなんだ。

「…ブラックホールってあるじゃないですか」

会話音痴は直っておらず、久々の会話は絶望的なまでに突拍子もないところから始まった。

「この世に在るものは無くなりませんが、ブラックホールに入ったものは、跡形も無く消えるんです」

 一年の歳月を経て、正解を探して擦り合わせ続けたボロ布みたいな回答を、僕は恥ずかしげもなく先輩の前で宣った。

「情報のパラドックス。全てが損失し、何もなかった事になる」

不意に、先輩が俯いたまま言う。

「それって、なんだか死んじゃうみたいだね」

「けれども」

僕は言う。傘が揺れて、水が僕の肩にぴしゃぴしゃと落ちる。

「貴方が死んだら、何もなかったことにはさせません」

「貴方は僕に、ただ自分の存在を覚えていて欲しいだけ。それを口に出さない、面倒くさい性格も全部、僕が遺してあげます」

 先輩と目が合った。見た事のない顔だった。

先輩の口が動く。

「そういえば名前、言ってなかったね」

「貴方の輪郭は、名前なんてなくたって充分に形を保っています。名前をつけたら記録になるけど、記憶の方がきっと魅力的だろうから。だから貴方は、名前を教えなかったんでしょう」

薄らと気が付いていた。

先輩はきっと僕じゃなくたって良くて、無差別に、ただ誰かの記憶に遺りたいだけなのだ。彼女はひたすらに残酷で、最低で、それでもやっぱりきれいで、そんな彼女に有りふれた恋をする僕は、すごく馬鹿らしかった。期待に応えられなかった僕をいとも容易く捨てみせたこの彼女が、僕を見てくれる事なんてきっとないのだろう。それでも、彼女をずっと覚えておきたいと思ってしまう。きっとこれが、俗に言う恋ってやつなんだと思った。僕が薄ら馬鹿にしていたこの恋とやらが、こんなにも煩わしい大病だとは思ってもみなかった。でもなんだか夢心地で、すこしだけ、悪くないと思った。

「でも記憶はいつか、消えちゃうね」

「思い出せますよ。毎年、雪は降りますから」

彼女は少し笑って「そう」とだけ言った。

 空は鈍い灰色で埋まっていて、冬の香りで鼻がつんとした。

 「じゃあ、私のこと、忘れないでね」

 ずるい言葉だと思った。きっと彼女は、これが僕じゃなくても同じことを言うだろう。 

それでも、僕は頷いた。

日常の断片は、既に貴方の記憶で一杯だ。

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