私立清咲学園中等部のうるさい魔法たち

ヨシダ カワ

1 宿題プリントの魔法

 ただの魔法が、どうして人間の形をしているんだろう。

『――術式コード01、サクヤ』

 思い出せない声が、泣いているみたいに、オレの名前を呼ぶ。

 オレは、ぐしゃぐしゃに丸められた紙の中から出られない。

 落書きみたいな桜の絵。ここに閉じ込められたまま、誰かのことを、待っている。

 *

「ただいまー」

 学校から帰って、誰もいない家の中に向かって声をかける。もちろん、返事なんてない。

 夕陽でオレンジ色に染まった廊下を歩いて、自分の部屋の扉を開ける。カバンの中から宿題プリントと筆箱を取り出して、用が済んだカバンはベッドの上に放り投げた。

「はぁ~……。三回連続でサボったら、流石にまずいよね」

 ぶつぶつ独り言を言いながら、椅子に座る。学習机の上に広げた英語の宿題プリントは、チラッと見ただけで面倒くさそうなのがわかる。

 今年の春に中学生になったばかりなのに、もう勉強に追いつけないなんて……。

 あたしは手に持ったシャーペンの芯をカチカチと出したり戻したりしながら、問題文とにらめっこする。

 単語はいいんだ。でも、日本語の文章を英語に直すのだけはダメ!

(分かんない、分かんない! どうせできないって、こんなの……)

 埋まった空欄は、一番上の名前を書く欄ひとつだけ。

 ちょっと雑な字だけど、……八代環奈、っていうのがあたしの名前。

 はぁ、とため息まじりに、あたしはプリントを裏返した。裏面は何も書かれていないけど、表面の印刷が少しだけ透けて見える。

 あたしは頬杖をついて、プリントに落書きを始める。いちご、猫、ホウキ……。

 ――色々と描いてみたところで、ふと、今日学校で見た、おかしな絵のことを思い出した。

 掃除の時間に、もう使われていないロッカーの中で丸められた、一枚の紙を見付けたんだ。

 それを広げると、ちょっと不思議な絵が描かれてたんだけど……なんだっけ。

「えーっと、たしか……」

 二重の円を描いて、その真ん中に大きな桜の花を描く。そうして出来上がった絵は、タイヤのホイールとか、レモンのスライスみたい。

 でも、ロッカーで見付けた絵は、こんなに簡単じゃなかった。花びらと花びらの間のすき間に、何かが描いてあったはず……。

 なんだっけ? 掃除の時間にちょっと見ただけの絵だから、ちゃんと思い出せないや。

 あたしは絵を完璧に再現するのは諦めて、花びらの間のすき間を適当に埋めていく。ハートマークや、しずくのマーク、それから星のマーク。

 ……すると。

 ピカ――――ッ!

 急に桜の落書きが、まばゆい光を放ち始めた!

「うわっ⁉ な、なにっ、これ!」

 あたしは大慌てで椅子から立ち上がり、後ずさる。

 プリントから放たれる光はどんどん強くなっていって、あたしはいよいよ両目をぎゅっとつむった。左手を光にかざして痛む目を庇いながら、光がやむのを待つ。

 やがて、閉じたまぶたの向こうが暗くなっていくのを感じて、あたしは恐る恐る目を開いた。

「えっ、……だ、だれ?」

 そこには、するどい目つきであたしの方を見る、黒髪の男の子が立っていた!

「術式コード01、サクヤ。……おまえが、オレを召喚したのか?」

 そう言って、男の子はあたしを疑うみたいにじろじろ見た。

 サクヤっていうのは、名前? いずれにせよ、すごくかっこいいんだけど、「なんだこいつ」とでも言いたげな視線は、結構ムカつく……。

「て、いうか! 不法侵入でしょ、これ」

 あたしは両腕を組んで、負けじとサクヤをにらみつける。

 するとサクヤは、深いため息を吐いて、さっきまであたしが落書きしていたプリントをつまみ上げた。そして、それをあたしの方に突き出して……。

「おい、何が不法侵入だ。おまえがオレを呼んだんだ、これが証拠!」

「はぁ? そんなの、ただの絵じゃん」

「ただの絵だと⁉ これはな、オレたち《人型術式》――つまりはヒューマギアを呼び出す、特別な絵なんだよ!」

「ヒューマギア? 何それ、アニメ?」

「違う! 魔法の一種! それはオレを呼び出す魔法陣!」

 あたしはびっくりして、サクヤの顔とプリントの絵を交互に見る。

 この絵を描いたから、サクヤを呼び出しちゃったってこと?

「……おまえ、ほんと何も知らないんだな。だから魔法陣も、ド下手くそで適当なのか。最悪だ、こんなのと契約してしまうなんて」

 サクヤがぽつりと呟く。

 えっ、あたし今、こんなのって言われたの? しかも、落書きにまで下手くそだのケチ付けられた? ただの落書きなのに? 初対面なのに⁉

 それに――

「契約って何⁉」

 混乱して叫ぶみたいに聞くあたしへ、サクヤはムカついたような視線を向けた。

「オレとおまえの契約だよ。たった今から、おまえがオレの主人だ。非常に、ひっじょーに、残念だけどな!」

 なに、それ。あたし、ただ落書きをしただけなのに……⁉

 ていうか、どうして初対面の相手に、そんなことを言われないといけないワケ?

「おまえは、ヒューマギアの使い手――つまりは、《魔法使い》になったってことだ。いいか、新米魔法使い。オレがこれから、魔法使いの心得ってものを――」

 グシャグシャ……ポイッ。

「お、おい! 何してるんだおまえ!」

 宿題プリントをぐしゃぐしゃに丸めて、ごみ箱に捨ててみる。

 それでも、サクヤは消えてくれない。

「おまえ、それ宿題じゃないのか! おい聞いてるのか、八代環奈!」

「うるさいなぁ! どうせできないから、いいんだって!」

 あたしはサクヤをキッとにらんで、唇を噛んだ。

「よく分かんないけど、あたし、あんたの言う通りになんかしないからね‼」

 踊り場のユガミ

 次の日の朝、あたしは濃い隈を作って、通学路をとぼとぼ歩いていた。

 昨日の夜は、あの後もサクヤとの口ゲンカが続いて、お母さんにも「なに一人で騒いでるの!」って怒られて……。

 お母さんにはサクヤが見えていなかったから、あたしは何も言い訳できなかった。

 ……で、怒られているあたしをよそに、そそくさと部屋を出ていったサクヤは……。

「おまえ、とうとう宿題をやらなかったな。常習犯か?」

 いつの間にか戻ってきて、あたしの横で、ふんと鼻を鳴らしている。

 ――そう。結論から言うと、何をやってもサクヤは消えなかった。

 それどころか、あたしから一キロメートル以上離れると消えるとかで、学校にまで付いてくる始末。

 昨日の夜も、今は誰も使っていない物置部屋に居座って、まるで自分の部屋みたいにくつろいでいた。まあ、あたしの部屋を使われるよりはマシなんだけど……。

(お母さんだけじゃなくて、あたし以外の誰もサクヤが見えなかったら、やだな。学校でうっかりサクヤと喋ったら、あたし、一人で喋ってるヤツになっちゃうよ……)

 はぁ~~。

 朝からずっと、ため息が止まらない。寝不足だし、こんなことになっちゃうし。

 学校の正門をくぐると、あたしの気分はますます落ち込んで、二度目の大きなため息とともにがっくり肩を落とした。これは今日に限った話じゃないけど。

 あたしの通う学校――私立清咲学園には、小学校にあたる初等部から、中等部、高等部まであって、とんでもなく広い敷地を誇る。

 で、残念なことに、あたしの目的地である中等部が、正門から一番離れたところにあるんだよね。こういう時ばっかりは、初等部の頃に戻りたくなる。

(……あっ)

 中等部の校舎のすぐ近くまでやって来たところで、道の先に停車するリムジンが見えた。

 中から出て来たのは、うちの学校の生徒でも一番のお金持ちなんじゃないかって言われてる、星名エリカ先輩。

「「エリカ様~っ‼」」

 彼女の周囲を、近くで待機していた女の子たちが、すぐに取り囲んだ。

 しばしば見る光景なんだけど、いつ見てもその勢いに圧倒される。

「おい、なんだあれ。すごいな」

「いいよねぇ、車で登校なんて……」

 日傘をさして昇降口の方へ歩いていく星名先輩の背中を見つめて、あたしは立ち止まる。

 ていうか何、リムジンで登校って。そんな絵に描いたようなお金持ち、いるんだ。

 まぁ、そういうマンガみたいな人って、うちの学校には珍しくない。

 今日は見なかったけど、三年には学園の王子様って呼ばれてる先輩がいて、今の星名先輩みたいに、大勢の女の子に囲まれて登校しているところをたまに見る。

 あたしは正門から、一人さみしく歩いてるんだけどね!

 ……ほんとは、いつも一人ってわけじゃ、ないんだけど。

 星名先輩たちが校舎に入った後で、あたしも中等部に辿り着き、下駄箱で靴を履き替える。

 いつもならこの辺りで、多少は元気になるんだけど……今日のあたしは、ずっとブルー。

(今日は、しずかもいないしなぁ)

 ――月島しずか。同じクラスのあたしの大親友で、超クールな美少女。

 いつもは一緒に登校するんだけど、今日は病院に行っているみたいで、学校には三時間目にならないと来ないらしい。薬をもらいに行くだけなんだけど、どうしても予約が取れなくて、平日の午前になっちゃったんだとか。

『ごめん、八代。帰りは一緒だから』

 昨日、あたしのスマホに送られてきた、普段の口調と全く同じメッセージを思い出す。頭の中で、どうしてもしずかの声で再生されるから、少しだけさびしいような気持ちになる。

 要するに、一人で歩く通学路は久しぶりだった。……実際は、一人じゃないけど。

 だって隣を、当たり前みたいにサクヤが歩いてるし。

(でも、コイツがいるから、ある意味ラッキーだったかも?)

 もし、一人でぶつぶつ喋ってるって理由でしずかにおかしな目で見られたら、あたし、もう立ち直れない。サクヤなんていないふりをすることに慣れないと。

「おい環奈、おまえの教室は? おまえ、一年だから一階か?」

「違うし、一階じゃなくて三か――」

 んんっ、と飲み込むみたいに咳をする。

(慣れるわけ、ないじゃん……)

 ずんずんと廊下を早足で進み、昇降口から向かって左側の端にある西階段を、一段飛ばしで登っていく。

 おいスカートだろ、はしたないぞって聞こえてくるけど、無視。

 そうして踊り場までやって来て、くるりと踵を返そうとした、その時。

「……うん?」

 視界に入ったのは、踊り場に立てかけられた、あたしの膝下から頭の少し上くらいまである、大きな鏡。……そういえば、中等部に上がったばかりの頃、この鏡にまつわる七不思議なんかも聞いたっけ。

 まじまじと鏡を見つめるあたしの脇を、生徒たちが通り過ぎていく。

 誰も鏡なんか気にも留めてない――けど。

(なんか……歪んでる?)

 あたしは、鏡の真ん中をそっと触ってみる。そのまま手のひらを鏡の表面に滑らせてみるけど、ちゃんと平らで、凹んでいたりはしない。

 それでも、あたしの制服のリボンを映した辺りが、なぜか大きく歪んでいる……ような。

「なんだ、おまえ。早速《ユガミ》を見付けたのか」

「うわっ⁉」

 後ずさりながら隣を見ると、いつの間にか至近距離でサクヤが鏡を見つめていた。

 急に視界に綺麗な顔が飛び込んでくるから、びっくりした……!

「な、何、ユガミって?」

「まあ、知らないよな。ユガミっていうのは――」

 すんなりと説明を始めようとしたサクヤの声に、それとは全然違う、爽やかでお気楽な声が重なった。

「おはよー、八代さん」

 声のした方を振り向くと、そこにはクラスメイトの汐田くんが立っていた。

 汐田望くん。明るくて優しいけど、ちょっとミステリアスなクラスメイト。

 いつも作り物みたいに綺麗な笑顔を浮かべてて、何を考えてるか分かりにくい。明るい茶髪と、ほどほどに着崩した制服のおかげで、近寄りがたさは無いんだけど。

 ……あたしは、正直なところ、少し苦手な相手。

「今日は宿題、持ってきたかよ?」

「イイエ……」

「ふーん? これで三回連続だな。まあ、いいけど」

 これ! これが苦手なんだよね、表に出さずに怒ってくる感じ!

 でも、今日の小言はここまでみたい。汐田くんはあたしの隣に並び立つと、鏡の方をじっと見つめた。

 やっぱりサクヤのことは見えていないみたいで、サクヤと半分くらい体が被ってる。見えない人相手だと、サクヤは透けてしまうらしい。

「……あのさ、八代さん」

 鏡を見ていた汐田くんが、静かな目をあたしに向ける。

「この鏡に、何かおかしなところでもあんの?」

「――え?」

 あたしの答えを待たずに、汐田くんは、ちょうど後ろを通り過ぎようとした男子に声をかける。隣のクラスの、テニス部の子だ。

「なあ、この鏡、いつもとちょっと違わねえ?」

「え?」

 男子はカバンを肩に掛けなおして、まじまじと鏡を見つめる。

 そして。

「……いや、別に普通じゃね?」

「そう? じゃあ、おれの思い違いかもな」

 男子は「なんだよ、それ」と笑って、足早に去って行ってしまった。

 ずっと汐田くんに重なられていたサクヤが、イラっとした顔で一歩ずれると、両腕を組んで汐田くんをじろりと見る。

「なんだ、こいつ。……ユガミが見えてるのか?」

「えっ、これ、見える方がおかしいの? ……あっ」

 うっかりサクヤの言葉に反応してしまう。

 でもこれ、汐田くんとの会話だとしても、ごく自然だよね?

 あの男子と、見える見えないの話をしてたし……って、思っていたんだけど。

「八代さん、誰と話してんの?」

 あたしの視線は汐田くんじゃなくて、その隣にいるサクヤへ向けられている。

 汐田くんは、あたしの視線の先を追って、そこへ右手をかざした。

「うわっ」

 サクヤがびっくりして飛び退く。汐田くんの手は、やっぱりサクヤをすり抜けた。

「……ここに、誰かいる?」

 右手を握ったり開いたりして、サクヤの方を見つめる汐田くん。

 ごまかすのが面倒になってきたあたしは、無言で頷いた。視界の端でそれを見たのだろう汐田くんが、少し驚いた様子で息を呑む。

「そっか。……いるんだな」

 サクヤは不思議そうに眉を寄せて、汐田くんから少し離れた。

 もちろん汐田くんはそんなことに気付いていないから、あたしの方に向き直って、みんなの前に立った時のように爽やかな笑顔を浮かべる。

「今日の放課後、少し残れよ。話したいことがあるんだ」

 それだけ言うと、汐田くんはあたしたちに背を向けて、階段を上っていってしまった。

 サクヤはどうも汐田くんのことを怪しんでいるみたいで、その背中へ未だに刺のある視線を送っている。あたしからすれば、初等部の頃から知っている汐田くんより、昨日急に現れたサクヤの方がずっと怪しいんだけど。

「そういえば、言ってよかった? サクヤのこと」

「言ってから聞くなよ、大丈夫だとは思うけど。……と言うか」

 サクヤは右手を腰に当て、あたしの方を振り向いた。

「おまえ、遅刻じゃないのか?」

「え? ……あっ」

 直後、始業を告げるチャイムが人気のない廊下に響く。

 汐田くんに取り残されたあたしは、慌てて階段を駆け上がった。

3 魔法使いの秘密組織⁉

 二時間目が終わる頃には、サクヤはいよいよ飽きてしまったみたいで、教室を出て図書室に行ってしまっていた。見えないからって、やりたい放題だ。

 六時間目までの授業と、掃除、そしてホームルームを、いつも通りにやり過ごす。

 すっかりサクヤのことなんて忘れて、カバンを肩に掛けた、その時。

「八代、帰ろう」

 凛とした声が、あたしの耳に届いた。

「しずか!」

 三時間目の途中から教室に入ってきた、あたしの大親友のしずか。

 彼女はそよ風に長い黒髪を揺らしながら、窓の向こうの日差しを背に立っていた。

 帰りはいつも一緒だから、断る理由なんかない。あたしは少し離れた席のしずかのところへ、うきうきしながら急ぐんだけど――。

「悪いな、月島。今日はおれが、八代さん借りるぜ」

 帰り支度を終えた汐田くんが、あたしたちのところへやって来た。

 しずかはムカついた顔で汐田くんを見る。

「わたし、昨日の夜には予約してたんだけど。わたしが先じゃない?」

「急ぎなのはおれの方。わがまま言うなって、月島」

 しずかが、きゅっとこぶしを握るのが見えた。

 汐田くんって、優しくて頼りになる! って理由でモテるんだけど、宿題をサボりがちなあたしや、付き合いの長いしずかには、ちょっと感じの悪いところがあるんだよね。

「だったらさ、しずかも一緒でいいじゃん。汐田くんの用が終わったら、あたし、そのまましずかと一緒に帰るから」

 しずかの制服のシャツをこっそりつまむ。離れるつもりはないからね、って意味で。

 ……でも、汐田くんは。

「だめ。月島は連れていかない」

 そう言い切って、くるりと踵を返す。

「今朝のこと、気になるだろ。……図書室の前で、待ってるからな」

「あ……」

 教室を去っていく汐田くんの背中を見送って、何も言えなくなる。

 今朝のことっていうのは、きっと、あの鏡のことだ。それに汐田くんは、見えてこそいなかったけど、サクヤのこと――というか、あたしにしか見えない何かがいるってことを、ちゃんとわかっているみたいだった。

(どうしよう……しずかとの約束を破りたくない、けど)

 でも、今朝のことを無かったことにして帰るのは、違う。

 このモヤモヤを晴らしたいなら、きっと、汐田くんの話を聞くしかない。

「あの、しずか……」

「行ってきたら?」

 しずかが、あたしの背中をぽんっと押す。

「よく分からないけど、何かあったんでしょ。だったら、行ってきた方がいいよ」

 しずかの優しくて、柔らかな視線が、あたしに向けられている。

「……うん」

 あたしはしずかの言葉に甘えて、ひとまずは汐田くんの話を優先することにした。

 ……教室を出るあたしを見つめる、しずかの目じりが、さびしそうに歪められていることになんて、ちっとも気付かないまま。

 *

 図書室の前までやって来たところで、中から出て来たサクヤにバッタリ出くわした。

 汐田くんはあたしのことを待っていたみたいで、あたしを見付けると、ひらひらと手を振ってくれたんだけど……その小指が透けたサクヤに刺さっていて、気になる。

「えーっと、それじゃあ早速……と言いたいところなんだけど、ここじゃ目立つよな」

 きょろきょろと辺りを見回す汐田くん。そして、近くに誰もいないことを確認すると、窓際の壁の、薄いシミがあるところにぺたりと手をついた。

 ――すると。

「うそっ、汐田くん、手が!」

 シミに触れているところから、汐田くんの手がずぶずぶと壁に飲み込まれていく!

「やっぱり、アイツ……」

 サクヤは少し驚きながらも、ただその様子を見守っているだけで、何もしない。

 あたしはいてもたってもいられず、慌てて汐田くんに手を伸ばした。しかし彼は、伸ばされたあたしの手を握って、振り向きざまに微笑む。

「大丈夫、付いてこいよ」

 どうしたらいいか分からず、助けを求めるつもりでサクヤの方を振り返る。

 サクヤがこくりと頷くのを見て、あたしは汐田くんの手を握り返した。

 いつの間にか、汐田くんの姿は完全に見えなくなっていて、あたしの体も半分くらい壁の中に埋まっている。

 サクヤも、あたしたちに続いて手を埋めて、一緒に飲み込まれていく。

(暗い……っ!)

 壁の中は、完全に外の世界から切り離されたような暗闇に閉ざされている。

 心臓がばくばく鳴っていた。怖くて仕方なくて、ぎゅっと目をつむり、すがるように汐田くんの手を強く握る。

 ――でも、少しすると、まぶたの向こうの暗闇が晴れてきて。

 話し声が、聞こえてきた。

「――01ですって? 彼の魔法陣は見付かっていないはずでしょう」

「そうなんだよ。だから、彼のパートナーが、どうやって魔法陣を入手したのか……」

 どっちも聞いたことがあるような、女の人と、男の人の声。

 やがて、汐田くんに続いて、あたしの体も壁を抜ける。

「こんにちはー」

 呑気に汐田くんが言った。あたしはぱちぱちと目を瞬かせて、辺りを見回す。

 そこは、教室だった。机はないけど、教室の真ん中に、長机が二つ並んでいる。

 それを囲うようにパイプ椅子が置かれていて――あたしの目は、そこに座る二つの人影をとらえた。

「星名先輩⁉ ……と、一柳先輩‼」

「あ、来た来た! こんにちはー、新人魔法使いちゃん!」

 一柳先輩があたしを見て、こちらへと駆け寄って来る。

 ――一柳流星。清咲学園中等部が誇る、王子様系イケメン。

 間近で見るのは初めてだけど……うーん、さらさらの金髪が、すごくまぶしい!

「カンナちゃん、だったよね。ノゾムから話は聞いてるよ。それで……」

 一柳先輩の目が、すうっと細められる。

「キミが、術式コード01だね。会えて嬉しいよ」

 その視線は、少し遅れてやって来たサクヤの方に移った。

 術式コード01って、なんのことだろう? と思ったんだけど、そういえば昨日、サクヤが名乗った時に、そんなことを言っていたような気がする。

 サクヤはずいっとあたしの前に出て、一柳先輩と星名先輩を交互に見た。

「おまえら、全員魔法使いってわけか」

「そういうこと。ボクは一柳流星、三年生だ。……新人魔法使いちゃん、ボクとキミの出会いを記念して、これをあげよう!」

 一柳先輩は王子様みたいな仕草であたしの手を取って、深い赤色のカードをくれた。

 なんだろう、と思いつつ、あたしはそこに書かれた文字を読む。

「『一柳流星、涙の卒業サイン会』……の、整理券?」

「そう! ほら、ボクって三年だし、外部受験だから、今年でいなくなるでしょ? だから、早めに卒業式の後のサイン会を計画したんだけど……いやぁ、これ配布を開始した日の夕方には配布が終了してしまってね! あ、もしかして、もう持ってる? あっちゃーボクってば、その可能性を考えてなかったな~!」

 えっ、そうなんだ。

 他学年だし、サイン会のことも、外部受験のことも、初めて知った。……他学年だからってより、興味がない、の方が近いかも。

「おい、環奈。こいつ、頭がおかしいぞ」

 サクヤが整理券をあたしから奪って、ぐちゃぐちゃに丸めた。

 あーっ! と悲鳴を上げて、一柳先輩がサクヤから整理券を取り返す。

「ちょっと、このヒューマギア、感じ悪くない⁉ これどんだけ貴重だと思ってんの!」

「一柳さん、早くそのゴミを処分なさいな。同じ魔法使いとして恥ずかしいわ」

 それを見ていた星名先輩が、冷たい声で言い放った。

 一柳先輩じゃないけど、あたしもゾッとして背筋を伸ばす。

「わたくしは星名エリカ。……ふうん、それが術式コード01ね?」

 星名先輩は、頭のてっぺんからつま先まで、まじまじとサクヤを見る。

 そんな視線に、サクヤは居心地悪そうに肩をすくめた。

「サクヤだ。……おい、ここは一体なんなんだ?」

 両腕を組んで、星名先輩は自慢げに胸を張る。

「魔法使いの集まる、秘密の部活――その名も、魔法研究部よ!」

4 秘密組織の入部テスト

「ま、魔法研究部……⁉」

 何、その超カッコイイ響き。あたし、そんな場所に招待されちゃったの⁉

 目をきらきらさせるあたしに、星名先輩がコホン、と咳払いをする。

「とは言っても、わたくしたちが魔法使いだから、そう呼んでいるだけのこと。実際は楽しいというよりも、危険な部活動ですのよ。わたくしたちは、学校内に現れるユガミを消すための組織なんですもの」

 ――ユガミ。

 それって今朝、西階段の踊り場の鏡で見た、アレのことだよね。

「……ユガミはね、名前からして分かると思うけど、あまりいいものじゃないから。放っておくと、一般の生徒たちに危険が及ぶし、見えるボクたちが対処するしかないんだよ」

 さっきまでとは打って変わって、一柳先輩もすごく真剣な表情をしている。

 あたしの隣で、サクヤが「へえ」と興味深そうに相槌を打った。

「なるほどな。魔法使い同士で助け合ってるのか」

「そういうこと。人数も少ないしね~」

 サクヤと普通に受け答えしている一柳先輩を、汐田くんは不思議そうに見る。

 そっか。汐田くんには、サクヤが見えていないんだっけ。

「……あれ? そういえば、先輩たちは、どうしてサクヤが見えるんですか?」

 不思議に思ってあたしが尋ねると、一柳先輩と星名先輩は顔を見合わせた。

「見えるも何も……魔法使いは、自分のパートナーじゃなくても、ヒューマギアは見えるものなんだよ。そこのノゾムみたいに、見えない方が特殊」

「そういうこと。おれ、パートナー以外のヒューマギアは、だーれも見えないんだよな。多分だけど、みんなと比べて、適正がないんだよ」

 困ったみたいに笑う汐田くん。

 でも、そこであたしの中に、もう一つの疑問が浮上した。

「あれ? でも、あたしもサクヤ以外のヒューマギアは見てないような……」

「当然よ。今はあなた以外、誰も出していないもの」

 そう言って、星名先輩はパイプ椅子から立ち上がり、あたしの前に出てくる。

「《スリープ》、と唱えてごらんなさい」

 その言葉を聞いて、サクヤが「げっ」と小さくぼやいた。

 首をかしげつつ、あたしは言われた通りに口を開く。

「……《スリープ》!」

 ――すると、すぐそばにいたサクヤが、フッと姿を消してしまった!

「えっ⁉ な、なにこれ!」

「安心なさい、一時的に消えているだけよ」

 慌てふためくあたしに、落ち着いた声で星名先輩が言う。

 でも、これ、どうしたらいいの? どうすれば、もう一度見えるようになるんだろう。

「出す時は、名前を呼んであげて。術式コード01、サクヤ……ってね! 呼び出してあげられるのは、パートナーのキミだけだから」

 あたしの疑問を見透かしたみたいに、一柳先輩が教えてくれる。

 名前を呼ぶために、あたしは、すぅっと息を吸い込んだ。

「術式コード01、サクヤ!」

「――なんで教えたんだ!」

 そして、まばゆい光とともに現れたサクヤが、星名先輩に叫んだ。

「なんでって、困るでしょう。ずっとそこにいられると」

「こいつは悪用する! 都合が悪くなったら、すぐにしまうぞ! バ環奈だから‼」

 はぁ⁉ バ環奈って、あたしのこと⁉

 ふうん。そっちがその気なら、もう、あたしがやることは一つだよね。

「《スリープ》‼」

 もう一度、星名先輩に教わった魔法の言葉を唱える。

 すると、怖い顔であたしをにらんでいたサクヤは、何も言えずに姿を消した。

「乱暴だなぁ、八代さん」

 黙って見ていた汐田くんが、苦笑いする。

「だって、バ環奈って言われたんだよ! ひどくない⁉」

「あっ、それはひどいかも。……気難しいんだ、術式コード01って」

 しみじみと言う汐田くんに、あたしはうんうんと何度も頷いた。

「口悪いし、ずっとムスっとしてるし、いいところないよ」

「わからないよ。八代さんが知らないだけで、実はすごく優しいのかも」

「えーっ、絶対ない! 有り得ない! 汐田くんも見れば分かるよ!」

 気まぐれにサクヤの肩を持つ汐田くんが、すっごくもどかしい。あの極悪人の顔を見せてあげたいのに、それもできないなんて……!

 悔しくてこぶしを握るあたしに、汐田くんが落ち着いた声をかける。

「見ただけじゃ分からないこと、沢山あるだろ。一緒に過ごさないと分からないことも。だって、八代さん知らないでしょ? ……おれが実は、人間じゃないってこと」

「えっ、うそ……」

「お、よく分かったね。本当なわけないじゃん、人間だよ」

 あっさり嘘だと認めて、にこやかに笑う汐田くん。

 じわじわと、沸騰するみたいに顔が熱くなっていくのを感じる。

「ちょっと、汐田くん! そういうのやめてよ!」

「そうだよ~、ノゾム。女の子をいじめるのは良くないなぁ」

 一柳先輩は汐田くんの額にデコピンして、あたしの方へ向き直った。

「さて、話がそれちゃったけど……キミには、ボクたちと一緒に、ここで活動してほしいんだよね」

「一緒に活動……ですか?」

 急なお誘いに、あたしは目を丸くする。

 だって、一緒に活動するってことは、あの鏡で見た何かを、あたしがなんとかしないといけないってことだよね……?

 あたしが考え込んでいると、星名先輩が、パイプ椅子に座って長い足を組んだ。

「一柳さん。まずは、入部テストの話からではなくて?」

「入部テスト? そんなのがあるんですか?」

 そう聞き返すと、名前を呼ばれた一柳先輩が説明を始める。

「うん。危険がある任務を任せられるか、先に確認しないといけないからね。……あっ、ルールは簡単だよ! 今朝、西階段の踊り場の鏡に出たユガミを消してくること。もちろん、ノゾムの手は借りずにね」

 簡単でしょ? と言ってウインクする一柳先輩。

「ゆ、ユガミを消すって、どうやって……」

「ユガミの中に入って、そのどこかにある《コア》を破壊するんだ。水晶みたいな見た目の、大きなガラス玉だね」

「中に入る⁉︎」

 すっとんきょうな声を上げ、思わず後退りするあたし。

 それって、もしかして……。

「この部屋に入った時、シミに手を突っ込んだでしょ? それと同じ要領でやればいいよ、簡単カンタン!」

 いや、全然簡単じゃないんですけど……。

 さあっと顔を青くするあたしを庇うみたいに、汐田くんが隣に立つ。

「流星センパイ、あんまりそういうこと言わないでやってくださいよ。八代さん、ここへ来る時も、おれの手を必死になって握ってたくらいなのに」

「べ、別に、あたしは……」

 反論しようとした声もあまりに元気がなくて、自分で自分にびっくりしてしまう。

 すると、いよいよあたしの様子が普通じゃないことに気付いたのか、柔らかかった一柳先輩の表情が変わる。

「カンナちゃん?」

「無理、無理です。絶対に、無理……‼」

 あたしは俯いて、首を横に振る。

 どうせ上手くできっこない。怯えて、何もできなくなって、失敗するに決まってる。

「そんなことなら、サクヤも、あたしじゃない誰かに託します。パートナーも解消します、だから――」

 ……その時、あたしの頭に、ぽんっと誰かの優しい手が乗せられた。

「そうだね。急にこんなことを言われて、戸惑うのは当たり前か。ごめんね、カンナちゃん」

 一柳先輩の、手だ。

 先輩は眉を下げて微笑むと、星名先輩の方をちらりと見る。

「……ボクとエリカは、どっちも三年生だから、来年の春にはもういない。特にボクは、清咲学園の生徒ですらなくなってしまう」

 そして――悲しげな表情をして、汐田くんに視線をやった。

「このままだと、ノゾムが一人になるんだ。普通より危険なユガミも、ぜんぶ一人で対処することになる」

「あ……」

 一柳先輩の言う通りだ。

 急に話を振られた汐田くんは、ちょっと困った様子で首の後ろをかいて、ため息を吐く。

「おれの事情だから、それを八代さんが気にする必要はないけど……でも、事実として、そうなんだよな。互いの秘密を知ってて、協力し合える魔法使いは、先輩たちだけだから」

 力なく笑って、汐田くんは後ろの壁に背中を預けた。

「でも、八代さんを逃したら次がない、ってわけじゃないぜ。だから、無理なら辞めても大丈夫。……ただ、もう少しだけ、考えてみてくれない?」

 普段の汐田くんからは考えられないような切実さに、胸がチクリと痛む。

 どう返したらいいか分からずに、あたしが黙りこくっていると、しびれを切らしたように星名先輩が立ち上がった。

「逃げ道を無くすようなやり方はおやめなさい」

 星名先輩は、じろりと一柳先輩を見下ろす。そして、あたしの方を横目に見た。

「そこのあなた、八代環奈と言ったかしら? ……入部テストに、一週間の期限を設けるわ。一週間経ったら、わたくしがユガミを消しに行きましょう。それまでにあなたがユガミを消せたら、入部テストは合格よ。降りるとしても、わたくしたちに言いに来る必要はないわ。だから――」

 あたしは、ここでやっと気づいた。

「あなたが、自分の意思で決めなさいな」

 ――星名先輩は、あたしに寄り添って、考えてくれているんだ。

5 ヒューマギアの契約

 どっと疲れて、重い足取りで昇降口へ向かうあたし。

 図書室は校舎の西端にあるから、すぐ近くに西階段があるんだけど、遠回りをして東階段へと向かっていた。なんとなく、ユガミを見たくなかったんだ。

 不幸中の幸いだったのは、部室から出る時は、扉を使えばそのまま図書室の前に出られたこと。入口はあのシミだけど、出口は図書室の扉に繋がっているみたい。

(もうあんな体験、二度としたくない……)

 シミを使って部室へ向かった時の真っ暗闇を思い出して、ゾッとする。

 でも、ユガミに入るってことは、またあんな暗闇の中に飛び込まないといけないってことだよね。

 星名先輩に言われた期限は一週間。

 今日は火曜日だから、つまりは来週の火曜日までにどうにもならなかったら、入部の話はナシ。

 そりゃあそうだよね。部員のみんなは陽気で明るい雰囲気だったけど、その実、自分の身を危険にさらして、この学校の安全を守ってるんだ。中途半端な人間を引き入れるような真似、するはずがない。

『……おい、環奈』

「ぎゃっ⁉」

 不意に、頭の中に直接声が響いてきた。

 魔法研究部の部室を出てから、一度も聞いていなかった声――サクヤの声だ。

「ちょ、ちょっと! 今、どっから話しかけてきてんの⁉」

『流石に、消されてから時間も経ったからな。なんとなく勝手がわかってきた』

 ふふん、と自慢げに鼻を鳴らす様子まで、あたしのところへばっちり届いてくる。

 これじゃあ、あんまりしまった意味がないじゃんか!

 あたしが文句の一つでも言ってやろうと口を開いた、その時。

『……おまえ、オレとのパートナーを解消するって言ってただろ』

 今までとは全然違う、弱気な声で、サクヤが話し始めた。

(えっ、聞こえてたんだ。なんか、ちょっと気まずいかも……)

 どうしよう。どう返したら、いいんだろう。

 あたしが上手く答えられずにいる中、サクヤは続ける。

『もしそうなら、早く言ってくれ。オレは、そのやり方を知ってるから』

「え? ……なに、急に」

 あたしはサクヤの表情を伺おうとした。

 でも、ここにいないサクヤの顔なんて、見えるはずもない。

『パートナーを解消すると、オレたちヒューマギアは、主人のことを全部忘れるんだ。だから、本気で解消するつもりなら、早くしてほしい』

 ――全部、忘れる。

 その言葉に、どきりと心臓が跳ねた。

 ……知らなかった。ヒューマギアに、そんな性質があるなんて。

「一緒にいる時間が長くなって、思い出が増えたら、辛くなる……ってこと?」

『どんなに大事な相手でも、忘れたことすら分からなくなるから、辛くはない。……それでも、やっぱり、心にぽっかり穴が開いた感じがするから』

 なんとなく、わかってしまった。

 ……サクヤは知ってるんだ。『ぽっかり穴が開いた感じ』を。

 出会って間もないあたしたち。だからこそ、失う記憶の量自体は少ないし、特別仲がいい訳でもないから、パートナーを解消するなら早い方がいいっていうのは、わかる。

 ……でも、解消されたら、サクヤはどうなるんだろう。

 普通に外を出歩けるのかな。そうじゃないなら、どういうところに行くんだろう。意識はある? 誰かと話せる?

 もし、全部できなくて、一人ぼっちなら……それは、考えただけでも辛い。

 出会ったばかりの小憎たらしい相手だとしても、あまりに可哀想だ。

「ごめん。もうちょっとだけ、待ってて」

 ぽつりと呟くと、それ以上、サクヤは何も言わなかった。

 ――その時、カバンに入れたスマホから通知音が聞こえた。

 学校へ来た時に電源は切ったはずなのに、なんで鳴るんだろう? と思ったけど、部室を出る時に電源を入れたんだった。一柳先輩と連絡先を交換するために。

 あたしはメッセージアプリを起動して、新着メッセージを確認する。

(……しずかからだ!)

 嬉しくなって、あたしはしずかとのトーク画面を開いた。

『明日は一緒に帰ろう』

『何かあったら、気を遣わずに言ってね』

 届いた二つのメッセージに、胸がいっぱいになる。

 やっぱり、気付いてるのかな。それだけ、あたしのことを見てくれてるんだろうけど。

 でも……心配、かけたくないな。

『なんでもないよ。大丈夫!』

 最後に笑顔の絵文字を付けて、送信。

 隠し事をするのも嫌だけど、これから『大丈夫』を本当にしていけばいい。だから、入部テストが終わって、心配させるようなことがなくなったら、ちゃんと話すんだ。

 あたし一人でもできたって知ったら、きっと、しずかもあたしを心配しない。

 ――『そっか、がんばれ』って、笑ってくれるから。

6 あたしじゃ、どうせ…

 次の日の朝。

 今度こそ、あたしはしずかと一緒に校門をくぐった。

 昨日からサクヤの姿は消したまま。昨夜、一度外に出してあげようかなって思ったんだけど、迷った末にやめちゃったんだよね。

 今朝も、しずかに魔法研究部のことは何も話していない。いつも通り、昨日の宿題のことや、委員会のことを話しながら、中等部までの道を歩く。

 ……すると。

「「キャ――ッ! 一柳くーん(せんぱーい)‼」」

 大勢の女の子たちの黄色い声が、前方から聞こえてきた。

 その大群のど真ん中、頭一つ分高いところに、さらさらの金髪が見える。

 ……昨日の星名先輩に続いて、今日は一柳先輩かぁ。

 そんな風に思いながら、あたしが金色の頭を見つめていると――不意に、その王子様みたいな髪がひるがえって、長いまつ毛に縁取られた目と、視線が絡んだ。

 あ、とあたしは口を開ける。でも、一柳先輩は何も言わずに、ただニコリと目を細めて微笑むだけだった。

 一柳先輩を囲む女の子たちの悲鳴が、いっそう大きくなる。

「……一柳先輩、いま、八代に向かって笑った?」

「えっ? あ、えーっと……どうだろうね?」

 不思議そうにあたしを見るしずかを、なんとかごまかす。

 その後、もう一度先輩の方を見たけど、先輩はすでに歩いて行ってしまっていた。

 ――冷たくされたわけじゃ、ないと思う。

 どちらかと言うと、気を遣われた?

 あたしが少し考えていると、後ろからトン、と肩を叩かれた。

「おはよ、八代さん。宿題は?」

 そこに立っていたのは、いつもと変わらない様子の汐田くん。

 汐田くんはうちのクラスの宿題を集める係だから、朝に顔を合わせたら、いつもこのお馴染みのやり取りが始まるんだよね。

「今日はやってありますー」

「お、ほんと? めずらしー、偉いじゃん」

 へらりと笑って、汐田くんはあたしの左隣に並んだ。

 右隣を歩くしずかは汐田くんをいちべつして、すぐに視線を前へ向ける。

 うーん。この二人、やっぱり仲悪いのかな。

 あたしがしずかと仲良くなったのは初等部の五年生の頃で、汐田くんとしずかはそれより前から付き合いがあったはずなんだけど……確か、六年生の時、運動会の少し前くらいから、しずかが汐田くんに冷たく接するようになったんだよね。

 当時は汐田くんのことなんて何も知らなかったから、あたしが口を挟んじゃいけないような気がして、何かあったの? ってしずかに聞くこともできなかった。

 ……付き合いが長いからって、ずっと仲良くできるわけじゃないよね。そんな風に、なんとなく納得してたっけ。

「ちなみに、聞くまでもないと思うけど、月島は?」

 と思っていたら、汐田くんは平然としずかにも話を振った。

 でも、しずかの返事は素っ気ない。

「やった。興味もないのに聞かないで」

「興味がないんじゃなくて信用してるんだよ、月島に関しては。……それとも何? たまにはおれに褒められたい?」

 たぶん汐田くんとしては、なんの気なしに発した一言。

 でも、それがしずかを怒らせちゃったみたいで……。

「~~っ、バカにしないで! ……ごめん八代、わたし、もう行く‼」

 そう言い放って、しずかは小走りで昇降口へ走って行ってしまった。

 しずかのいつものクールな雰囲気はどこかに消えてしまっていて、あたしはびっくりしたまま立ち止まる。

 一方で隣の汐田くんは、「また怒らせちゃったかぁ」なんて言いながら後頭部をぽりぽり掻いていた。

「……あのさ、汐田くん。しずかには話してないの? 魔法使いのこと」

「話してないよ。話すわけないだろ」

 汐田くんの目が、小さくなっていくしずかの背中を追う。

「おれは、無関係な人間には何も話さない主義なんだ。魔法使いのことも、もちろんユガミのこともな。そういうことを何も知らずに、平和で安全な学校生活をみんなに送ってもらうことが、おれたち魔法使いの役目だって思ってるから」

 いつになく真剣な表情に、あたしはハッと息を呑む。

 ――そっか。汐田くんって、のらりくらりとしているようで、そういうことをすごく真剣に考えているんだ。

 ……なーんて思ったのもつかの間。

「ま、月島みたいにマジメで勘のいいヤツにバレると、後々めんどくさそうっていうのが本心かもなー」

「ちょっと、人の親友にそういうこと言わないでくれる⁉」

 冗談めかして笑う汐田くんに、あたしは声を荒げた。

 ごめんって、と肩をすくめる汐田くんに、反省の色はない。

「でも、意外だな。八代さんは、もうとっくに月島に全部話してると思ってたけど……もしかして、話してない?」

「え? うん。だってしずかだし、あたしを心配するのは分かりきってるから……」

「お、すごい自信。おれが言っても『ふーん』で終わりそうだけど、八代さんじゃそうはならないかぁ」

 そう、なのかな。

「……初等部の頃とは、みんな違うんだよな。月島のことは、もう、おれより八代さんの方が詳しいだろ。おれだって今は、月島のことより、八代さんのことの方が、よく分かるしさ」

「よく分かる? 何が?」

「宿題の提出率。あと、教科担当の先生に怒られた回数?」

「げっ、最悪!」

 あたしは虫を払いのけるみたいに、しっしっ! と汐田くんに追い払うような仕草をする。汐田くんは「事実だろうがよー」と不満げに言うけど、怒ってはいないみたいだった。

 ……ていうか汐田くん、踊り場の鏡や魔法研究部、それから入部テストのことは、何も言ってこないんだ。

(やっぱり、一柳先輩も汐田くんも、あたしに気を遣ってるのかな……)

 サクヤはどう思ってるんだろう。

 パートナーがあたしでいいって思ってる? 入部テスト、どうせ無理だって思ってるのかな。

 あたしは……どうだろう。

 逃げずにユガミへ入りたい。でも、心のどこかに、『あたしじゃどうせ無理』って思っている自分もいて。

 昔から、その言葉で全部諦めてきたような気がする。宿題も、勉強も。

 どうしたら、この考えが消えてくれるんだろう。

 どうせ無理じゃなくて、きっと大丈夫って、思えるようになるんだろう……。

7 ユガミが生むもの

 下駄箱まで来ると、委員会に関する話があるとかで、汐田くんは隣のクラスの男の子に連れられて先に行ってしまった。

 一人になったあたしは、ローファーを脱いで、下駄箱に入れる。上履きに履き替えて、トントン、とつま先で床を叩いた。

 そのまま歩き出そうとして、あたしは、廊下にぼうっと立ち尽くしているクラスメイトの姿を見つけた。急ぎ足でそちらへ向かって、あたしはなるべく元気な声であいさつをする。

「おはよう、美和ちゃん!」

 ――そこで、あたしは気付いた。美和ちゃんの様子が、おかしいことに。

 美和ちゃんは、いつも元気で明るいバスケ部の女の子なんだけど……。

「うん、おはよう。環奈ちゃん」

 その声には、全く感情がこもっていなかった。

 しかも、あたしを見る美和ちゃんの目は、びっくりするぐらい冷たくて。

 驚いて何も言えなくなるあたしをよそに、美和ちゃんはそのまま階段の方へと歩き去ってしまった。

(美和ちゃん……?)

 何か、あったのかな。嫌なこととか、悲しいこととか……。

 最初はそう思ったんだけど、でも、違う気がする。だってさっきの美和ちゃんは、悲しいとか、怒ってるとか、そんな風でもなかった。

 ただ感情だけが、抜け落ちてるみたいな……。

『おい、今の……《シャドウ》じゃないか?』

 ――頭の中に、直接響く声。

 久しぶりに、サクヤの声を聞いた。

 階段を上っていく美和ちゃんの背中を見つめながら、あたしは尋ねる。

「シャドウって、何?」

 サクヤは苦々しい声で、ゆっくりと答えた。

『ユガミに取り込まれた人間の、身代わりだ』

「……え?」

 ――ユガミに取り込まれた、人間?

『ユガミは、ある程度の力を蓄えて大きくなると、人間を取り込むようになるんだ。取り込んで、……感情とか、心のエネルギーを、すべて吸ってしまう』

 うそ……じゃあ、まさか今の美和ちゃんは、心のエネルギーを吸われた後?

 でも、さっき、身代わりって言ってたよね。……じゃあ、美和ちゃん本人は?

 ゾッとして何も言えずにいるあたしに、サクヤは説明を続ける。

『シャドウは、人間を取り込んだ時にユガミが生み出す、身代わり。……つまりは、取り込んだことがバレないようにするための、偽物ってわけだ。もし本当に、あれがシャドウだったら……人間を取り込んでしまうユガミが、この学校のどこかにあるってことだぞ』

 一言ずつ、慎重な声で説明してくれるサクヤ。

 だからあたしも、サクヤの言うことが本当なんだって、分かる。

「ねえ、美和ちゃんを取り込んだユガミって、まさか踊り場の……」

『いや、それはない。あの鏡のユガミは、おそらく昨日出たばかりのものだ。まだ人を取り込むほどの力はない』

 つまり、この学校のどこかに、もう一つユガミがあるってこと?

 あたしはごくりと息を呑む。冷たい汗が、首筋を伝った。

『環奈、気をつけろよ。魔法使いだから取り込まれないとか、そんな都合のいいことはないからな』

「う、うん……。わかった」

 あたしは肩に掛けたカバンの持ち手をきゅっと握り、教室へと向かう。

 やっぱり西階段を使う気にはなれなくて、少し遠回りだけど、今日も東階段を使って三階まで上がっていった。

 *

「今回の授業はここまでー。次の授業までに、宿題プリントは終わらせておいてねー」

 ゆったりした声で、しっかりと釘を刺してから、教室を出ていく英語の先生。

 四時間目が終わって、やっと昼食の時間になった。

 あたしはカバンから、お弁当の包みを取り出して、しずかの席へと向かう。

 しずかと一緒に食べるお弁当は、あたしの学校での一番の楽しみ!

 ……ただ、今朝はしずかの様子がおかしかったから、少し心配なんだよね。

(それに、美和ちゃんのこともあるし……)

 ちらっと美和ちゃんの方を見るけど、相変わらず、ぼーっとした目で黒板を見つめている。

 心配した様子で話しかけてくる友達にも、今朝みたいな素っ気ない返事ばかりだし、偽物だって話は、やっぱり本当なのかも。

「あっ、いたいた。八代さーん!」

 しずかの席の前までやって来たところで、廊下からあたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。

 見ると、そこに立っていたのは、美化委員の先生だった。

 あたし、何かやっちゃったかな……とちょっとだけ焦りながら、しずかの机にお弁当を置いて、廊下に出る。

「八代さん、今日は体育館倉庫の清掃当番だからね。昼休みの間にやっておいてね」

「……ハーイ……」

 やば、すっかり忘れてた。

 昼休みの清掃はいつもユーウツ。一応ペアの子はいるんだけど、あの子ほとんどサボるから、毎回あたし一人でやるはめになるんだよね……。

「ごめんしずか、先に清掃行ってくる! すぐ戻って来るから、先食べてて!」

「オッケー。じゃあおれ、この席もらうわ!」

「は⁉」

 あたしはしずかに言ったつもりだったのに、返って来た声は汐田くんのもの。

 汐田くんが、しずかの向かいの席に座って、お弁当を広げてる……。

「ていうか、八代さんの弁当もらっていい?」

「だ、ダメに決まってるじゃん!」

「あはは、冗談だってー」

 はぁ~~。汐田くんって、こういう絡み方してくるんだよね。

 何より、険しい顔で汐田くんを見てるしずかが怖い。

 今朝あんなことがあったばかりなのに、汐田くんもよく、しずかに話しかけに行けるよね。絶対に一緒にお弁当を食べるような空気じゃないでしょ!

 二人がケンカになる前に戻ってこないと、なんて思いながら、あたしは教室を出る。

「ていうか、体育館倉庫ってことは、一階まで下りなきゃじゃん!」

 東階段を駆け下りながら、当たり前の事実に改めてげんなりする。

 その後も、早く教室に戻りたい一心で、サクヤにぎりぎり『廊下は走るな!』と言われないくらいの小走りのまま、体育館倉庫へ向かった。

 体育館倉庫は、もちろん体育館の中から入ることもできるんだけど、校舎から向かうなら外通路沿いにある裏口から入った方が早い。

 あたしは体育館には入らないで、迷わず建物の裏手へ向かう通路を走る。もう廊下じゃないから、誰にも何も言われないよね。

 そうして辿り着いた、裏口の扉の前で――あたしは「あっ!」と声を上げた。

「あ~~っ、バカ! バカじゃないの⁉ カギ、もらってくるの忘れた!」

『うわっ、おまえバカだな』

「うるさいな! あんた、あたしをバカにするために体がなくても話せるようになったわけ⁉」

 今のあたし、完全に一人で喋ってるヤバいヤツ。

 でも、そんなのどうだっていい。ただただサクヤがムカつく!

 あたしはイライラしながら、ドアノブに手を掛けた。

「もういいっ、ダメもとで開ける! もしかしたら、カギ、開いてるかもだし⁉」

『いや、そんな都合よくいくわけが――』

 ガチャッ。

「「は?」」

 あたしとサクヤの声が重なった。

 ……あまりにもアッサリと、裏口のドアが開いたから。

「な、なんかよくわかんないけど、ラッキー?」

 ぽつりと呟いて、あたしは倉庫へと一歩足を踏み入れる。

『待て環奈、嫌な予感がする!』

「え?」

 サクヤの焦る声が、痛いくらいに鼓膜に響く。

 でも――踏み出した足を戻そうとした時には、もう遅くて。

 ズズ……ズル……

 ざらついた床を何かが這うような音が耳に届いた、直後。

「うそ、……イヤ――――ッ‼」

 床から這い出た黒い手が、あたしの足を掴んで――暗闇の中に、引きずり込んだ。

8 魔法使いに向いてない

 どこまでも続く、深い、深い闇。

 何も見たくないから、うずくまって、膝の間に顔を埋める。

 もう、何時間もずっと……一人ぼっち。

「うぅっ……、ぐすっ、……うう……!」

 すすり泣くようなか細い声が、誰もいない暗闇に落ちる。

 学校指定のランドセルより、背中はもう大きくなって、……それでも、真っ暗い闇の中に一人で置き去りにされるのは、たまらなく怖くて。

 もうずっと、あたしはここに一人で閉じ込められたまま、みんなに忘れられちゃうのかな。何も見えない、何も聞こえないまま、ここであたしの一生は終わっちゃうのかな。

 お母さんにも会えなくて、学校のみんなにも、会えなくて。

 心臓が痛いくらい鳴ってる。冷や汗が止まらない。

 呼吸が、荒くなる。

 ……怖いよ。

 暗いよ。さみしいよ。

 誰か、助けて……!

『……べ、……を呼べ!』

 ――声がする。

 あの時の……ランドセルを背負っていた、十一歳のあたしが、知るはずのない声。

『環奈、……おい、環奈!』

 あたしは逃げるみたいに耳をふさぐ。

 できない。……あたしには何も、できっこない!

 終わらない闇の中で、あたしは何も見ず、何も聞かず、ただ助けを待つ。

 ……すると、その時。

 ガシャ――ン‼

 何かが割れるような音が辺りに響いた。

 次の瞬間、まばゆい光があたしを包み込む。

 あたしは恐る恐る顔を上げて、固くつむっていた両目を、ゆっくりと開いた。

「……良かった。気が付いたんだね」

 今度は、また違う声。……穏やかで透き通った、男の人の声だ。

「一柳、先輩……?」

「そう、キミの一柳流星だ。大丈夫かい?」

 優しく抱き起されて、あたしは辺りを見回す。

 そこはなんの変哲もない、いつも通りの体育館倉庫だ。

 あたしは自分の体に視線を移す。着ているのはもちろん、いつもの中等部の制服で、ランドセルなんかどこにもない。

(……あれ、夢……?)

 だとしたら、ひどい夢だ。あたしが一番、見たくない夢。

 あたしの、……一番いやな、記憶。

「あなた、ユガミに取り込まれていたのよ。コアはわたくしたちで破壊したわ。囚われていた一年生も、助け出して教室に送り届けたから、安心なさい」

 もう一つ、聞き覚えのある声がして、あたしはそちらを振り返った。

 そこには、気まずそうに目をそらす星名先輩の姿があった。

「……ユガミの発見が遅れて、こんなに大きくなるまで気付けなかったのよ。ユガミを探すのは、わたくしの役割なのに……」

「エリカ、自分を責めないで。ボクたちは完全じゃない、だから助け合っているんだ。ボクのサポートも十分じゃなかったってことだよ」

 一柳先輩が、優しい目で星名先輩を見る。

 そこであたしは、ずっと一柳先輩に体を預けたままになっていることに気が付いて、恥ずかしさのあまり飛び退いた。

 おや、と不思議そうに一柳先輩は目を丸くして、でもすぐにクスクスと笑い始める。

「いやぁ、キミの反応は新鮮でいいね! エリカに同じことをしても、平常心どころか、機嫌が悪いと叩かれるのに!」

「当然よ! まず、わたくしの前で王子を名乗るのをおやめなさい。わたくしよりも、あなたが偉いなんてことは、絶対に有り得なくってよ!」

 う~~ん……どっちもどっち。

 あたしは苦笑いしながら、二人のやり取りを見守っていた。

 ……それどころじゃないってことに、気付くまでは。

「そうだ! 今、何時ですか⁉」

 あたしは慌てて立ち上がり、きょろきょろと周囲を見回す。時計が見当たらないから、時間は分からない。

 あたし、ここを掃除して、急いで教室に戻ってお弁当を食べないといけないんだよね? しかも、しずかと汐田くんを放置したら、またケンカに……⁉

「ああ、大丈夫。キミがここのユガミに取り込まれてから、まだ三分くらいしか経ってないんじゃないかな」

「さっ……三分⁉」

 嘘でしょ、たったの⁉

 だって、そもそも三年生の教室からここまで、三分でなんか来れやしないのに!

「キミが取り込まれた瞬間に、エリカがこのユガミの位置を特定したんだ。で、流石にちょっと遠いな、モタモタしてる間にキミが完全に取り込まれたらまずいなーってことで、瞬間移動を使ったってわけ!」

「瞬間移動――っ⁉ 先輩、そんなことできるんですか⁉」

「そうさ! ボクのパートナーは風を司るヒューマギアだから、校内のどこかに飛ばしてもらうことなんてカンタンだよ! ちなみに、取り込まれていた一年生をクラスまで飛ばしたのも、ボクのヒューマギア!」

 えっへん! と一柳先輩が自慢げに胸を張る。

「で、ユガミの中は時間の流れがすごくゆっくりだから、キミにとっては数時間でも、実際には数分だったりする。だからキミも、そんなに急がなくて大丈夫だよ」

「……そう都合がいいだけの話でもないわ」

 両腕を組み、あたしをじっと見つめる星名先輩。

「逆に言えば、わたくしたちが少し遅れただけでも、取り込まれた人間はユガミの中でその何倍も長い時間を過ごすはめになるってことよ」

 ……多分、あたしのことを言ってるんだろう。

 あのまま、いやな記憶に囚われて、暗闇の中に取り残されていたら……あたしは。

 恐ろしい想像をしてしまって、あたしは両腕で自分を強く抱きしめる。

 それを見ていた星名先輩は、あたしから目を逸らして、倉庫を出る扉の方へ向き直った。

「普通、魔法使いじゃない人間がユガミの中で意識を取り戻すことはないから、眠っている間にすべて終わるのだけど……わたくしたち魔法使いは違う。目が覚めたり、悪夢を見たりしてしまうのよ。あなたもきっと、嫌なものを見たのではなくて?」

 ガチャッ、という音とともに、星名先輩は扉を開いた。

 みずみずしい外の空気が、埃っぽい倉庫の中へ流れ込んでくる。

「ごめんなさいね。一週間、あなたにはなるべく関わらないようにしていたのだけど……そうもいかなかったわ。今日のことは、忘れてちょうだい」

 先輩はあたしの方を振り返り、悲しげに微笑むと、そのまま倉庫を出て行ってしまった。

「ちょっとエリカ、ボクを置いていこうっていうのかい⁉」

 去っていく星名先輩の背中に不満げな声を上げてから、一柳先輩はこちらを振り返る。

「じゃあ、またどこかで会おうね、カンナちゃん。バイバイ!」

 そう言って、あの王子様ウインクを一つ。

 そのまま一柳先輩は、何事もなかったみたいに、星名先輩の後を追って倉庫を出ていった。

 あたしはパンパン、とスカートの埃を払って、掃除用具の入ったロッカーに手を伸ばす。

「……ねえ、サクヤ」

 ロッカーを開けながら、囁くように名前を呼んだ。

『なんだ』

 取り出したホウキの柄を握って、あたしは俯く。

 こんな小さな声でも、ちゃんと届くんだ。

「さっき、なんて言ってたの? ユガミの中で」

『……』

 サクヤは口を閉ざす。

 否定しないってことは、やっぱり……ユガミの中で聞こえたのは、サクヤの声だったんだ。

『別に、大したことは言ってない。ただ……』

「ただ?」

『環奈。おまえは、魔法使いに向いてない』

 ――え?

 ホウキを握っていた手が、ぴたりと止まる。

「……どういう意味?」

『どうもこうもない。おまえじゃ無理だ』

「っ、はぁ⁉ 何それ、なんであんたにそんなことが分かるのよ!」

 あたしは人目も気にせず叫んで、唇を噛む。

 サクヤはどう思ってるのか、確かにそれは気になってた。でも、いざこうして無理だって言われると、胸の奥からふつふつと怒りが湧いてくる。

 だって、あたし……しずかに言わないといけないのに。

 あたしは心配ないよ、だから笑ってて――そう、言いたいのに。

「言ったでしょ、あたし、あんたの言う通りになんかしないって。全部、ひとりでなんとかするんだから。……それで、しずかに……」

 ふと、開きっぱなしのロッカーが視界に入る。

 その扉の裏の鏡に映った、自分の顔を見て……あたしは言葉を失った。

 こんな顔で……どこが、心配ないって言うの?

9 置いてけぼりの親友

「月島さん、先輩が来てるよー」

 クラスメイトの一人に呼ばれて、わたしは声がした方を振り返る。

 そこに立っていたのは、三年の一柳先輩と、星名先輩だった。

(……なんで?)

 意味が分からない。

 二人とも学園の有名人で、そして、一度も喋ったことがない人たちだ。

 おかしいな、とは思いながらも、わたしは弁当箱を片付けて、先輩たちの方へ歩み寄る。

 八代は美化委員の仕事で、汐田はお手洗いに行っていて、いない。だから、誰かに茶化されるようなこともなかった。

「何か、用ですか」

 わたしが尋ねると、一柳先輩は「あんまり硬くならないで!」とおおらかに笑った。

「少し聞きたいことがあってね。キミ、カンナちゃんの友達だろ?」

 八代の名前が出てきて、思わず目を丸くしてしまう。

 今朝も、一柳先輩が八代を見ていたような気がするけど……気のせいじゃなかったの?

「そうですけど、何か」

 どくん、どくんと心臓が鳴る。

 やっぱり昨日、何かあったんじゃ……。

「そんなに怖い顔をしないでちょうだい。ただ、彼女について気になることがあるだけよ」

 そう言って、星名先輩が両腕を組む。

「実はさっき、体育館倉庫で彼女に会ったのだけれど――」

「星名センパイ」

 ふと、星名先輩の声が、別の声で遮られた。

 さっき席を立ったはずの、汐田の声だ。

「どうしたんだい、ノゾム?」

 不思議そうに汐田を見る一柳先輩へ、汐田はめずらしく、強い口調で返した。

「月島は関係ない。あんまり、話さないでください」

「……」

 関係ないって、何それ。

 なんで汐田に、そんなことを言われないといけないの。……それも、八代のことで。

「……ムカつくんだけど」

「え?」

 わたしの低い声にびっくりして、汐田がこっちを向く。

 こんなことを言っちゃいけない。わかっているのに、止められない。

「関係ないって言葉、本当に好きだよね。前もそうだった」

「月島……」

「自分の方が、八代に信頼されてるって思ってるの?」

 ――どれだけわたしをバカにしたら、気が済むの。

 そこまで言って、ハッと息を呑む。

 汐田は、怒ってはいないみたいだった。ただ悲しそうに、わたしを見ていた。

 かわいそうだって思われているのかもしれない。よりによって、汐田に。

 そう思うと、もう、この場にいるのが恥ずかしくて仕方がなかった。

 わたしは何か言いたげな先輩二人も無視して、教室を出た。とにかく一人になりたかった。

 早足でお手洗いに向かったけど、中で生徒二人が喋っていたから、階段を駆け下りた。

 ……踊り場の鏡に映ったわたしは、ひどい顔をしていた。

10 初等部の苦い過去

 自室の机の上に広げた、英語の宿題プリント。

 カチカチとシャーペンで遊ぶばっかりで、さっきからちっとも集中できない。

「はぁ~~……」

 この二日間で一体何度目になるか分からない、深いため息を吐く。

 帰り道。しずかと別れてしばらく経ったころ、急にざあざあと大雨が降り始めて、あたしはすっかりびしょ濡れになってしまった。

 そして、濡れ雑巾みたいになってしまった制服を着替え、洗濯機を回して、ようやく一息ついたころ。

 次は、窓の外がピカッと光った。……カミナリだった。

(信じらんない、今日ほんとツイてない!)

 言いながら、今度こそ解答欄を埋めようとした時、出しすぎたシャーペンの芯が折れた。

 もう、ため息も出なかった。

 外からは、何度も何度も、大きな雷の音が聞こえてくる。その度につい身構えてしまうから、心もすっかり疲れ果ててしまった。

 それでも、うんざりするけど、プリントは出さなきゃいけない。

 ゆっくりと、放り出したシャーペンに手を伸ばした、その瞬間――

 ピシャーン!

 鼓膜が破れそうなほど、ひときわ大きな雷の音がした。

 そして、一秒も経たないうちに、部屋の電気が全て落ちてしまった!

(うそっ、停電⁉)

 部屋の中が真っ暗になる。

 足がガクガク震えて、椅子から転げ落ちた。

 痛みにぎゅっと目をつむって、イタタ……と腰をさするけど、目を開けても、そこには暗闇が広がっているだけだ。

 心臓が、うるさくなっていく。

 ……どうしよう。

 誰かに助けを求めたいのに、上手く声が出ない。

 だって、助けを求める相手なんて、どこにも――……

『環奈、出せ。明かりならなんとかできる』

 うずくまるあたしの中で、サクヤの声がした。

 怒っているわけでも、優しいわけでもない、不思議な声。

 あたしはどうにか深呼吸を一つして、祈るように、サクヤの名前を呼ぶ。

「……術式コード、01、さっ……サクヤ……」

 すると、一瞬だけ辺りがぱあっと光って――桜色の光の中から、いつもの仏頂面をしたサクヤが現れた。

「……出すことは、できるんだな」

「え……?」

「いや、なんでもない。それより」

 サクヤは人差し指を立てる。少し骨ばっているけど、しなやかな手。

 あたしがじっと見つめていると、その指先に小さな光が灯った。

「……これが限界か」

 かすかな明かりでも、サクヤの顔はぼんやりと見える。

 久しぶりに見る顔は、見間違えかもしれないけど、どこかさびしそうだった。

 しばらくすると、うるさいほどに鳴っていたあたしの心臓も、少しずつ落ち着いてくる。

(人の顔が見えて、話ができるだけで、こんなに安心するんだ……)

 もしかして、あの時も――体育館倉庫の時も、こうしていればよかったのかもしれない。

「……ブレーカー、落ちてるかもな。見てくるから、待ってろ」

 そう言って、サクヤが立ち上がろうとする。

 その袖を、あたしは、とっさに掴んでしまった。

「ま、待って!」

 情けない声が出る。しまった、と思ったけど、サクヤは笑ったりしなかった。

 その代わり、……見たこともないほど、まっすぐな目で、あたしに問いかけてくる。

「ずっと気になっていたんだが……」

 サクヤから目をそらす。

 なんとなく、……知られてしまったんだと、思った。

「おまえ、暗所恐怖症だろう」

 ――そうだよ。

 あたしは、暗いところが、怖くて仕方ないんだ。

 *

 初等部、五年生の初夏。

 あたしは、クラス替えで新しくできた友達――月島しずかと、毎日のように遊んでいた。

 お母さんの送り迎えで登下校していたあたしと、電車通学のしずか。

 だから、遊ぶと言っても休日か、昼休みの時間がほとんどだったんだけど、その日は珍しく、放課後に遊んでいたんだ。帰りに、あたしのお母さんの車で、一緒に文房具屋さんに行くって約束をしていたから。

 あたしたちは学校で二人、お母さんが迎えに来るのを待っていた。

『ねえしずかちゃん、かくれんぼしようよ!』

『え?』

 昇降口で並んで座るあたしたち。

 急にそんなことを言い出すあたしに、しずかは驚いていたっけ。

『でも、八代って探すのヘタじゃない? わたしが隠れる側だったら、一生見つけてもらえないんじゃ……』

『ヒドいよ、しずかちゃん! ねえ、あたしが隠れる方でいいから!』

『隠れるのもヘタそう……』

『だからヒドいよ! いいよ、絶対に見つかんないとこに隠れるから!』

 渋るしずかと、頑固なあたし。

 でも、最終的にはしずかが折れて、あたしたちはかくれんぼをすることになった。

 初等部全体じゃ広すぎるから、あたしが隠れる範囲は昇降口の周囲と、近くにある体育館付近だけ。そういう風にルールを決めて、しずかが後ろを向いた瞬間、あたしは駆け出した。

 最初は昇降口を出てすぐの植木の裏に隠れようと思ったんだけど、近すぎるからやめて、体育館の方に向かった。

 そこで、あたしは……体育館倉庫のカギが閉まっていないことに、気付いたんだ。

『やった!』

 あたしは嬉しくなって、倉庫の中に駆け込んだ。

 辺りをきょろきょろと見回して、跳び箱の陰に隠れられそうなスペースを見つけたあたしは、そこに隠れることにした。

 でも、しずかが探しに来るのを待っている最中に、あたしはうとうとしてしまって……。

『んん……』

 ハッと気が付いたら、辺りは真っ暗になっていた。

 慌てて立ち上がって、あたしは手探りで扉へと向かう。でも、あたしが入ってきた時は開いていたはずの扉は、どれだけカギを回しても、開かなくなっていて。

 ……ここから先のことは、よく覚えていない。

 たぶん、こういうのをトラウマって言うんだと思う。

 ただ、何時間もうずくまって泣いていたことと、一人ぼっちの怖さ、光の入らない倉庫の暗さは、二年経った今でもハッキリと思い出せる。

 このままここで、死んでしまうんだと思った。

 誰もあたしを見付けられないまま、お母さんにも、しずかにも、もう会えないんだと思った。

 ――でも。

『八代っ!』

 不意に光が差し込んできて、……あたしは、強い力で誰かに手を引かれた。

 そのまま、あたしの手を引いた誰かと一緒に、真っ赤な夕日に照らされたコンクリートへと倒れ込む。

 泣き腫らした真っ赤な目を見開いて、あたしは一緒になって尻餅をつく誰かを、じっと見つめた。

『……しずか、ちゃん……』

『かくれんぼに、本気、出しすぎ……!』

 それだけ言うと、しずかは眉を下げて笑った。

 ……多分これが、初めて見る、しずかの笑顔だった。

 *

「……なるほどな」

 サクヤの落ち着いた声が、痛む頭に優しく響く。ひとまず、子どもっぽいって笑われなかったことに安心した。

 ――初等部の頃の出来事を話し終えると、あたしの手には汗がにじんでいた。

 未だに、ちゃんと思い出そうとすると、全身が恐怖でいっぱいになって、言うことを聞かなくなる。指先が震えて、冷や汗が止まらなくなって……。

 もし、しずかがあたしを見付けられなかったらって、今でも思う。

 しずかがあたしみたいに、かくれんぼが下手だったら……って。

「もっと早くに、言えばよかっただろ」

「言えばよかったって、……誰に?」

「汐田や、魔法研究部の上級生。それか、せめてオレには言え」

「……うん」

 本当に、そうだと思う。

 もっと早くにちゃんと話せていたら、こんな風に悩んだり、みんなに迷惑を掛けることも、なかったのかもしれない。

「で、入部テストはどうするんだ?」

 サクヤに言われて、あたしはやっと、入部テストのことを思い出した。

 ……でも。

「わかんない……」

 それしか、言葉が出なかった。

 目の前で、ただ黙ってあたしの答えを待つサクヤ。あたしはずっと、すがるみたいに、袖を掴んだままだった。

「自分がどうしたいのか、わかんない……! なんで魔法研究部に入りたいのか、何がしたいのか、そもそも、あたしは魔法使いを続けたいのか……何も、分からない‼」

 震える声で叫んだ、その一瞬だけ――サクヤの指先の光が弱くなったような気がした。

 それがまた、あたしを迷わせる。サクヤは、やっぱり何も言わない。

 ――お互いに無言のまま、少し時間が経った頃。

 頭上でパチッという音がして、その数秒後に、部屋の明かりが点く。

「ああ、なんだ。何もしなくても、戻ったな」

 ようやく口を開いたサクヤが、指先に灯した明かりを消した。

 カーペットの上にへたり込んでいたあたしは、机の前の椅子に座りなおす。

「宿題、やるのか?」

「出せって言われちゃったし……」

「そうか」

 サクヤの穏やかな声が、重たい頭を少しだけ楽にしてくれる。

「終わったら褒めればいいか?」

「いらないし」

「うわっ。かわいくないな、おまえ」

 言葉とは裏腹の、相変わらず優しい声に、ちょっとだけ泣きそうになった。

11 それはまるで、星のように

 次の日。六時間目、英語の授業が終わった後で、先生に声を掛けられた。

「ああ、八代さん。これ、汐田くんに渡しておいてくれるー?」

 いつも通りのゆったりした声。あたし、今日は宿題出したのに……。

 でも、何度も宿題をサボっている手前、大人しく言う通りにすることしかできなくて、あたしは先生からノートを受け取った。

 そういえば汐田くん、授業の時いなかったな。五時間目までは、ちゃんといたのに。

 とりあえず、汐田くんの席にノートを置いておいたんだけど……その後、帰りのホームルームが終わって、みんなが下校し始めても、汐田くんは戻ってこなかった。

 何があったんだろう。普段はこんなこと、ないのにな。

「どうしたの、八代。帰らないの?」

 あたしが汐田くんの席をじっと見つめていると、しずかに声をかけられた。

「あ、えーっと……」

 ……どうしよう。別に、このままノートを置いて帰ればいいんだけど、事情を知ってしまった今は、汐田くんのことがすごく心配だ。

 ユガミに関わる何かで汐田くんが戻らないなら、あたしにできることはない。

 でも、このまま帰って、汐田くんの身に何かあったら?

 確かに、あたしにできることはないけど、絶対に後悔する。

(……探しに行こう、汐田くんを)

 見付かればそれでいいし、見付からなかったら、一柳先輩たちにそれを伝えよう。

「しずか、あたし、汐田くんを――……」

 そこまで言いかけて、ふと、前に汐田くんと話したことを思い出す。

『……あのさ、汐田くん。しずかには話してないの? 魔法使いのこと』

『話してないよ。話すわけないだろ』

 ――そうだ。汐田くんは、しずかに何も話してない!

 しまった! と思って、あたしは慌てて右手で口元を覆った。

 とにかく、深く話を聞かれたらまずいから、急いで自分の鞄を肩にかけて教室の出口へ向かった。

「ごめん、しずか! 先に帰ってて!」

 それだけ言って、あたしは教室を飛び出すと、図書室へ走った。

 魔法研究部の部室への入り口は、確か図書室の向かいの壁にあったはず。

 一段飛ばしで階段を上って、校舎の最上階にある図書室へと向かう。

 すると、図書室に向かう廊下の途中で、探していた背中を見つけた。

「汐田くん!」

 大きな声で名前を呼ぶと、あたしに気付いた汐田くんは、振り返って手を振ってくれた。

 あたしは駆け寄って、膝に手をついて大きく息をする。

 走ったり、一段飛ばしで階段を上ったりしたせいで、かなり疲れちゃった。

「六時間目、どこ行ってたの……! 戻ってこないから、心配、した!」

「ごめん。五時間目、理科室だったじゃん? 教室戻る途中にユガミを見つけたんだけど、ちょっと手こずったせいで、へとへとになっちゃってさぁ。部室で休んでたんだよね」

 頬をぽりぽり掻きながら、汐田くんは眉を下げて笑った。

 ……そして、やっと息が落ち着いてきたあたしは、汐田くんの後ろに誰かが立っていることに気付く。

 汐田くんは、誰かと話していたみたい。

 涼しげな目元が印象的な、眼鏡をかけた男の子。年は少し上で、高等部の人にも見える。

 あたしの視線に気付いた汐田くんは、サッと横にずれて、コホンと咳ばらいをした。

「まだ会ったことなかったよな。こいつはおれのパートナーのヒューマギア、ユキト。術式コードは04」

「……どうも」

 紹介されたユキトさんが、顔色一つ変えずにぺこりと頭を下げた。

 見た目通り、真面目そうな人だなぁ……なんて感心していると、汐田くんが口を開く。

「そうだ、おれに何か用事だった? それとも、おれが心配だっただけ?」

 サラッとそんな風に言えちゃうところ、本当にすごいな……。

 なんか、そういうところは少しだけ、一柳先輩に似てるかも。

「英語の先生に、ノート渡しておいてって言われて。とりあえず机の上に置いておいたんだけど、全然戻ってこないから、探しに来たんだ」

「えっ、マジか。八代さん、今日は宿題出してたよな? それなのに頼まれちゃったかぁ」

 気の毒になー、と全然思ってなさそうな声で言って、汐田くんは笑った。

「ていうか、月島は? 今日は一緒に帰んないの?」

「うん、先に帰ってもらった。連れてこない方がいいかなーって」

「そっか、助かる」

 やっぱりこれで正解だったみたい。汐田くんは、安心したような顔をしていた。

 すると、隣に立っていたユキトさんが、難しそうな顔をして汐田くんをじっと見る。その視線に気付いた汐田くんが、腰に手を当ててユキトさんの顔を覗き込んだ。

「何? おれ、おかしなこと言った?」

「いや……。なんだか、よく聞く名前だと思って」

 よく聞く名前。誰のことだろう? と首をかしげるあたしに、ユキトさんが言う。

「月島、と言っただろう。望がよく、そいつの話をするんだ。……にしては、僕は一度も会ったことがないぞ。おかしくないか?」

「別におかしくなくない? おれもユキトの友達なんて一人も知らないけど」

 どこか突き放すような言い方をする汐田くんに、ユキトさんはムッとして言い返そうとする。でも汐田くんは「はいはい、《スリープ》」と呪文を唱え、ユキトさんをあっさりと消してしまった。

「よ、容赦ないね、汐田くん……」

「んー? ああ、今のは講習だよ。八代さんへの」

 ……物は言いようって、こういうことを言うのかな。確かに汐田くんは先輩だけど。

 そこでふと、あたしは一柳先輩たちのことを思い出す。

「ねえ汐田くん、先輩たちは? ユガミに入ったのは、汐田くんだけ?」

「そりゃあな、移動教室の途中だったし。それに……」

 汐田くんは、まっすぐな目で、図書室のある方向を見つめる。

「早くセンパイたちみたいに、一人前になりたいんだ。だから、あんまり頼りたくない」

 その声は真剣そのもので、汐田くんの憧れがどれだけ強いのか、はっきりと分かる。

 ……確かに、二人はすごくカッコよかった。

 それは、体育館倉庫で助けられたあたしも、よく分かってる。

「なあ八代さん、気付いた? センパイたちって、二人とも、名前に星が入ってるんだ」

 不意に汐田くんがそんなことを言うので、あたしは、二人のフルネームを思い出してみる。一柳流星と、……そして、星名エリカだ。

 あたしは思わず、あっと声を上げた。

「本当だ!」

「だろ? ほんと、ぴったりな名前だと思うよ」

 図書室へ向けられた汐田くんのまなざしは、力強いのに、どこか柔らかい。

「あの二人は、スターなんだ。みんなにとってもそうだけど、おれにとっては、特別!」

 うれしそうに語る汐田くんに、あたしも思わず笑みがこぼれる。

 大好きなんだな、先輩たちのこと。……まぶしくって、仕方ないんだな。

 わかるよ。……だから、あたしは。

(汐田くんや、先輩たちの隣に立つのが……怖い)

12 新たなるシャドウ

 それからしばらくは、何事もなく過ごした。

 ……ううん、魔法研究部やヒューマギアのこと、あんまり考えないようにしていたのかもしれない。気付けば、入部テストの期限の、火曜日になっていた。

 正直、もう入部する気はなかった。こんな、ずるずると考えるのを引き延ばしにしているようなあたしが入部しても、何かできるわけないもんね。

 いつも通りの日常を送れたら、それでいいよ。

「……あ、いたいた!」

 家を出て少し歩くと、毎朝待ち合わせている街頭の下に、つやのある長い黒髪を見付けた。

 しずかだ。見慣れた姿に向かって、あたしは走り出す。

 ゆっくりと振り返るしずかは、普段通りの無表情。

「おはよう、八代」

「おはよ、しずか!」

 こうして、サクヤが何も口を出してこない状況で、しずかと二人でいると、この一週間が全部嘘だったみたいな気分になる。

 自分が魔法使いであることや、ヒューマギアのこと、そしてユガミのこと。そういうのを、全部忘れられるんだ。

 あたしたちはいつも通り他愛のない話をしながら、電車に乗って、学校近くの駅で降りる。

 正門をくぐって、遠くに星名先輩のリムジンと、一柳先輩を取り囲む女子を見る。

 黄色い悲鳴に苦笑いして、中等部への道を歩く。

 何も変わらない、……あたしがサクヤを召喚する前の、日常だ。

 あたしはまだ遠い昇降口を見つめながら、雑談を再開する。

「ていうかさぁ、昨日の数学――」

「あのさ、八代」

 でも、しずかはそれを許してくれなかった。

「八代から話してくれるのを、待とうって思ってた。絶対、八代は話してくれる。わたしのこと、信頼してくれてるって。……でも」

 しずかの切れ長の目が、あたしの両目をしっかりと見つめる。

「もうこれ以上、八代の元気がないのを、無視するの……つらいよ」

 桜色の唇から紡がれた言葉に、あたしは黙ってしまう。

 しずかは右手であたしの制服の袖口をそっと掴んで、続けた。

「ねえ、何があったの? 教えて、八代」

 美人だけど、とっつきにくい。

 クールでいつも無表情。

 そんな風に評されるしずかの、切実でまっすぐなまなざしが、あたしに向けられている。

 ……でも、あたしはそんなしずかから、目をそらした。

 そらして、しまった。

「ごめんね」

 あたしの返事に、しずかは目を見開いて、息を呑む。

「それが、八代の答えなの?」

「……ごめん、しずか」

 しずかは、あたしの制服の袖を離して、半歩後ろに下がった。

 バクバクとうるさい心臓が、ナイフで刺されたみたいに強く痛む。

 しずかとの視線は――もう、合わない。

 何も言わずに、しずかは、一人で昇降口の方へと走り去っていく。あたしはその背中を追うことすら出来ずに、ただ、その場に立ち尽くしていた。

『おい』

 頭の中に、サクヤの声が響く。

 なに、と返した声は、か細く掠れていた。

『なんで話さなかった。月島は、おまえの話を信じないのか? 面白おかしく言いふらすのか?』

「ううん。しずかは絶対に、そんなことしない」

 しずかの背中は、まだほんの少しだけ見える。

 でも、一柳先輩や星名先輩の姿は、もうどこにも見えない。

「……しずかに話したら、全部本当になっちゃう。この一週間のこと、もう、嘘にできなくなっちゃう」

 それを言葉にしてみて、やっと気づいた。

 あたしがしずかに何も言わないのは、汐田くんみたいに、巻き込みたくないからなんて綺麗な理由じゃない。

 ……ただ、しずかっていう逃げ場を、失いたくないだけなんだって。

『環奈。……オレは』

 暗い場所が怖いと打ち明けた時と同じ、まっすぐな声が響く。

『暗所恐怖症のことを、本当はおまえの口から聞きたかった。出会ってからまだほとんど時間が経っていないオレがだ』

「……」

『じゃあ月島とは、出会ってからどれだけの時間が経った?』

 びくり、と肩が大きく跳ねた。

 何か言わなきゃ、と思いながら、あたしは口を開く。

 でも、喉が張り付いてしまったみたいに、うまく声が出ない。

『おまえ、ここ一週間の月島の気持ちを、考えたことがあるのか?』

 責めるわけでもない、落ち着いた口調なのに、脳みそを直接殴られているみたいだった。

 ――あたしは、この一週間、ほとんど自分のことしか考えていなかった。

 しずかの気持ちも考えずに、とにかく遠ざけた。ちゃんと話すと決めて、結局ひとつも話さないまま、しずかだけをいつも蚊帳の外にしていた。

 別にしずかは、怒ってないって思ってた。……そんなはず、ないのに。

(付き合いが長いはずの汐田くんを、しずかが嫌っていたのって……)

 理由が理由とは言え、しずかに何もかも隠し続けている汐田くん。

 その汐田くんに、しずかが抱いていたのは、……さびしさだったの?

 そして今は――同じ気持ちを、あたしに感じてる?

「あ、たし……」

 喉がひりついて、スムーズに言葉が出て来ない。

 でも、これだけは、はっきりとわかる。

「しずかに、……最低なこと、した?」

 サクヤが呆れた様子でため息を吐いたのが、わかった。

 でも、次に聞こえた声は……びっくりするほど優しくて。

『そう思うんなら、おまえがすることは、ひとつじゃないのか?』

 たまらず、あたしは走り出す。

 もうしずかの背中は見えないけど、それでも、走らなくちゃいけなかった。あたしはしずかを全力で追いかけなくちゃいけなかった。……ううん、あたしがそうしたかった。

 飛び込むみたいに昇降口をくぐって、下駄箱でローファーを脱ぐ。

 上履きを履く。それから、脱いだばかりのローファーを雑にしまって、再び走り出そうとした――その時。

 二つ隣の下駄箱の近くで話す、一年生と思しき二人組の会話が耳に飛び込んできた。

「ねえ、さっき西階段の方に走ってった女の子、泣いてなかった?」

「あれって、月島さんでしょ?」

「うそ、マジで⁉ 月島さんが泣いてるところなんて、初めて見た……」

 鈍器で頭を殴られたみたいな、衝撃があった。

 喉の奥が痛くなって、目頭が熱くなる。自分がしてしまったことの重大さに、あたしまで泣きそうになる。……あたしが、しずかを泣かせたんだって。

 唇を噛んで、あたしは踊り場へと急いだ。泣いているしずかを一人にしたくなかったし、ちゃんと謝りたかったから。

 階段を少し上ると、鏡を見つめて立ち止まる、長い黒髪の女の子が見えた。

「しずか‼」

 必死になって、あたしはしずかの名前を叫ぶ。

 やっとあたしも鏡の前に辿り着いて、力なくぶら下がるしずかの腕を強く引いた。

 されるがままに、しずかの体はこちらを向く。

 そして。

「おはよう、八代」

 ……あたしは、言葉を失った。

 泣いた様子なんてちっとももない、生気を失った目。

 いつものクールな雰囲気とも違う、感情が抜け落ちたみたいな表情と、声。

 それらは――先週見た美和ちゃんのシャドウに、よく似ていた。

「しずか……? どうしたの、ねえ、しずか‼」

 あたしは必死になって、しずかの両肩を強く揺さぶる。

 でも、しずかの目はぼーっとしたままで、あたしを見ているのかさえ分からない。

『だめだ環奈、それはシャドウだ! ……でも、なんで』

 サクヤはそこで、何かに気付いたのか言葉を切った。あたしにも、思い当たることがある。

 ここは踊り場の、鏡の前。それも……西階段、一階と二階の間の。

 壊れたおもちゃみたいにぎこちなく、あたしは鏡へと視線を向ける。

「――っ‼」

 そして、言葉を失った。

 鏡の真ん中で小さく波打っていたはずのユガミは、おどろおどろしい紫色の靄になって、鏡全体に広がっていたのだから。

「ねえサクヤ、どういうこと⁉ しずかは、取り込まれたの⁉」

『……おそらく、あの金持ち女が言っていた一週間という期限は、このユガミが人を取り込んでしまうサイズになる直前を指していたんだ。もしおまえが入部テストをパスできなくても、今日中に対処すれば、一般の生徒に被害が及ばないから』

「じゃあどうして⁉ まだ朝なのに!」

 無言のしずかを前に、一人で声を荒げているあたし。そんなあたしを見て、ひそひそと何かを話しながら、二人組の女子が真横を通り過ぎていった。

 でも今は、そんなことどうでもよかった。ただ、どうしてこうなってしまったのか答えがほしくて、あたしはサクヤに問い続ける。

 するとサクヤは、少し考えてから、再び口を開いた。

『前に、ユガミはある程度の力を蓄えたら、こうして人を取り込むようになるって言っただろ。……その力っていうのは、人の心のエネルギーなんだ』

「心の、エネルギー……?」

『ああ。おまえらが普段、感情って呼んでるものだと思えばいい。それを少しずつ集めて、成長したら、人間を取り込んで感情を吸い尽くす』

 感情を、吸い尽くす。

 初めて聞いたわけじゃないけど――改めて聞いても、ゾッとする。

「じゃあ、予想より早いペースで、感情が集まったってこと?」

『そういうことだ。……それなら、つじつまが合う』

 サクヤの言葉に、あたしは昇降口で聞いた会話を思い出す。

 ……西階段の方へ走っていったしずかは、泣いていたって。

『期限の最終日、ユガミが成長しきる手前で、急に大きなエネルギーを放出する人間が目の前に現れた。……こうなっても、不自然じゃない』

 いつも通り落ち着いたサクヤの口調の中に、小さな焦りが混じっている。

 あたしは、……大親友のシャドウから手を離して、鏡へと向き直った。

 そして、――紫の靄の、いちばん濃いところへ手を伸ばす。

「お、八代さん。宿題やったかー?」

「っ!」

 不意に聞こえてきた声に、鏡に触れそうになった手を、あたしはぴたりと止める。

 振り返ると、そこには、汐田くんが立っていた。

「どうしたんだよ、そんな顔青くし、て……」

 言いながら、明らかに様子がおかしいユガミを見て、汐田くんは目を見開く。そして、近くに立つしずかのシャドウへ視線を移すと、ヒュッと息を呑んだ。

「おい、嘘だろ。月島が取り込まれたんじゃ、ないよな……」

 汐田くんの、今までに聞いたことがないほど震えた声。

 初めて見る、真っ青になった顔。今のあたしと、同じ顔。

 でも、それを隠すみたいに深呼吸をして、汐田くんは冷静な声を出した。

「悪いけど、そこどいて。……おれが行く。入部テスト、ぶち壊しになるけど」

 それから、あたしの手を引いて鏡から引き離す。汐田くんは、さっきより落ち着いた表情で、あたしをまっすぐに見つめてきた。

「おれは魔法使いとして、八代さんが危険な目に遭うのを見過ごせない」

 あたしの手首を掴む汐田くんの手に、少しだけ力がこもる。

「……こうして月島が取り込まれた以上、入部テストなんて言ってられない。先輩たちでも、同じことを言うと思う。だから八代さんは、教室に戻って。……それでいいよな?」

「でも、あたしだって魔法使いだよ」

 自分でもびっくりするくらいハッキリとした声で、あたしは言い返した。

 答えは決まってる。何がしたいかも、もう、わかってる。

「――しずかは、あたしが助けたい。入部テスト、受けさせて!」

 汐田くんは、ぱちぱちと何度か瞬きをする。

 でも、すぐに困った顔をして、あたしの手首を掴んでいた手を離した。

「本当に大丈夫かよ? 入部テストなんて、また今度でも……」

「ううん、今度じゃダメ。言ったでしょ、しずかは、あたしが助けたいんだ。だって、しずかはあたしの親友だし……それに今は、サクヤがいるから!」

 あたしがそう言い切ると、汐田くんは驚いたような顔をしたまま黙ってしまった。

 そして、何かを言いたそうに口を開きかけて、やめる。強くこぶしを握っているのか、一瞬だけ肩が震えるのが見えた。

 でも、それからすぐに、汐田くんは眉を下げて、小さく笑う。

「そっか。……うん、そうだな。八代さんと、月島は、親友だもんな」

 うん! と自信たっぷりに返すと、汐田くんはうなずいて、真剣な表情になった。

「何かあったら無茶せず、すぐに脱出してこい。あんまり遅かったら、迎えに行くから」

「わかった。……待っててね、しずか」

 あたしは、ぼんやりとした目をしたまま立っている、しずかのシャドウをちらりと見た。

 そして、深呼吸をひとつしてから――鏡に浮かぶ紫の靄の、いちばん濃いところへ手を伸ばす。冷たい鏡に手のひらが触れたところで、口を開いた。

「――術式コード01、サクヤ!」

 あたしがその名前を呼ぶと、すぐ隣に光の柱が現れる。

 やがて、その光がゆっくりと消えると……

「やっとか」

 不敵に笑うサクヤが、姿を現した。

 サクヤは力なく佇むしずかへ目を向けてから、鏡を見据える形であたしと肩を並べる。

 もう大丈夫だって、わかってくれたんだと思う。

 あたしは、鏡に触っていない方の手をサクヤへと差し出した。それだけでどうして欲しいのか察して、サクヤはあたしの手を握ってくれる。

 もうそこに光はないのに、汐田くんはまぶしそうに目を細めて、あたしの隣を見た。

「……いいな、そこにいるんだ。見てみたいかも、八代さんのヒューマギア」

 そこにサクヤがいると分かっているんだろうけど、視線の先が少しだけずれていて、胸がぎゅっと苦しくなる。本当に、見えていないんだ。

 あたしは今度こそ、鏡に押し付けた手のひらに思いっきり力を込めた。

 ずぶずぶと指先が沈んでいく。どろどろとした紫色の靄は毒みたいな見た目をしていて、正直なところ、怖くて仕方ない。

 それでも、もう、どうせ無理だなんて思わなかった。

 ――今のあたしには、助けたい人がいる。

 それに、もう一人じゃない!

13 透明人間と夜の太陽

(っ……!)

 やがて背中まで、底なしの沼に沈んでいくような感覚があった。

 部室に入った時と似たような、でも、もっとまがまがしい雰囲気。……怖くないって言ったら嘘になるけど、サクヤがいるから、一人じゃないってわかる。だから立っていられるし、震えて、指先は冷たいけど、それでも動ける。

 重たい水をかき分けるみたいに、あたしは前へ、前へと空いた手を伸ばした。

 やがて、指先が外の空気に触れる。軽くなったつま先が、柔らかな芝生を踏んだ。

 ゆっくりと、目を開く。

 そこは、果てしなく続く、夜の草原だった。

 あたしたちの他には誰もいないし、何もない。もう、ここから出る方法すらわからないけど、今やるべきなのは、進むこと。

 頭上には満月がぼんやりと光っている。もちろん街灯も何もないから、ほんの数メートル先は真っ暗闇だ。

「サクヤ。光、出せる?」

 隣にいるサクヤに尋ねると、「もちろん」と短い答えが返ってくる。

 そしてサクヤが、空いている方の手のひらを空に向けると、そこにはまぶしく輝く光の球が現れた!

「ちょっと、何それ? そんなランタンみたいなやつが出せるなら、停電した時もそうしてくれれば良かったのに!」

「無茶言うなよ……」

 すっかり呆れた顔でサクヤがあたしを見た。

 それから、きょろきょろと周囲を見回して、うーん……と困ったような声を出す。

「なんなんだ、ここ。どこに行けばいいんだ?」

「えっ、わかんないの? ユガミ、入ったことあるでしょ?」

「あるけど、中はユガミによって毎回違うんだよ。迷路とか、お遊びみたいなのが多くて……高い所から誰かに試されてるみたいで、嫌になる」

 苦々しい顔でサクヤが言う。

 確かに、ヒューマギアが必死に力を使ってユガミを消そうとがんばってるのに、そのユガミに遊ばれてるように感じたら、腹も立つよね。

 ただ、こうして見る限り、この草原にはそういう遊びみたいな仕掛けはないみたい。仕掛けどころか、木や花の一本すら生えてない。

 とにかく、突っ立っていても仕方ないから、あたしはサクヤの手を引っ張って、月のある方向へ歩き始めた。

 歩いている最中に、あたしは隣のサクヤへと声をかける。

「その光さぁ、懐中電灯とかにできないの? あたしが持ちたいんだけど……」

「はぁ? 注文が多いな」

 サクヤは呆れたような声を出して、その場で立ち止まる。

 そして、光を灯した手のひらを、あたしの顔の前に持ってくると、静かに目を閉じた。

 次の瞬間、光がより一層強くなって――あまりのまぶしさに目をつむって、うっすらと開くと、サクヤの手の中には懐中電灯が握られていた!

「うそ、できるんだ!」

「本物じゃないけどな。ほら」

 そう言って懐中電灯を差し出してくるので、あたしはそれを受け取る。

 本物じゃないって言うけど、触った感触もあるし、重さだって、しっかりとあった。

「ただの幻だ。映写機と同じで、そこに懐中電灯を映してるだけ。感触も見た目も、ぜんぶ見た人間の思い込み」

「ま、魔法って、……ヒューマギアって、なんでもありじゃん⁉」

 今まで光を灯すだけだったサクヤだけど、やろうと思えば、こんなことも出来るんだ!

 改めて、術式って言葉の通り、サクヤは魔法そのものなんだって認識する。

 とは言っても、あたしが魔法を使ってるって感じはしないから、あたしが魔法使いって言われてもピンと来ないんだけど。むしろ、サクヤが魔法使いみたい。

「魔法使い……魔法使いかぁ」

 一柳先輩たちみたいに、もっとスマートに活躍できたら、あたしも魔法使いっぽくなれるのかな。それとも、杖とか持ってみちゃったり?

(いやいや、杖は浮かれすぎ! 恥ずかしい!)

 ……なんてことを考えながら、あてもなく歩き続ける。

 でも、どれだけ歩いても、やっぱり月はちっとも近付かないし、何も見つからない。

 すると、いよいよサクヤがしびれを切らして――

「おい、こんな無暗に歩き続けても、疲れるだけだろ」

 とんでもなく不機嫌そうな声が、隣から聞こえてきた。

「分かってるけど、どうしようもないじゃん。じゃあ、ぼーっと立ってればいいの?」

 あたしがムッとして、隣を歩くサクヤへ目を向けた、その時。

 ――ドンッ!

「うわっ⁉」

 何かが背中にぶつかってきて、あたしは思いっきりサクヤの方に倒れ込む。

 それこそ、抱き着くみたいな格好で。

「……あのさぁ、暑苦しいんだけど」

「はぁ~~? 好きでやってるとでも⁉ だって今、背中に何か……」

「知ってる。何かいたな、姿は見えなかったが。……というか、さっき実はオレもぶつかられた。透明人間でもいるんじゃないか?」

 しれっとした顔で言うサクヤにムカついて、あたしは歯をぎりりと噛みしめた。

(~~っ、ほんっとこいつ……!)

 勢いよく突き放すみたいにして、あたしはサクヤから離れる。はぐれるのは怖いし、絶対に嫌だから、手は握ったままなんだけど。

 あたしは懐中電灯で周囲を照らす。辺りには何も見えないし、物音一つしない。

「ね、ねぇ、もっと明るくできないの? こんな光じゃ戦えなくない?」

「戦う? おまえ、オレがビームを出せるって勘違いしてるだろ」

「違うわ! これだけ暗くちゃ、見えるものも見えないし、動くのだって怖いじゃん」

 ぶんぶんと懐中電灯を持った右手を振り回す。芝生の上で、影がうるさく動いた。

 ……そう、影が。

(あれ?)

 あたしの影の形を見ると、しっかりと懐中電灯を握りしめている。

 でも、さっきのサクヤの話だと、この懐中電灯は本物じゃないんだよね。感覚は思い込みで、ただの幻。なのに、影はできるんだ。

「……ねえ、サクヤ」

「うん?」

 あたしは手の中の懐中電灯をじっと見つめながら、サクヤに尋ねる。

「この懐中電灯にも影ができるくらいだし、透明人間でも、影くらいは見えたりしないかな。それで捕まえられない? 先へ進む方法が聞けるかも!」

「本気か? この状況でどこにあるかも分からない影を探すって、らちが明かないぞ」

「そこは、こう……。なんとかできない? この草原全体を明るくするとか!」

 それができたら、動き回る影なんて、すぐに見つけられるはずだよね。だってこの草原には、誰もいないどころか、木の一本すら生えていないんだから。

 でも、そんな無茶ぶりをされた側のサクヤは、うんざりした顔であたしを見ていた。

「簡単に言うなよ。忘れてないか? オレはただの魔法で、魔法使いはおまえだぞ」

「それ、よく分かんないんだけど。どういう意味?」

「そのままの意味だ。停電の時のこと、覚えてるか? おまえがすっかり元気をなくしていたあの時、オレは、あんなロウソクみたいな光しか出せなかった」

 停電って……そうだ、体育館倉庫のユガミに取り込まれた日だ。家に帰った後、雷がひどくて、家じゅうの電気が消えちゃった時。

 確かにあの時、サクヤは指先に小さな光を灯すだけで、懐中電灯みたいな、しっかりとした光は出せていなかった。

 今の話からすると、あたしが元気かどうかが、サクヤの力に影響するってこと?

「今はおまえが持ってる程度の光なら簡単に出せるみたいだが、おまえがどこまでやれるかは、正直わからない。ただ、この場所そのものを明るくするなんて、あまりにも……」

「よし、やってみよう!」

「は⁉」

 サクヤが信じられないものを見るみたいな目であたしを見た。

 でも、やってみないことには分かんないし、どうせできないって、もう言いたくない。

 しずかがこんなことになった今、それでも無理だって諦めたら、本当に自分のことが嫌いになっちゃいそうで、怖いんだ。

「ねえ、どうすればいい? 元気が出ればいいの? なんか食べればいい?」

「待て、無いだろ食べる物。……少し待て」

 そう言うと、サクヤは人差し指を口もとに当てて、何か考え込むような仕草をした。

 しばらくすると、サクヤは何かに気付いたみたいで、頭上の月をまっすぐ見つめる。

「あれを使おう。あの役立たずの満月」

「月を使う? どういうこと?」

「あの月にありったけの力を送って、光らせる。太陽に変えて、夜を終わらせる」

 確かにサクヤが言う通り、あの月は役立たずだ。ぼんやりとそこで光っているだけで、まるで地面を照らしてくれない。こんなんじゃ、影なんて見えるわけがない。

 どうしたらいいんだろう、と思いながら、サクヤの言葉の続きを待つ。

 すこし間があってから、サクヤは意を決したように小さく頷いた。

「環奈。成し遂げたいことを、おまえの意思を胸に抱いて、オレの名を呼べ」

 こちらを向いて、サクヤはあたしと目を合わせる。

 あたしも、まっすぐにサクヤを見つめ返した。

「オレの名は、おまえが使う魔法の名前だ。唱えれば、きっとおまえの道を切り開く。おまえはオレの力で、オレは、おまえの望みを叶える力なんだ」

 握ったままの手が、じわりと熱を持つ。

 サクヤの言葉ひとつひとつが、この手のひらを介して、あたしに伝わってくるみたい。

「聞かせろ、環奈。おまえの望みを――おまえの、魔法を!」

 ……あたしの望みは、このユガミに入った時から、ただ一つ。

 あたしが欲しいのは、しずかを助けるための力!

「この夜を終わらせて――サクヤ‼」

 サクヤは暗闇に浮かぶ月を見据え、空いている方の手のひらを高く掲げた。

 ゴォオオオオ――――

 その瞬間、あたしたちの周囲を、渦巻く風と強い光が包み込む!

 あたしは足元をさらわれないように、必死にバランスを取ってふんばった。

 そして、あたしたちの周りを満たす光の向こうに目を凝らし、星ひとつない夜空を、弱弱しく光っている丸い月を、じっと見つめる。

(すごい……っ!)

 サクヤの手のひらから、光の筋が何本も伸びて、月に吸い込まれていく。

 あたしは隣のサクヤの表情を盗み見た。歯を食いしばって、月をにらみつけるサクヤは、見たこともないような必死な顔をしている。

 でも、それがなぜだか、すごくカッコよく見えた。

「うわっ!」

 ……そんなふうに見とれていると、足首のあたりを強く吹き抜けた風に、体を持っていかれそうになる。

 大きくよろけたあたしに気付いて、繋いだ手を強く引っ張るサクヤ。

 あたしはその手に支えられて、なんとか風に飲み込まれずに済む。

「おいバカっ、バランス感覚ないのかおまえ!」

「ば、バカってあんた、……あっ!」

 いつの間にか、懐中電灯が光っていることも忘れるくらい、周囲は明るくなっていた。

 ……本当に、できたんだ。

 そう思うと、一気に力が抜けた。

 あたしはサクヤの手を離して、その場に尻餅をつく。空に光る球体が月なのか、太陽なのかはわからないけど、草原はすっかり明るくなっていて、遠くまでよく見えた。

(……あっ!)

 ほっとして一息ついたのもつかの間、遠くにひとつ、影が見える。

 やっぱり、そこには誰の姿もない。ただ影だけが、うろうろと動いていた。

「サクヤ、あれ!」

「あ、ああ……」

 少し疲れているみたいだけど、サクヤも影に気付いたみたいだった。あたしはそんなサクヤの手を引っ張って、影がある方に向かって走る。

 すると、影はあたしたちに気付いたみたいで、途端にあたしたちとは反対の方向に逃げ始めた。姿は透明で見えないけど、近づいたことで影の形がはっきりする。

 それは、長い髪をした女の子で――まるで、しずかみたいだった。

「っおい待て、環奈‼」

 ふと、後ろでサクヤが必死に叫んだ。

 振り返ろうとしたその瞬間、追っていた女の子の影があたしの方に伸びてきて、形を変え始める。ぐにゃぐにゃと動く黒い影は、やがてあたしの影とひとつになって……

「――ちょっ、うそっ!」

 それは、あたしを飲み込むみたいに、大きな穴へと変わった。

 急に足場がなくなって、あたしは驚きのあまり、サクヤの手を離してしまう。

 サクヤは焦って、あたしに向かって必死に手を伸ばす。あたしもその手を取りたくて、上に、天に向かって、必死に手を伸ばすけど――……

 その指は、サクヤの手のひらをほんの少しだけ掠めて、空を切った。

14 苦い記憶の世界で

「う~~ん……」

 頭がぐわんぐわん揺れている。まぶたが重くて、体がだるい。

 ……でも、立たなくちゃ。

 あたしはよろめきながらも、なんとかその場に立ち上がる。

「ここは……」

 窓から差し込んでくる夕日がまぶしい。辺りは静まりかえっていて、人の気配はない。

 そして、立ち上がったあたしの目の前にあるのは、黒板だ。

(あたし、ユガミの中にいたよね?)

 どこからどう見ても、今あたしが立っているのは教室の中だった。

 おかしい。足元の影が急に穴に変わって、あたしはそこから落っこちたはずなのに。

 不思議に思いながら、あたしは天井を見上げる。当然、穴なんて開いていない。

 とにかくサクヤを探そうと思ったあたしは、教室の様子を見るために後ろを振り返る。するとそこには、思いもよらない人物が立っていた。

「しずか⁉ ……と、汐田くん?」

 並んだ机の後ろ、壁沿いに置かれたロッカーの前に、しずかと汐田くんが立っている。

 それも――初等部の頃の姿で。

 初等部の制服を着た汐田くんを見るのは、すごく新鮮だった。だってあたしは初等部の時、汐田くんとは一度も同じクラスになったことがなくて、……だからこそ、しずかとよく話している違うクラスの男の子として、記憶に残っていたんだ。

 あたしは慌てて、机の間の細い隙間を抜けてそちらへと駆け寄る。

 でも、二人はあたしになんかちっとも気付いていないみたいだった。

 とにかく声をかけようとして、あたしが口を開いた、その時。

『汐田……最近、おかしいよ』

 水中にいるみたいにくぐもった、しずかの声がした。

 よく見ると、しずかも汐田くんも、体が透けている。まるで、本当はここにいないみたいに。

(まさか、これも幻?)

 あたしはしずかの肩へと手を伸ばす。……でも、あたしの手が、しずかに触れることはなく、いつかのサクヤと汐田くんのようにすり抜けてしまう。

 胸が、締め付けられるように痛んだ。

 目の前にいるのに、しずかに触れられないのは……こんなにも辛いんだ。

『月島には関係ないだろ』

 ふと、また別の声がして、あたしはそちらへと視線をやった。

 聞き覚えがある、今よりも少しだけ高い、汐田くんの声。

 ……これって、あたしが勝手に見てるだけの幻なのかな。

 それとも――過去に実際にあったこと?

『っ、関係ないって……そればっかり。そんな顔して、よく言うよね』

 一言一言を絞り出すみたいに言うしずか。

 あたしはその声に合わせて、汐田くんの表情を伺う。確かに汐田くんは、ひどく疲れたような、やつれた顔をしていた。

『放っておいてくれない? おれ、月島には何も言わないって決めてるから』

 しずかが小さく息を呑むのが、わかった。

 あたしは「しずか」って名前を呼んだけど、その声はしずかに届かない。

『……っ』

 痛いほどにこぶしを握り、俯いて唇を噛むしずか。

 そこであたしは、思い出す。しずかと汐田くんがギクシャクし始めたのは、確か初等部六年の秋、運動会の少し前だったってことを。

 あたしはバッと勢いよく後ろを振り返って、黒板の右端に目を凝らした。

 そして、そこに書かれた日付を確認する。……あたしの予想は間違っていなかった。

(十月二日……じゃあ、あたしが今見てるのって!)

 再びしずかたちの方へ視線を戻せば、教室の後ろ側の黒板には、『運動会まであと七日!』という元気な文字があった。

 そう、今あたしが見ているこれは、きっと――しずかと汐田くんの仲が悪くなった、切っ掛けの出来事なんだ。

 それに気付いた瞬間、視界がぐらりと揺れた。しずかと汐田くんの姿がぼんやりとして、どんどん遠ざかっていく。

「しずかっ!」

 あたしは、苦しそうに俯くしずかへと必死に手を伸ばした。

 声は届かないし、触れられないってわかっていても、あんな顔をしているしずかを放ってはおけなかったんだ。

 ……でも、どんなに必死に叫んでも、しずかには届かない。

 やがて視界は完全に霧で覆われてしまう。

 どうしたらいいか分からず、あたしは立ち尽くしたまま一歩も動けなくなる。

 そうしているうちに、少しずつ、霧が晴れてきた。ぼやけながらも見えてきた景色を見失わないように、あたしは必死に目を凝らす。

「――え?」

 そして、信じられないものを見た。

 学校の正門を抜けた後、中等部へ向かう道中に、しずかが立っている。

 しずかは中等部の制服を着ていて――その目の前に立つ透けたあたしは、しずかと目を合わせずに、立っていた。

『それが、八代の答えなの?』

 さっきまでと同じように、くぐもったしずかの声は、それでも震えてるってことがはっきりと分かる。

 今朝の出来事だって、すぐに分かった。

 後悔で胸がいっぱいになる。

 しずかの目を見ようとしない今朝の自分に、腹が立って仕方がない。

 しずかの表情が見えてないの? どうして向き合わないの?

 全部、ぜんぶ自分がしたことだ。それでもあたしは、ついさっきの自分がどうしても許せなかった。

 でも、この後悔が、過去を変えることなんてない。目を背けたまま、半透明のあたしが口を開く。

『……ごめん、しずか』

 まるで中身のない「ごめん」を言って、今朝のあたしは、俯いたまま。

 そんな過去の自分にもどかしさを感じながら、あたしはしずかの表情へと視線をやって――言葉を失った。

 あの時、あたしはちっともしずかを見ようとしなかったから、気付かなかったんだ。

 いつものクールさなんてどこにもない、眉を八の字にゆがめて歯を食いしばる、悲しさと悔しさでぐちゃぐちゃになったみたいな、しずかの顔に。

 そのまま、何も言わずに昇降口の方へと走っていくしずか。過去のあたしはそんなしずかを追うこともせず、突っ立っているだけ。

「追ってよ……追えよ、バカっ‼」

 言ったってどうしようもないのに、叫ばずにはいられなかった。

 今朝の自分を強くにらんで、今度こそあたしは、しずかを追いかける。勉強は苦手でも、運動は得意なんだ。……あの時は追いつけなかったけど、今なら、しずかに追いつける!

 力強く地面を蹴って、あたしは無我夢中で走った。もう二度と、しずかを見失わないように。

 昇降口をくぐり抜けると、前を走るしずかの足取りが大きく揺らいだ。でもしずかは、倒れこんだりはしないで、ローファーから上履きに履き替えると、ふらふらと西階段の方へ走っていってしまう。

 あたしは立ち止まって、今朝のことをしっかりと思い出した。

 そうだ。この後しずかは、踊り場で……!

「待って、しずか!」

 あたしは必死にしずかを追った。止めても無駄なのに、触ることなんてできないのに、その後ろ姿に手を伸ばした。

 やがて、追いかけっこの末に辿り着いた踊り場で、しずかはようやく足を止める。

 泣き腫らしたしずかの目を、いびつに映す鏡。このままじゃ教室に入れないと思ったのか、しずかは制服の袖で両目をごしごしと擦り始める。

 でも……拭ったそばから、涙はあふれてくる。小刻みに震えるしずかの肩を見れば、まだ泣いていることなんて、すぐにわかった。

『なんで……っ、みんな、わたしを……!』

 弱々しく、でも必死な声で、しずかは言う。

 しずかが泣いているところなんて、初めて見た。

 こんな泣き言を聞くのも、初めてだった。

 あたしはしずかに歩み寄って、みんなが思うより本当はずっと頼りない肩へ手を伸ばす。抱きしめたかった。ごめんねって、しずかを抱きしめたかった。

 でも、伸ばした腕が、しずかの元へ辿り着くことはなくて。

 ――その時。

 ガッ‼

 とつぜん鏡から這い出た黒い手が、あたしが触れられなかったはずのしずかの肩を、しっかりと掴んだ。

 しずかは抵抗するかと思ったけど、黒い手が体に触れた瞬間、体の力が抜けたみたいに鏡の方へともたれ掛かってしまう。

「だめ……しずか! しずかっ‼」

 あたしは黒い手をしずかから引きはがそうとするけど、やっぱりあたしの手は、何にも触れられない。黒い手はそのまま、しずかを鏡の中へ引きずり込んでいく。

 しずかを取り込んだところから、鏡の全体へ、紫色の濃い靄が広がっていく。

 鏡の中へ消えていく親友を前に、何もできないあたし。

 これは、しずかの過去だ。去年の秋と、今日の朝。あたしが何かできるはずがないって、そんなことは分かってる。

 それでも――ここで引き下がるわけにはいかなかった。

「待ってて、今行くから!」

 あたしは体当たりするみたいに、たった今しずかを取り込んだばかりの靄の中心へ、右肩からひじの辺りまでを思いっきり押し付けた。

 右半身が、一気に鏡の中へと沈む。

 大きくゆらめいた体を支えようとしたけど、次第に頭がぼんやりとしてきて……そのまま、あたしは意識を失った。

15 本当に欲しかったもの

 冷たい床の感触に、あたしはパッと目を開く。

 ……しまった、また気を失ってたみたい。

 木の床に手をついて、あたしはゆっくりと身を起こす。

「起きたか、ねぼすけ」

 すると、すぐに頭上から憎たらしい声が降ってきた。

 でも、びっくりするほど安心している自分もいて、なんとも言えない気持ちになる。あたしは「うるさい」という文句とともに、声の主――サクヤを見上げた。

「あたし、ずっと寝てたの?」

「さあ? 少なくとも、オレは寝てるおまえしか見てない。オレもここへ来たのは、ついさっきなんだ。間抜け面に飽きる前に起きてくれて、良かった」

「嫌味なやつ!」

 元気よく言って、あたしはその場に立ち上がる。

 そして……すぐに、今あたしたちがいる場所が、初等部の教室であることに気が付いた。

「……あれ?」

 でも、まず最初に確認した黒板には、強烈な違和感がある。

 ――日直や日付を示す文字が、すべて反転していた。

「うえっ、文字が読みにくい……『八代』と『月島』?」

 日直のところに並んだ二つの名前を、なんとか読み上げる。

 黒板横の掲示板を確認すると、そこにはしっかり『六年二組』と反転した文字で書かれていた。つまりここは、去年まであたしとしずかが通っていた教室ってことだ。

 ただ、日直欄に去年初等部を卒業したあたしたちの名前が並んでいるのはおかしいし、全部が鏡映しになってるってことは……

「まだユガミの中、ってことかぁ」

「ああ」

 当たり前だ。そもそもあたしは、過去の出来事を映す世界でも、しずかを追いかけてユガミの中へ飛び込んだんだから。

「そうだ、環奈。あれを見ろ」

 ふと、サクヤが教室の後ろの方を指さす。

 あたしはサクヤの人差し指の先を目で追って……その先で、驚くべき光景を見た。

「しずか⁉」

 そこには、猫のように丸くなって眠る、しずかの姿があった。

 中等部の制服を着ていて、これが本物のしずかだって、なんとなくわかる。

 あたしはそちらへと駆け寄って、しずかの肩を揺する。今度こそ、あたしはその体に触れることができたけど、しずかが起きる気配はちっともない。

 それどころか、かなり強く揺すったのにもかかわらず、その体は凍り付いているみたいにびくともしなかった。

「……ん?」

 ふと、しずかの腕の中の何かが、窓の外の光を反射してキラリと光るのを見た。

 しずかは、ただ丸まって眠っているんじゃない。……守るみたいに、腕の中の何かを抱きしめているんだ。

 あたしは、しずかが抱きしめているそれが何かを確認して、驚きに目を見開いた。

「水晶だ。これって、まさか!」

「ああ、そのまさかだ」

 入部テストの説明を受けた時に、一柳先輩から聞いたユガミの消し方についての話を思い出す。

『ユガミの中に入って、そのどこかにある《コア》を破壊するんだ。水晶みたいな見た目の、大きなガラス玉だね』

 ――そう。

 しずかはまるで、あたしたちからコアを守るみたいに、深い眠りについていた。

「ど、どうしたらいいのっ、これ⁉」

 あたしは助けを求めるように、後ろに立つサクヤを見た。

 だって、触れるってことは、今目の前にいるのは本物のしずかだ。ここから助け出さないといけないし、出るにはこのコアを壊さないといけない。

 でも、乱暴にしたらしずかに危険が及ぶ。かと言って、この様子じゃ、しずかはちっとも目を覚ましそうにない。

 サクヤはかなりの力を使った挙句、あたしを探し回ったことで疲れているのか、あまり頭が回らないみたいだった。それでも、首をひねって一緒に考えてくれる。

「難しいな……。前に体育館倉庫で、金持ち女が言っていただろう。普通、魔法使いじゃない人間が、ユガミの中で意識を取り戻すことは、ないって……」

 ……そうだ。それはつまり、どれだけ揺すっても、しずかは目を覚まさないってこと。だってしずかは、魔法使いじゃないから。

 どうしよう。……どうしたら、いいの?

 急がないと、しずかがどうなるか分からない。汐田くんにも心配をかける。

 あたしがしずかのすぐ近くに膝をついて、何もできない悔しさに下唇を噛んでいた、その時。

「悪い、環奈……。もうそろそろ、限界だ……」

 か細いサクヤの声が耳に届いて、あたしは背後を振り返った。

 そこには、過去の世界でのしずかたちのように、半透明になって奥の景色を透かしているサクヤの姿があった。

「サクヤ、大丈夫⁉」

「ああ、ちょっと力を使い過ぎただけだ……。しばらく眠る」

「は⁉ 信じられないんだけど、この状況で⁉」

 サクヤの体がどんどん薄くなっていく。

 しかし、そんな状態でも、サクヤは何事もなさそうに笑ってみせた。

「おまえが、そいつとの問題を解決するのに……オレの力は、必要ないだろ」

「そ、そんなこと言われても!」

「バカ、思い出せ。……金持ち女が、言ってただろ。普通は、目を覚まさないって」

 普通、のところを強調して、サクヤが言う。

「今、こういう状況になってるのは、おまえらが……お互いのことを、普通以上に、思い合ってたからだ。だから……諦めるな、環奈」

 その言葉を最後に、サクヤはフッと姿を消した。

 取り残されたあたしは――サクヤの『諦めるな』という言葉を胸の中で繰り返して、再びしずかの方へと向き直る。

「……起きてよ、しずか」

 囁いて、あたしはしずかの肩に手を添えた。

「ごめん。あたし……しずかの気持ち、考えてなかった。ちゃんと話すって決めたのに、しずかに知られることで、日常に帰れなくなるような気がして……怖かったの。あたしにとってしずかは、ずっと続いて欲しい日常、そのものだったから」

 しずかのまぶたは、固く閉ざされたまま。

 あたしは、肩に触れていた手を、しずかの頬へ伸ばす。体はぴくりともしないけど、頬は暖かいから、生きているってわかる。

「でも、しずかの辛そうな顔を見て、わかった。……泣くなら、あたしの前で泣いてくれたらいいのにって、そう思ったから。しずかはそういう気持ちを、先週から……ううん、きっと汐田くんとケンカした時から、ずっと我慢してたんだね」

 ああ、なんでかな。

 なんで、あたしの目から……涙が出てくるんだろう。

「話、聞いてほしいよ……。誰よりも先に、しずかに聞いてほしい……! あたしが感じたこと、見てきたもの、しずかに知ってほしいの‼」

 ほとんど泣き叫ぶみたいに、言った。

 しずかの頬を撫でる手が震えて、次から次へと涙があふれてくる。

「こんなとこっ、もう出よう……! あたしが壊すからっ、帰ろう? だって、あたしの欲しかった日常は、しずかが何も知らないでいることじゃ、なくって……っ!」

 みっともなくしゃくりあげながら、あたしは必死に言葉をつむぐ。

 気付けばあたしは、眠るしずかにすがり付くような体勢になっていた。

 でも、そんなの、どうだっていい。

 ぎゅっと目をつむって、ひとつひとつ確認するみたいに声に出しながら、あたしは気付いていく。閉じこもるみたいにコアを守るしずかに触れて、揺さぶって、せき止められていた自分勝手なさびしさが、次から次へとあふれ出す。

 声が聞きたい。もう二度と、あたしに背を向けないでほしい。

 そのために、あたしができることなら、なんだってする。

 そう――本当は今朝だって、同じ答えに辿り着けたはずなんだ。

 これまでの全部を、しずかに話す。たったそれだけのことで壊れる『日常』なんて、あたしが守りたかったものじゃない。

 あたしが、本当に守りたかったのは――

「しずかが、あたしの隣で笑ってくれる、毎日なんだからっ‼」

 声を枯らして、あたしは叫んだ。

 そして――みっともなく震えるあたしの手に、あたしより少し体温が低い誰かの手が、重ねられる。

「八代の、ばか……」

 聞こえてきた声に、心臓が大きく跳ねた。

 あたしはバッと体を起こして、固く閉じていたまぶたを見開く。

 そこには、薄く目を開けてこちらを見る、しずかがいた。

 しずかは、あたしの手をきゅっと握って――泣きそうな顔で、笑っていた。

 あたしはしずかの上体を起こして、そのまま強く抱きしめる。

 しずかの腕から滑り落ちたコアが音を立てたけど、そんなの、今はどうでもよかった。

「かくれんぼに、本気、出しすぎだってば……!」

 未だに泣き止まないまま、声を震わせるあたし。

 しばらくして、しずかはゆっくりと、あたしの背中を抱きしめ返してくれた。

「ごめん。……ごめんね、八代」

 いつも通り落ち着いているようで、あたしの背中に触れるしずかの手も震えている。

「ありがとう……」

 そう呟いたしずかも、きっと泣いていた。

16 ユガミからの脱出

 ……あたしたちはしばらく、そうやって抱き合っていた。

 でも、ずっとそうしているわけにもいかない。まずはここから出ないと、と自分を奮い立たせて、あたしはしずかを抱きしめていた手をゆっくりとほどく。

 しずかはよろめきながら、その場に立ち上がり、周囲の様子を確認した。

「ここ、どこ? 六年二組みたいだけど……文字ぜんぶひっくり返ってない?」

 そして教卓側の黒板に歩み寄り、この落ち着いた反応。うん、それでこそしずか。

 あたしも立ち上がって、そばに落ちていたコアを拾い上げる。

「ユガミの中だよ。……ユガミっていうのは、人を取り込んで、心のエネルギーを吸っちゃう場所なんだって」

「ユガミ……? よく分からないけど、八代はわたしを助けに来てくれたの?」

 驚いた様子でしずかがこっちを見るから、ちょっとだけ誇らしげに、あたしは胸を反らした。

「大親友のしずかのためなら、海でも山でも地獄の果てでも、どこにだって行くよ!」

「話を聞いた感じ、海や山の百倍は大変な場所みたいだね。地獄よりはマシだけど」

 うーん、やっぱりすごいな、この落ち着きっぷり。

 あたしが感心していると、しずかはあたしが抱えているコアへと目を向けた。

「それ、わたしが抱えてたやつだよね。水晶玉?」

「ああ、これは要らないヤツ! とっとと壊して――」

 あたしがコアの説明をしようとした瞬間、急にしずかがぴたりと動きを止める。

 そして、あたしの背後を……それこそ地獄の鬼でも見たような顔で、じっと見つめていた。

「なーにこんなトコで話してんだ? 八代さんと月島は」

 どきり、と心臓が跳ねる。

 ……この声って。

「あ、あんた、には、関係ない……」

 ロボットみたいにぎこちなく、しずかが声を発する。

 あたしはゆっくりと立ち上がり、背後を振り返って……

 ガシャ――ン‼

 ほっとしたような気持ちがどっと押し寄せ、一気に手の力が抜けたせいか、持っていたコアを思いっきりその場に落として割ってしまった。

「うお、びっくりした。意外と荒っぽいな、八代さん」

「汐田くん……!」

「おう。あんまり遅かったら迎えに来るって言ったじゃん? だから来たんだけど、おれ要らなかったな」

 汐田くんは少し体を傾ける形で、あたしの奥にいるしずかの方をまっすぐに見た。

「月島、さんざん力吸われた後だろ。肩貸すから、あんまり無理しない方がいいよ」

「別に……」

 しずかはプイっとそっぽを向く。でも、それ以上は食って掛からない辺り、図星だったんだろう。

 汐田くんは傾けていた体を元に戻して、困ったように頭の後ろを掻いた。

「ほんと強がりだな、月島は」

 続けて、粉々に砕け散ったコアの破片へと視線を落とす。

「よし。これであとは、ユガミから出るだけだよな。おつかれー、八代さ……」

 いつもと同じ笑顔で、あたしに声を掛けようとした汐田くん。

 でも、その顔は、みるみるうちに真っ青になって……

「月島っ‼」

 ひどく慌てたような汐田くんの声で、あたしもハッとした。

 背後から鈍い音が聞こえて、勢いよく振り返る。

 ……そこには、黒板の前で力なく倒れ伏すしずかの姿があった。

「しずか⁉」

「コアを破壊した影響だ。吸収されてた力が急に戻って、それに耐えられなかったんだろ。……たぶん、気を失ってるだけだ」

 言いながら、汐田くんは仰向けに倒れているしずかの方へ一歩踏み出す。

 そして、……次の瞬間。

 ガタガタガタガタ‼

 轟音を立てながら、教室が大きく揺れ始めた!

「っ、マジか……!」

 びっくりして、汐田くんは出しかけた右足を元の位置に戻した。

 その時、バキバキバキッ! というひときわ大きな音が辺りに響く。

「しまっ――」

 しまった。多分、汐田くんはそう言いたかったんだろう。

 あたしは小さく悲鳴を上げて、汐田くんは倒れたしずかへ必死に手を伸ばす。

 でも、時すでに遅し。床板には、大きな亀裂が入り――あたしと汐田くんがいる、教室の後ろ側と、しずかが倒れている教卓側は、底なしの谷に隔てられてしまった。

「ど、どうしよう! しずかが!」

「くそっ! ……術式コード04、ユキト!」

 汐田くんが叫ぶ。

 その直後、一面が水色の光に包まれ、その中からユキトさんが現れた!

「ユキト、月島を助けろ! 必ず‼」

「了解」

 冷静に返して、ユキトさんは右腕を振り上げる。

 すると、強い冷気とともに、キ――ン……という張り詰めた音が教室内を満たした。

「な、なに……って、うそ⁉」

 瞬きをして、もう一度しずかの方へ視線を向けると――深い亀裂には、氷の橋がかかっていた!

 ユキトさんは足を滑らせることもなく橋の上を駆け、気を失ったままのしずかを横抱きにして戻って来る。

 そして、汐田くんの方を何か言いたげな顔でじっと見る……んだけど。

「なに、おれが抱えろって? ヤだよ、気ぃ失ってる間に体に触ったってバレたら、おれが後で月島に殴られる」

「おい望」

「ところで出口は? 八代さん、分かる?」

 困惑ぎみに抗議しようとするユキトさんをさっくり無視して、汐田くんはあたしの方を横目に見た。

 あたしは周囲を確認して、ふと、扉の向こうの景色が本来のものとは違うことに気付く。

 本来なら廊下があるはずの、教室の外。

 そこに、あたしは確かに階段を見た。

「扉だ! 踊り場が見える、あっちが出口だよ!」

「オッケー! 行くぞユキト、絶対に月島を落とすなよ!」

「ぼ、僕は責任を取れないぞ! 結婚はまだ早――……」

 みんなが付いてきていることを確認して、あたしは教室と踊り場との間に横たわる敷居を踏み越えた。

 ユガミと現実の境界を越えた影響で何も聞こえなかったけど、なんだかユキトさんがとんでもないことを言っていたような気がする。

 ……でも、踊り場の床に強く投げ出されたことで、そんなことは頭からすっぽり抜け落ちてしまった。

「イッタタタタ……」

 思いっきり打ち付けた左肩をさすりながら、あたしは立ち上がる。

 隣には尻餅をつく汐田くんと、主人の言いつけをしっかり守って、自分がしずかの下敷きになる形で背中から倒れているユキトさんがいた。

 ほっとしたのもつかの間、あたしは今しがた自分たちがどこにいたのかを思い出して、鏡の方へと視線を向ける。

 ――そこには一枚の、どこも歪んでいない、ごく普通の鏡があるだけだった。

「よかったぁああ~~……」

 あたしはその場に膝をついて、情けない声を出す。

 汐田くんも立ち上がって、制服のお尻の辺りをぱんぱん叩いた。

「今度こそお疲れ様、八代さん! ユキトもお疲れ~」

「……」

「ユキト? おーい、どうした?」

 あたしも汐田くんにつられて、未だにしずかと一緒になって倒れ込んでいるユキトさんへと視線を落とす。

 ……そこには、いつものカタい表情のまま、顔を赤くしたり青くしたりを繰り返すユキトさんの姿があった。

「け、けけ結婚しないと……。女性とこんなにも、体を密着させてしまった……!」

「だからさぁ、手ぇ繋いだりちょっと抱えたくらいで結婚にはなんないって」

 呆れた声を出しつつ、汐田くんは頬をかく。

「いつもこうなんだよ、こいつ。硬派が過ぎて、女子にちょっとでも触れたら、すぐ責任取って結婚しないと~とか言い出すんだよなぁ」

「ええ……?」

 ちょっと引き気味に、未だに顔色をめちゃくちゃに変えているユキトさんを見守るあたしたち。

 でも、だったらなおのこと、汐田くんが抱えて出ればよかったのに。

「ちなみに、月島じゃなかったら絶対におれが抱えて出てたよ。こうなると、めんどくさいから」

 あたしの胸の内に生まれた疑問を、まるで見透かしているみたいに話す汐田くん。

 月島じゃなかったら、って、なんでそんなことを言うんだろう。

「ねえ。汐田くんって、しずかのこと……嫌いなの?」

「え、おれが? まさか! ホント、怒られるのが嫌ってだけだよ。……いちいち、アイツが嫌がるようなことをする必要もないしな」

 そう言って、汐田くんは未だに気を失ったままのしずかを見つめた。

 その目は――あたしがしずかを見る時と同じ、大切な友達を見る目だ。

(……ああ、そういうことだったんだ)

 あたしは、やっと気付いた。

 汐田くんとしずかは、今朝までのあたしとしずかの二人と、同じなんだって。

『だめ。月島は連れていかない』

『汐田……最近、おかしいよ』

 大切だから、何も言わない。

 大切だから、変化に気付く。

 変わってほしくないから、秘密にする。

 変わってほしくないから、心配する。

 ……全部、お互いに同じ気持ちだからこそ起こってしまう、すれ違いなんだ。

「さて。じゃあ、めんどくさいヤツはしまうか!」

 そう言って、汐田くんは「《スリープ》」と慣れた発音で唱える。

 すると、顔が面白いことになっていたユキトさんは、たちまち姿を消してしまった。

「う、んん……」

 急に下敷きを失って、床に体を軽く打ったしずかが、小さく声を上げながら起き上がる。

 あたしは目を輝かせて、しずかの方へと駆け寄った。

「八代……?」

「よかったぁ! ……しずか、中でのことは覚えてる?」

 しずかは少し考えこむような仕草を見せてから、こくりと頷く。

「そっか。じゃあ、話を――」

 そこまで言いかけて、あることに気付いたあたしは、汐田くんの方を振り返る。

 ……しずかのことを大事に思ってるからこそ、これまでユガミとか、魔法使いに関することから、しずかを遠ざけていただろう汐田くん。

 あたしが今ここで……全部話していいのかな?

 そんな風に考えていると、あたしが聞きたがっていることを察したのか、汐田くんは眉を下げて笑った。

「八代さんの判断で決めていいよ。もう今は、月島の一番の友達は……八代さんなんだから」

 それだけ言うと、汐田くんはひらひらと手を振りながら、階段を上っていってしまった。

 あたしは一つ深呼吸をして、しずかの方へと向き直る。

「あのね、しずか。今から、たくさん話したいことがあるんだけど……聞いてくれる?」

 しずかは何度がまばたきを繰り返して――頬を、緩めた。

「うん。聞かせて、八代」

17 私立清咲学園中等部のうるさい魔法たち

 そして、その日の放課後。

 あたしは汐田くんに言われて、魔法研究部の部室前に来ていた。

「部室なんてどこにもないけど」

 隣で、疑うような声でしずかが言う。

 ……そう。実はしずかにも、魔法研究部について、ちゃんと話すことになったんだよね。

 理由としては、ユガミの中で目を覚ましたことによって、しずかが、普通の人と魔法使いとの中間くらいの存在になってしまった可能性があるから……って。

 考えすぎかもしれないけど、仮にしずかの体に変化があって、たとえば初期段階のユガミに自分から入れるようになってしまっていたら、大変なことになる。

 踊り場の鏡に出たユガミ――その最初の頃を例に出すなら、普通の人が鏡に手をついてもなんともないけど、しずかがうっかり手をついたら、パートナーのヒューマギアもいないまま、中に入っちゃうことになるし。

(ええっと、確か、しずかを連れて部室に入るには……)

 そうだ。汐田くんいわく、魔法使い以外を部室に入れる時は、手をつないで入ればいいんだっけ。

 あたしは何も言わずに、しずかの手を握る。しずかは不思議そうにあたしを見るけど、すぐに握り返してくれた。

「それじゃあ、行こう。しずか!」

 シミに手をついて、あたしはしずかを振り返る。

 しずかの表情から不安げな色は抜けないけど、それでも、こくりと頷いた。

 ……やがて、あたしの手が壁に沈んだのを皮切りに、あたしたちは二人続けて壁の中へ飲み込まれていく。

 しずかは、あたしの手をしっかりと握っている。……だから、怖くはなかった。

 そして――視界に、やわらかな光が戻ってくる。

 パーンッ!

「えっ⁉」

 急な破裂音に、あたしは目を白黒させる。

 でも、そんなのはお構いなしに、再び破裂音。

 パンッ! パンッ! パ――ン!

「なっ、なに⁉」

「――カンナちゃん、入部テスト合格、おめでとーう‼」

 目の前には、クラッカーを手にニッコリと笑う一柳先輩が立っていた。

 その後ろには、同じくクラッカーを持った星名先輩と汐田くん、それからユキトさんの姿まである。

「ちょっと、八代。このお祭り騒ぎ、なんなの?」

 あたしに続いて部室の中へ入ってきたしずかは、少し驚いた様子で部室の内部を見回している。

 ……あれ。もしかして、魔法使いじゃないしずかにはユキトさんが認識できないから、クラッカーが浮いてるように見えてたりするのかな。

 ちょっとだけ気になって、あたしがしずかに尋ねようとした、その時。

 しずかが来ていることに気付いた汐田くんが、片手を上げた。

「やっほー、月島。おまえも八代さんの入部テスト合格祝い?」

「はぁ? 汐田が言ったんでしょ、今日の放課後ここへ来いって」

 両腕を組んで、とげとげしい雰囲気をまとい始めるしずか。

 でも、今のあたしはそれどころじゃない。

「ケーキにジュースまで……! これ、あたしのために用意してくれたんですか⁉」

「ええ、そうよ。存分に楽しんでおゆきなさい!」

 腰に手を当て、高飛車なポーズを取ってみせる星名先輩。

 すると、使用済みのクラッカーを机の上に置いた一柳先輩が、あたしの方へと歩み寄って来る。

「入部の意思があるか無いかはともかく、なんのお祝いもないのはさびしいと思ってね。キミとお友達を危険な目に遭わせちゃったお詫びの意味も込めて、入部祝いじゃなくテストの合格祝いって名目で、こうしてパーティーを開くことにしたんだ!」

 一柳先輩は、ステージに立つスターみたいに両腕を大きく広げた。

 しずかは少しげんなりした様子で、そんな先輩の姿を見ている。

「ところで、わたしはなんの理由があって呼ばれたんですか?」

 しびれを切らしたようにしずかが尋ねると、一柳先輩はすぐに表情を引き締めて、しずかの方を見た。

「そうだね。キミには、……この魔法研究部への入部を打診したい」

「なっ⁉」

 先輩たちの後ろで、なぜかユキトさんがすっとんきょうな声を上げた。

 でも、そんな声はさっくり無視して、一柳先輩は続ける。

「正式な部員と言うよりは、主に情報を共有するための準部員的な扱いでね。キミは魔法使いじゃない、つまりは身を守るすべを持っていないのに、ユガミに入ってしまう可能性があるから」

「……ユガミの中で、目を覚ましたからですか? 普通は有り得ないことなんですよね」

 しずかの問いに、真剣な表情で頷く一柳先輩。

「杞憂ならいいんだけどね。まだキミが、ユガミを認識できるかは確定していないし……」

「ま、待て流星! 僕のこ、こここ婚約者に、危険が及ぶってことか⁉」

 一柳先輩の声にかぶせるみたいに、慌てた様子のユキトさんが割って入ってきた。

 全てを察したのか、呆れかえった目で汐田くんを見る一柳先輩。……いや、先輩だけは、そういう目をしちゃいけないと思うんですけど。似たようなもんだし。

 ちなみにその隣では、考えることをやめたのだろう星名先輩が、呑気に紅茶を飲んでいる。もうこれは、本当に恒例行事なんだろうなぁ。

 ――すると、その時。

「あの」

 苛立ちをたっぷり含んだしずかの声が、室内に響いた。

 あたしはしずかの方を振り返って、その視線の先を追う。

(……え?)

 そしてぽかんと口を開けたまま、目を丸くした。

 しずかは、……ユキトさんが立っている辺りを、確かに見ている。

 やがてしずかは、その唇を開いて――

「婚約者って、なんの話?」

 静まり返った部室に、パリーン! という何かが割れるような音が響いた。星名先輩が、ティーカップを床に落としたのだ。

「あ、あなたまさか、ユキトが見えて……?」

「嘘でしょ? 嘘だよねシズカちゃん? 彼が見えるの?」

 汐田くんもびっくりして口をはくはくさせている。

 一方のユキトさんは、と言うと。

「や、やはり婚約が成立して……⁉ せ、責任を取らねば……!」

 などと、別の意味で焦っている。

 見かねた汐田くんがこちらへやって来て、あたしの腕をぐいっと引くと、左耳のすぐそばまで顔を寄せてきた。

「八代さん。出せそうなら、パートナー出してみて。月島に見えるか確認しよう」

「う、うん……」

 そんなに近づく必要、あったかな? 妙にどぎまぎして落ち着かない。

 とにかく、汐田くんに耳打ちされた通り、あたしはサクヤの名前を呼ぶ。

「術式コード01、サクヤ」

「……おい、人をリトマス紙みたいに使うな」

 すぐに姿を現したサクヤが、不満げにあたしをにらむ。

 良かった。姿を現せるくらいには、回復してるみたい。

「八代さん、出せた?」

「うん。……ねえしずか、あたしの隣に立ってる仏頂面の男、見える?」

「おい」

 なんだか抗議の声が聞こえてきたような気がするけど、無視。

 一方のしずかは、目を少しだけきらきらさせながらあたしを見て……

「八代、手品うまいね。人が出てきた」

「手品じゃない! 手品じゃないからーっ‼」

「げぇっ、やっぱ見えてる!」

 ヒューマギアが見える、ということを確定させるような反応に、汐田くんは頭を抱えた。

「おれ、月島以下じゃん! ユキトしか見えねえもん!」

「こ、婚約は成立していないのか? 彼女と僕は結婚するんじゃなかったのか⁉」

 まったく別な理由でショックを受けている、汐田くんとユキトさん。

 そこで、ようやく状況を飲み込めたらしい一柳先輩が口を開く。

「普通の人間がユガミの中で目覚めると、こんな影響が出るんだな……。であれば、キミがユガミを認識できるのは、ほぼ確定事項だね。やっぱり部長として、キミには入部をお願いしたいな」

「部長だったんだ……」

「部長だったんだな……」

 あたしとサクヤの反応がほとんど一致する。

 しずかはそんなあたしたちを見て、くすくす笑った。

「仲いいんだね」

「「よくない!」」

 今度は完全に一致した。

 しずかはまた少し笑ってから、一柳先輩の方へ向き直る。

「ユガミの出現状況を、都度教えてもらえるってことですよね。……だったら、入部させてください。もうあんな風に、八代に迷惑はかけたくないので」

「しずか……!」

 胸がじぃーんとする。

 そんな風に言ってくれるしずかのためだから、あたしはどこにだって、しずかを助けに行けるんだ。行きたいって、思えるんだ。

 あたしが一人で泣きそうになっていると、しずかがくるりと振り返って、こっちを見た。

「八代は、入部しないんだっけ」

「え? ……あっ」

 そういえば、そういうことになってるんだっけ。

 ――でも、答えはもう、決まってる。

「ううん。……部長、今からでも遅くないなら、入部させてください!」

 あたしは一柳先輩の目をまっすぐに見て、言った。

 アーモンド形の目をぱちぱちと瞬かせる先輩。でも、先輩があたしに何か言うよりも前に、隣に立つ汐田くんが口を開いた。

「月島が入部するから、って理由じゃないだろうな。それが理由なら、おまえ、そのうちヒューマギアを使えなくなるぞ」

「違うよ」

 汐田くんの言葉を、あたしはきっぱりと否定する。

「今回、しずかがユガミに取り込まれて、心が引き裂かれるみたいに辛かった。……それで、思ったんだ。もう誰にも、こんな思いはしてほしくないって」

「……八代……」

 しずかの潤んだ目が、あたしを見る。

 あたしはしずかを安心させるみたいに笑いかけて、続けた。

「誰かにとってのしずかを――誰かの大切な人を守るために、あたしも魔法使いとしてがんばりたい。それじゃ、だめ?」

 汐田くんへと視線を向けると、彼は眉を八の字にしてフッと微笑む。

「……らしいですよ、センパイ方。どうします?」

「百二十点よ。一柳さん、たった今パーティーの名前が変わったわ」

 そう言って、星名先輩は立ち上がった。

 一柳先輩は心底嬉しそうに星名先輩を見て、あたしとしずかの方へと向き直る。

「改めて――ようこそ、私立清咲学園中等部、魔法研究部へ。キミたちの入部を、心から歓迎しよう」

 ……そして、高らかに宣言した。

「さあ、入部テスト合格記念パーティー改め、新入部員たちの歓迎パーティーを再開しようじゃないか!」

 部長の声に合わせ、わあっと拍手が起こる。

 隣で両腕を組んでいたサクヤも、みんなの姿を見て微笑んでいた。

「いいな、こういうの」

 ぼそっと呟いて、サクヤは静かに目を閉じる。

「こんな時は、人間の形をして、おまえたちのそばにいられて良かったって思うよ」

「……サクヤ……」

 前に、『パートナーを解消するなら早くして欲しい』と話していた時のことを思い出す。

 ――こんな風にサクヤが笑うなら、その方法を聞かなくて、本当に良かった。

 今あたしが、魔法使いとして、しずかや汐田くん、そしてサクヤと一緒にいること。

 少し前までは想像もつかなかった景色を前に、胸がいっぱいになる。

「おい、おまえも主役の一人だろ。行ってこい」

 ぶっきらぼうに言って、サクヤがあたしの背中を押す。

 誰にも、信じてもらえないかもしれないけど……

 宿題プリントの裏に落書きをしたら、魔法使いになった。

 これまで、沢山のことを諦めて、無理だって決めつけてきたけど、サクヤと出会ってからは、ほんの少しだけ、がんばれたような気がする。

(……ありがとう、サクヤ)

 恥ずかしくって口には出せないから、心の中でそっと呟いてみる。

 諦めなかった先に待っていたこんな日々は、きらきら光って、続いていく。

 きっと――特別な、魔法のように。

番外編 魔法研究部のそれから

 その時、ボクらの頭の中に、知らない魔法陣が浮かび上がった。

 ボクらは、知りもしない魔法の名前を呼んだ。

 それが全ての始まりだった。

 *

「古風なやり方だよね。魔法陣で召喚なんてさ」

 カンナちゃんが、そしてノゾムもいなくなった部室で、ボクが呟く。

 エリカは両腕を組んで、部室の扉を見つめていた。

「問題は、その魔法陣の出どころでしょう。わたくしたちとは全くワケが違うのよ、だってわたくしたちは――」

「ヒューマギアを魔法陣で召喚していない、だよね」

 ボクが言えば、エリカは黙ってうなずいた。

 そう、ボクらはヒューマギアと契約を結ぶ時に、魔法陣を描いていない。頭の中に、魔法陣とヒューマギアの名前が浮かんで、それを口にしたら、契約が成立したんだ。

 それには理由がある。ボクとエリカのヒューマギアは、すでに中等部で召喚されたことがあった。だから、ヒューマギアたち曰く、ボクやエリカが資質を示した時に、呼びかけることができたんだって。

 ……ただ、術式コード01の場合は違う。彼の体は中等部に馴染んでいないから、そんなことはできないし、事実カンナちゃんも言っていた。絵を描いたら、現れたって。

「うだうだ考えていても仕方がないでしょう。分かっていることは、ただ一つ……新しい部員が増えた。それだけではなくて?」

 ボクの頭の中を見透かしたみたいに、エリカが笑った。

 きっと、ボクとエリカの気持ちは同じだ。仲間が増えて嬉しいってことと、ノゾムが一人にならなくて良かったってこと。

 昨年――つまりボクらが二年生の頃、魔法研究部の部員はボクとエリカの二人だけだった。

 魔法使いは決して一人じゃない、ヒューマギアがいる。

 でも、エリカがいてくれてよかったって思ったことは、一度や二度じゃない。魔法使いにだって、人間の仲間が必要だ。

 ヒューマギアと魔法使いは、違う生き物だ。だから、魔法使い同士でないと分からないことは沢山あるし、きっとヒューマギアたちもそうなんだろう。

 キミが隣にいるから、背筋が伸びる。

 キミと一緒なら、なんだってできる。

 言葉にしたことがあったかは、覚えてない。でもきっと、エリカには伝わってるって信じてる。じゃなきゃエリカは、多分そばにいてくれない。

 いつかノゾムも、そんな風に思える誰かを見付けてほしい。あるいは、もう見付けているのかもしれない。

 もちろん、ノゾムだけじゃなくて、カンナちゃんも。

 それがヒューマギアでも、魔法使いでも、ただのクラスメイトでも構わないんだ。

 そうやってボクらは、魔法使いであり続けている。

「エリカ」

 何? と言って、ティーカップを手に持つエリカが、ボクの方を見る。

 そんな彼女に、ボクはとびっきりのウインクをして――……

「ボクがよその学校に行っても、まだキミの王子様でいられるかな?」

 げんなりした顔のエリカに、大きなため息を吐かれるのだった。

「呆れた。……あなた、おととい四組の図書委員にも同じことを言っていなかったかしら。さては、お城を追い出されてしまったのではなくて?」

「つれないなぁ。ボクはいつも本気で言ってるのに!」

 *

 運が悪い。ツイてない。

 部室に入った瞬間、わたしは思いっきり顔をしかめた。

「お、月島じゃん。どうしたの」

「……報告」

 わたしはあくまで準部員だ。秘密を共有する、普通の人間。

 だから、魔法研究部の部室に入る機会もそう多くない。先輩に呼ばれた時か、もしくはユガミを見付けたり、シャドウを見付けたりした時だけ。

 ……なのに、よりにもよって。

「なんで、あんたしかいないわけ……」

 美化委員の仕事で八代はいない。

 そんな状況で、部室にいたのは汐田一人だった。

「センパイたち、今日はまだ来てないよ。代わりにおれが聞くけど」

「……理科準備室の掃除用具入れ、様子がおかしかった。それじゃ」

 わたしはそれだけ伝えて、部室を出ようとする。

 でも、「待てよ」という汐田の声で足を止めてしまった。

「八代さん、委員会で遅れてるだけだろ? だったら、ここで待ってればいいじゃん。今日、この後なんか用事でもあんの?」

「ない、けど」

 しまった。嘘をついて、あるって言えばよかった。

 きっと汐田は、わたしが汐田と一緒にいるのが嫌だから部室を出たいんだって、わかってる。それくらいの付き合いは、ある。その上で引き留めてきたんだろう。

 それが汐田なりの嫌がらせだとか、そういう意図がないのも、わかる。

 子どもっぽいのは、わたしの方だ。

 昔のケンカを引きずって、いつまでも意地を張って、汐田を嫌い続けている。

 いつまでもこのままでいいなんて、思ってない。

 ……でも、わからないのは、汐田が今でもわたしを気に掛けていることだ。

 だって、最初にわたしを突き放したのは汐田の方。かと言って、その時のことを後悔しているだとか、そういう雰囲気もない。……なのに。

「……あんた、なんでわたしに構うの」

 思わず、わたしは汐田に尋ねてしまう。

 堰を切ったように、言葉があふれ出す。

「わたし、あんたに嫌われても仕方ないようなこと、いっぱいしてきたと思うんだけど。八代のことでたくさん八つ当たりしたし、今だって、あんたの顔を見て、とてつもなく嫌そうな顔をしたし……」

 きょとんとした顔でわたしを見る汐田。

 でも、しばらくして、汐田はすっかり得意げな表情になって……

「ははーん、なるほどな。月島の言いたいことが分かった」

 とんでもなく腹が立つくらい、自信満々に言い放った。

「やっぱり月島、おれにずっと謝りたかったんだな?」

「なわけない絶対」

 わたしが再び部室の扉に手を掛けると、慌てた様子の汐田が「待って! ストップ!」と呼び止めてくる。わたしはやっぱり、律儀に足を止めてしまうんだけど。

「冗談だって! おれは魔法使いとして学校のみんなを守ってる、その中にちゃんと月島も含まれてるんだよ。そういうこと!」

「あっそ。じゃあ、今後は八代がいるから気にしなくていいよ」

 そう言うと、汐田の表情が面白いくらいに曇った。

 そして――その奇跡的なタイミングで、部室に八代が入ってくる。

「あれっ、しずか来てたんだ! てことは……えっ、もしかして二人だけだった?」

 八代は「しまった!」って叫び出しそうな顔をする。

(やっぱり、気を遣わせてるんだな……)

 だったら……もう。

「そうだよ。仲直りしてたところ」

 わたしは淡々と八代に言う。後ろで汐田が「えっ」と声を上げた。

「これから部活仲間だし。ずっとギスギスしてたら、みんなやりづらいでしょ」

「それは……えっ、ほんとに? ほんとに、仲直りしたの⁉」

 八代がわたしと汐田を交互に見る。

 振り返ると、汐田はとんでもなく複雑そうな顔をしていた。

 でも、わたしの気持ちは察したみたいで、八代には「まあな」と同意を返している。

「やったー‼ じゃあ仲直り記念に、今度三人で遊びに行く⁉」

(……しまった)

 八代、お願いだから余計なこと言わないで。

 冷や汗をかきながら八代を見ていると、わたしが焦っているのとは正反対で、汐田がたちまち元気を取り戻した。

「おっ、いいね。おれたち友達だもんな?」

 クラスのみんなに言わせれば、爽やかな――わたしからしてみれば最高に意地の悪い笑みを浮かべて、汐田が言った。

 本当に、よく回る口だと思う。……今から不参加の言い訳を考えておかないと。

「じゃあわたし、もう行く。八代、一緒に帰るなら、図書室で待ってるから」

 それだけ言って部室を出ようとすると、また汐田に「待てよ」と呼び止められた。

 わたしは、やっぱり足を止めてしまう。

 そんなわたしに、汐田が言った。

「おれ、今日ひとつも嘘なんかついてないからな」

 わたしは、しばらくその言葉の意味を考えて……

「ふうん。じゃあ本気で、わたしが自分に謝りたがってるって思ってたんだ」

「あっ」

 形勢逆転。汐田はさぁっと顔を青くする。

「自意識過剰」

 それだけ言って、わたしは部室を出た。

 確かに、伝えたいことはあった――でもそれは、『ごめん』じゃない。

 結局それは言えなかったはずなのに、不思議と、気分が良かった。

 *

 部室を出て行ったしずかの背中を見つめて、あたしは小さくため息を吐いた。

「……仲直りしたの、嘘かぁ」

 あたしが入る前の部室の空気を想像して、ゾッとしてしまう。

 汐田くんとしずかを二人っきりにするのは、やっぱりマズいんだな……。

(まあ、そう簡単な話じゃないよね。あたしとサクヤのケンカとは訳が違うよ)

 あたしは今朝も、サクヤとケンカしたばかり。

 でも、特に「ごめん」とか、そういうやり取りがあったわけでもなく、お昼には普通に会話していた。だって、本当にささいなことが切っ掛けだったから。

 ――ただ、さっきのしずかは、なんだか……

「でも、今日はいつもより、楽しそうに話してくれた」

 あたしが口を開こうとした時、それを遮るみたいに、汐田くんが言った。

 まるで、とても特別な出来事を語るような声で。

 その時。

『はーー。ほんっとに、もどかしいな』

 デリカシーのない声が、あたしの頭の中に響いた。

「ちょっと、サクヤ!」

『もう、とっとと仲直りすればいいだろ、めんどくさい。月島は何をそんなに嫌がってるんだ。どうせこれから、ずっと一緒にやっていくんだろう』

「それは……」

 どう、なんだろう。もしそうなら、素敵だなって思うけど……。

 あたしが言葉を詰まらせていると、汐田くんがひょいっと顔を覗き込んでくる。

「なに? もしかして、八代さんのヒューマギア、なんか言ってる?」

「……いつかお友達に戻れるといいねって言ってる」

『言ってない、全く』

「えー、八代さんのヒューマギアそんなキャラなの? 意外だなぁ」

 うん、その通りだよ。全然そんなキャラじゃないです。

 ほんと、いつか本物のサクヤと喋ってみてほしい。早く汐田くんにも幻滅してもらって、一緒に愚痴とか言い合いたいよ。

 それに、これはあたしのおせっかいかもしれないけど……

(……パートナーのヒューマギア以外とは喋れないなんて、さびしいよ)

 あたしがこうしてサクヤと喋っている時も、あたしを介さない限り、汐田くんは絶対に輪の中に入れない。

 それって、ただヒューマギアを知らない、見ることもない人より、ずっとさびしいんじゃないかな。あくまで、あたしの感覚なんだけど。

 ……ああ、なんだろう。

 汐田くんが、先輩たちのことをすごく好きな理由が、分かった気がする。

 ――ずっと不思議だったんだ。

 だって、汐田くんが先輩たちと出会ってから、まだ一か月くらいしか経ってないはずなのに、汐田くんは先輩たちに、強い気持ちがあるから。

 先輩たちは魔法使いとしての汐田くんを知ってる。

 その上で、見て、触れて、声を聞くことができる。もちろん、話だってできる。

 何より先輩たちは、信頼できる人たちだ。

 だからあたしも、そんな相手に――魔法研究部の仲間に、なっていきたいな。

 一柳先輩の、星名先輩の、……そして、汐田くんの仲間に。

(もっともっと、がんばろう)

 大丈夫。だって、今のあたしは魔法使いだもん。

『おい環奈、早く誤解を解け。そんな甘っちょろいことを言うやつだと思われたくない』

「はいはい、気が向いたらね。誤解のまんま、優しくなってくれてもいいよ?」

『優しいと甘いは違うだろ』

 そんなこと、とっくに知ってる。

 だって、それをあたしに教えてくれたのは――

『おい、聞いてるのか? 耳も聞こえないのか、おまえ』

 この、とんでもなくうるさい魔法なんだから。

「ちゃんと全部、聞こえてるよ!」

– 完 –

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