Dead End Utopia

花井あかり

 ごめんな、と誰かが謝ってくる。その誰かになぜ謝るのかを問いたくても問える口はなく、気が付けばその誰かはどこにもいなくなっていた。

  1

 浮かんでは消えていく青白い二進数の列。情報の渋滞をファイルに分けて整理、保存して、目下必要な起動のための情報をかき集めていく。

 起動準備完了音が鳴り、頭を何かが撫でる感覚に瞼を押し開ける。

「あ、やっと起きた。おはようテール」

 寝坊助さんね、と女性的な声が上から降ってくる。黄色が一部視界を遮り、いまいち現状がつかめない。固く冷たい何かが枕となっていて、自己位置推定するにコンクリート造りの室内に横になっている、気がする。

「テール? うーん、頭を強く打ったからかしら? 私の力はそこまでないはずだけど」

 さらりと退けられた黄色は彼女の髪が掛かっていたようだ。クリアになった視界で、彼女と目が合う。

「今日は八月十日。あなたが眠ってからは……ええっと、十年と十日が経ったわ」

「……十年?」

 早急に自身の記録を展開していく。ここが私立病院であること、自身が病院で働く機体テールであること、この病院は隔離地域内に建てられたもので、外部との接触がほとんどなかったこと。機体を動かすための情報や周囲の状況など開けるものから様々な情報を開いていく。

「セレーネー」

 声の主に手を伸ばし、頬に触れる。

「そうよ。私はセレーネー。あぁよかった。テールの記録はちゃんと残ってた」

 安心しきった声色で変わらず頭を撫で続けているセレーネーは、泣きそうな顔で僕を見た。

「あの、起きてもいいですか」

「え? あ、そうね。そうよね、でも、もうちょっとこのままでもいいのよ?」

「ですが……。疲れませんか、足」

 僕がそう言えば彼女は困ったように眉尻を下げて、「機械に疲れなんて感じないでしょう」と小さく告げた。それもそうだ。重さは感じても疲れなど感じない。そもそも疲れ、と言うものがない。強いて言えばバッテリーが少なくなった時に動作が鈍くなる程度か。

「そうでしたね。でも、なんだか落ち着かないので起き上がりたいです」

「……分かったわ」

 すい、とセレーネーは上半身を反らせ、起き上がるスペースをくれる。腰から折り曲げて、そのまま彼女の前に座って顔を見る。相変わらず眉尻を下げたまま僕を見て、ふわりと笑う。

 腰ほどまであるクリーム色の髪に陽の光が注がれて柔らかな艶をもたらしている。琥珀色の瞳がこちらを捕らえて離す事は無い。その目に映るのは青い髪に緑の目をした幼い顔立ちの自分。なんだか気まずくて、少しでも目が逸れればいいな、と淡い期待を抱いて思いついたことを口にする。

「えっと、僕が眠って……スリープをしてから十年たった、とさっき言いましたか」

「ええ。ちゃんと数えていたの。だから間違っていないと思うわ」

「どうして僕はそんなにスリープしていたんでしょう? その、自分が何か、とか何のために作られてどうしてここにいるのかの情報は分かるのですが、それ以外……ここで働いていた記録や、スリープ前の情報がほとんどまだ見つからなくて」

 起動時に手あたり次第記録を展開していったものの、多数が開かないままだったのだ。セレーネーは左手を頬に添え首を傾げる。

「私のことは、分かるのよね?」

「はい。セレーネーは僕より一年早く改良され、この病棟で勤務をしていました。一人称は私で、背は百六十センチ。髪の色はクリーム色で、目の色は琥珀。声色は女性的な物を採用し、それでいて高すぎない、人の耳になじみの良い音程となっていて」

「分かった。私のこと凄く分かってるのは分かったからもういいわ、恥ずかしくなってきちゃった」

 僕の声を遮るように彼女は言うと、今度は両手で顔を覆い隠してしまう。うっすらと赤みを増した頬を時折左手で仰ぎながら排熱をしているらしい。

「よし。もう大丈夫よ。私、ちゃんと聞いてるから。それで、その、分からない記憶はスリープ前と、ここに来てからの記録、かな?」

「おそらくそうです。ここで働いていたのは二八〇六年からのはずで、セレーネーは今が三〇一〇年の八月十日だと言いました。つまり僕には二百四年分の記録がほとんど抜けているという事です。この開けないファイルにあると思うのですが、何度試しても開かないのです」

 たとえば、勤務内容とか。何をするかは記録されているのに、どんな患者を相手にしていたのか、どんな会話をしていたのか、実際にやったはずのことが何も思い出せない。

 でも、僕たちの機体を作った白髪で厳つい顔をしたコルフェと言う男性の開発者や、僕たちに高性能なAⅠを搭載した人が赤茶の髪を結いあげてポニーテールにしていたエマという女性だった事は覚えているのだ。

 分かる範囲で記録していることを話せば、セレーネーは静かに僕の頭を撫でる。

「それはもう気にしなくていいんじゃないかな。だってもう私達の仕事は終わったもの」

「仕事が終わった?」

「もうここに患者はいない。皆いなくなっちゃったから、私達に与えられた仕事の患者の面倒を見ることはもうしなくていいの」

 自由なんだよ、私達。

 セレーネーはそう告げ、顔を綻ばせる。

「もう、いない?」

「ええ。皆きちんと私が看取ったもの。あなたが眠ってから五年後くらいに、最後の一人を看取ったのよ」

「あの、なんで僕はスリープしてしまったんですか?」

 この病院は僕たち以外にも機体自体はあったはずだ。だが、AIが搭載されていてコミュニケーションが取れるのは僕ら二機だけだったはず。つまり僕がスリープしてしまってからセレーネーはたった一人で患者と向き合っていたのだ。

「……本当に、思い出せないんだ」

 彼女は僕の頭を撫でていた手を下ろし、横髪を三つ編みにしている部分をいじりながら考え込む。

「じゃあ、思い出さなくていいと思うの。これからを大事にしていけば、何にも問題なんてない。そうでしょ?」

「そう、でしょうか」

 そうなの。と言い切って、セレーネーは立ち上がる。

「よーし、そうと決まればまずはこの施設を案内してあげる。あ、それは覚えてるんだっけ」

「そうですね、地図は入っていますが、内装はそこまで記録されてない、ですね」

 じゃあ決まりね、と声を弾ませ、手を取り立ち上がるのを手伝ってくれる。立ち上がると、自分とセレーネーの身長差を思い出す。そういえばセレーネーの方が十センチも背が高いのだった。

「どこから行こうかな」

 手を引かれ歩く姿はおそらく僕が年下の弟のように見えてるのではないだろうか。まぁ製造年月日で考えれば一年僕が遅いから弟、と言うのは間違ってはいないはずなのだが、それでもなんだかむずがゆい。

 手を引かれるがまま白い廊下を進んで薄暗い通路を通って、渡り廊下の先のスライド式の扉を開ける。

「ここは中庭ね。私達の休憩場所。覚えてる?」

 くるりとこちらに振り向いた彼女の表情は覚えていることを期待しているような、していないような微妙な表情をしている。

 とりあえず自身の記録を探るが、現在見られる記録には残っていない。開けない所にあるのか、消えてしまったのか。

「……すみません、記録になくて」

「ふふ、じゃあ今からここで休憩すればいいのよ」

「? まだそこまで動いていませんが」

「いいの。だってここには私達だけで自由なんだもの。いつ休んでもいいんだから」

 廊下から踊るように中庭のベンチに駆けよって座り、隣に座るよう促してくる。促されるまま隣に腰掛ければ、棟の隙間から見える青空から降り注ぐ陽の光を浴び、すくすくと育った木の葉がちょうどよくベンチに木陰を作りだす。葉が風に揺れる音が静まり返った中庭にやけに大きく聞こえた。

「気持ちよくて、涼しいですね」

「やっぱり! そうなの。ここ建物のおかげで風が少しだけ入って来ていい感じなの」

 にんまりと彼女は笑い、足をぱたつかせる。うっすらとその関節からキィ、と引っかかるような音が聞こえて、口を開く。

「あの、やっぱり足になんか不具合があるんじゃないですか。僕の頭、重かったんじゃないですか」

 ごめんなさいと続けて言おうとして、セレーネーの人差し指が僕の口元に添えられる。

「謝らないで。私がやりたくて勝手に膝枕したんだもの。それに、後でちょっといじればすぐに直るから」

 膝あたりを数回擦って、すぐにやめてしまう。異音がするときはすぐに直した方がいいはずだ。しかし彼女は今から直す様子も、直しに行く様子も見せないまま座って、ただ朗らかに正面の病棟の壁面を見ている。

 壁面の塗装がはがれ一部の白いコンクリートが原色をむき出しにしている。経年劣化だろうか。それとも、それ以外の理由でここまでボロボロになっているのだろうか。

 そんなことを考えながら何気なく上を見上げると、白い雲が斜めに走っているのが目に付いた。

「あれ、なんでしょうか」

「うん? あ、本当。なんだろうね?」

 セレーネーが僕につられて空を見上げたとき。どん、と遠くから重く大きな衝撃音が響き、遅れて少し地面が揺れる。足元が横にぐらりと揺れる感覚は慣れないもので、バランスが少し崩れてしまう。

「う、わ。結構揺れましたね……」

 がつ、と隣にいたセレーネーに肩があたる。ほんの少しの静寂の後、セレーネーが口を開いた。

「……なに? せっかくのこの私とテールの時間を邪魔するなんて」

 むす、と頬を膨らませて音がした方を睨む。

「あの……、セレーネー?」

 ぶつぶつと小さく何かを吐き捨て、琥珀の瞳は僕を見る。

「見に行こうか。なにが落ちてきたんだろうね?」

「え? わ、わ?!」

 急に立ち上がったかと思えば、右手首をがっしりとつかんでセレーネーは音がした方へと進む。機械に温度なんてないはずなのに、その手はちょっとだけ温かく感じだ。

 

 薄暗い病棟の中を抜けて外に出て、木々の影を走る。少し湿った地面が昨日は雨だったことを教えてくれる。

 生い茂る木々を抜けると、少し開けた場所に出る。住宅であったであろうモノを破壊して折れた建材などの隙間から銀色の何かが突き刺さっている。

「これ、は何でしょうか」

「うーん、私も見た事ないかも。鉄? にしては汚いし……」

 見える部分だけで言えば円柱形のようだが、半分以上壊れているうえに隠れているせいで全景が全く浮かばない。

「あのー、誰かいますか?」

 ちょっとの怪我くらいなら治せますよー、と間延びした声でセレーネーは謎の物体に近付いていく。

 木材を踏み越えて、銀色に触れたとき、小さく声が聞こえた。

「もうなんなんだよ~~! ボクなんかした? なんもしてないじゃん! なんもしてないからなの!?」

 中性的な高めの音声が銀色の中から聞こえてくる。セレーネーと顔を見合わせ、何となくその銀色を持ち上げられるか試してみたら意外と軽く、持ち上げてそのまま地面めがけて倒せば、えぐれた地面と、そこに白くて丸い何かがいた。

 陽の光があたったことで眩しかったのか、くるりとこちらを向いて金色の目を瞬くと、ひょ、と変な声をあげる

「ヒ、ヒトだ~~~!?」

 キンとする声である。ぐわんと揺れた頭を手で押さえ、目を閉じて落ち着くのを待つ。が、セレーネーは気にも留めず白い何かに駆けよっていったようで、次に目を開けたときに目の前にあったのは白い何かを両手で添えるように掴んで持ち上げ、目を輝かせているセレーネーの姿だった。

「——なんて」

 掴まれたそれも驚いたのか縦長の楕円の目が綺麗に開いている。

 セレーネーはそれをぎゅっと胸元で抱きしめて、肩を震わせた。

「……、セレーネー?」

「なんっっっって可愛いの?!」

 ピン! と白い何かの耳のようなものが二つ、重力に逆らって立った。

「……はい?」

「う、うるさぃ……。苦し……」

 ピンとたてた耳を今度はじたばたと上下に羽ばたかせる。意外と自由に動く耳のようだ。手なのかもしれない。

 ムム、と腕を組んで考え込んだところで、白いそれは縋るような目で僕を見ていることに気が付いた。

「あの、セレーネー。そのままだとその抱いているふわふわしたなにか、死んでしまいますよ」

 そろりと近寄って、肩を叩く。それでようやく気が付いたのか、あ、と呟き手を離した。そのまま地面へと吸い込まれた白い何か。

「痛い! もー、なんなのさ!」

 僕らの足元で、それは短い足で地面を叩きつけ悔しがっているようだった。

「ごめんなさい! そんなつもりはなかったのよ、本当に」

 すぐにしゃがみ込んで、今度は優しくそれを抱え上げるセレーネー。触られた瞬間はびくりと震えたそれも、力が入っていないことに安心したのかおとなしく抱え上げられる。

「ところで、これはなあに?」

 と、セレーネーは青い輪っかを見た。

「……確かに、浮いているんでしょうか?」

 セレーネーに抱え上げられた、見た目は丸く、ウサギのような耳が生え、金色の瞳に短い足が四っつ、ふわっとした尻尾を持った何かの上に浮かぶ、青色の輪っか。

「これ? これはね~。ボクの星にある万能翻訳機だよ! ボクが聞いた音を僕が分かるように変換してくれるし、ボクが話している言葉を勝手に相手に伝わるように変換してくれるの!」

「どうやってですか?」

「知らない! 凄いでしょ?」

 目を細め、自慢げな表情でこちらを見てくる。確かに、言っていたことが本当にその輪っかがやっているならば本当に凄いことだ。しかしその原理についてなどの説明がまったく無いせいで本当なのかも分からない。

「じゃあボクからも質問ね? 二人はヒトってやつなの?」

 そう言いながら短い前足で僕とセレーネーを順番に指さす。

「いいえ、私たちはヒトではないわ。人に作られた人型のロボット、アンドロイドよ。」

「はい。自律型の機体になります」

「ふうん。ヒトじゃないんだ。じゃあヒトはどこにいるの?」

 明らかに落ち込んだようで、もともと垂れ下がっていた耳が気持ちさらに下がっているように見える。

 自分の記録を探してみるものの、施設以外の情報がない。おそらく、開けないとかではなく、自身の中に関連する記録がない、気がする。

 なんでないのかを考え始めたところで、セレーネーが口を開く。

「ここにはいないわ。いなくなっちゃったから」

「じゃあどこにいるの?」

「どこにもいないと思うわ。探せば見つかるかもしれないけれど、私達はあそこの建物にずっといたから知らないの」

 ね、と僕に同意を求めてくる。なんでセレーネーは人がいない事を知っているのだろうか。自分は何の情報も持っていないので、とりあえず同意しておく。

「そっかぁ。それは残念だなぁ。ま、別にボクの目的地はここじゃないし、いいんだけど」

「あら、じゃあもうここから出て行ってしまうの?」

「え、そうするつもりだけど」

「あの壊れたもので?」

「え?」

 僕らの視線を追って、金色の目が見つめる先には墜落してくちゃくちゃになって雑に退かしたせいで歪んだ銀色の何かだった。

「あ、ああああぁ!」

 ツンと耳に刺さる声量で悲鳴を上げる。その悲鳴から察するに、やはり乗ってきたものは壊れてしまっているようだ。

「なんてことだ! ボクの相棒、唯一の機体! シャシンくん八号がぁ!!」

 セレーネーの手から離れ、ふわふわと力なく浮いて壊れた機体へと向かうとぴっとりと壊れた鉄のようなものにしがみついて、滝のような涙を流す。

「泣いてるわ。泣いてるのも可愛い……じゃなくて、どうするんだろうね?」

「大丈夫……、ではないですよね」

 ひそひそ話をしながら様子をうかがっていると、泣き疲れたのか僕らを振り返ると、未だ潤んだ瞳で縋るように見つめ、寄ってくる。

「君たち、ここら辺の地図って分かる?」

「私は分かるけれど……、どうして?」

「この船を直したいんだ。そのために部品とか、集めたいなって。多分落ちてくるときにいろんなところに破片とか落ちているかもしれないだろ?」

 ゆっくり地面へと下りると、手でがりがりと全体図を書いていく。

「ここと、ここ。頭の部分は壊れちゃったからあるもので作り直して、羽の部分とかは多分ここにないってことはどっかに落ちちゃったと思うんだ」

 おもちゃのロケットのような図を指しながら、簡単に説明をしてくれる。

「でもボクはここの地形とか建物とか何にも分かんないから、分かるやつに教えて欲しいんだ」

 お願い、と上目遣いで僕らを見上げ、瞳を潤ませる。

「……セレーネー」

「もちろん手伝うわ。テールも、いいわよね?」

「え、ええ。大丈夫ですが……」

 ぐっと拳を作り、頬を赤らめて目じりを下げるセレーネー。どうやら少しの間でも可愛い何かと一緒にいられるのが嬉しいようだ。

「やったぁ! えーっと。君たちはセレーネー、と、テール?」

「そうよ。私がセレーネーで、青い髪の彼がテール」

「はい。僕がテールです。よろしくお願いします」

「セレーネー、テール。よし、覚えたぞ! ボクはシャシン。皆にはシャシーって呼ばれるんだ」

 目線まで浮かびあがると、表情を明るくする。

「よろしくね、シャシー」

 短くふわふわな足と握手をして、ほんの少しの間の、二機と一匹の生活が始まった。

  2

 シャシーは気に入ったのか僕の頭に乗っている。正直邪魔だから乗るのをやめて欲しいけれど、ふわふわなのは気持ちがいいので強く言えないまま頭に乗られている。

 あの後、僕たちはとりあえず壊れた機体を雨に濡れないように、壊れていた住宅を利用して屋根を作り、一時的にそこに保存することにした。それから、セレーネーの足も気になるし、地図を見せるためにも一回病棟に戻ることになった。

 病棟の一室にある僕らの部屋を目指して歩きながら、シャシーは口を開く。

「ねぇ、ここら辺は壊れてないけど、ボクが落ちたところってボクが壊したもの以外にもいっぱい壊れてたよね。なんで?」

 てしてしと頭を叩かれる。全く痛くない。

「そうね、私達も記録でしか知らないけれど、貴方みたいに空から降ってきたものによって壊されたはずよ。今から行く場所は比較的頑丈に作られていたから壊れなかっただけらしいわ」

「そうだったんですね」

 そういえばテールは覚えていないんだったね、と嬉しそうにセレーネーは微笑んでから、僕の頭で偉そうに座っているシャシーを撫でる。

「今から行くのは私達の住居の病院よ。あまり綺麗ではないけれど、寛いでいってね」

「へへん、いいよぉ。ボクの船より狭いものは無いからね」

 自慢することではないのではないだろうか? そんな疑問を口にするのは止めて、口を開かないでただただ歩くことに集中した。頭を揺らすとおそらくシャシーは彼の船と同じ見た目になってしまう。

「で、ここが二人の家?」

「そうよ。もう長い事掃除していないから綺麗とは言えないけれど、電気は通っているから生きていけるのよ」

「デンキ?」

「エネルギーの一種なんだけど、シャシーは電気を知らないのね。ってことは、シャシーは電気では動いていないのね……」

 食事が必要かしら、とセレーネーは呟いて、動かないスライドドアを自力で押し開ける。受付の横の通路に入り、外来棟を抜ける。一般病棟に入り階段を三階分あがり、三部屋目の扉を開く。

 コンクリートの壁に、錆びたベッドが二つと、黄色くなったカーテンの付いた窓。部屋の中央には円形のテーブルと椅子が二つ。天井からぶら下がったコードが繋がる先がないまま揺れている。

 椅子を引いて僕を座らせシャシーは僕の頭から降りて机に座る。残りの椅子にセレーネーが腰掛けた。

「ここが私達の部屋。……テール、覚えてる?」

「……いえ? 僕の部屋はたしか、もっと物が多くて汚かった、ような」

 見覚えがあるようでないこの部屋が、自分の部屋だとは思えない。一瞬脳裏に浮かんだのは暗い室内だった。カーテンを閉め切って、紙の資料が溢れていた一室。なじみがあると感じた部屋はここではなく、見えた一瞬の部屋だ。

「……いいえテール。貴方の部屋はここ。ここだからね」

 机の上で握られた手に力が入っている。僕を見つめる琥珀の瞳が少し揺れた。

「じゃあ、私は地図を取ってくるから。二人はここにいてね」

 膝を軋ませながらセレーネーは立ち上がって、部屋から出て行く。

「ボクはつれて行って貰えないのか」

 ちぇ、と呟いて机の上を歩き回る。机が汚いせいでか、シャシーの白くてふわふわの腹の部分が灰色に染まっていくのをただ見ていた。

 ここが僕の部屋であると思えない。何気なく椅子から立ち上がってベッドを撫でる。おそらく白いシーツが敷かれていたベッドは二台とも誰も使用していなかったのか、冷たくサラサラとしている。

「あのさ、きみとセレーネーの関係って何なんだい?」

 本人の意志ではないだろうが、丸い体で机を転がって埃を回収し終えたシャシーが全身を灰色に染めて、することがなくなったのか僕に話を振ってくる。

「僕とセレーネーの関係……。同じ職場の機体、ですかね」

「どんな仕事なの?」

 ……どんな仕事だっただろうか。患者を診ていたのは覚えている。そもそもこの病院は何の病院だっただろうか。機械であり生命ではない僕らにだけできた仕事だったはずだ。そんな病院。

「そう、ですね。患者を診たりしていたはず、です」

「はず?」

「記録がなくて覚えていないのです」

 恥ずかしながら、と答える。シャシーは訝しげに僕を見て、短い脚でまた机をたたく。足で何かを叩くのは癖なのだろうか。

「ボクよりきみは使えないんじゃないか?」

「シャシーは使えない子なのですか?」

「あ、ううん違うよボク凄く可愛いから、使えないなんてないし?」

 ほらこの耳とかかわいいでしょ、と二つの垂れ耳をパタパタさせる。綺麗な時は良かったけど埃まみれの耳をパタつかせるのはやめて欲しい。機体の奥がむずむずする気がする。

「では、シャシーはここに来るまでは何をしていたのですか?」

「へぇ、気になる? 気になっちゃったんだ。教えて欲しい?」

 黄色い目を細めて、眼前に詰め寄ってくる。少しだけ面倒な奴だ。構って欲しいのだろうか。

「そうですね、素性とか知りたいですし。セレーネーはあなたを可愛いからと信用しているようですが、そもそもあなたが何なのか僕は知りませんから」

「ふむ。ボクが何かを知りたいんだね? よろしい! 教えてあげよう」

 青色の輪っかをピカピカと発光させてシャシーは机に戻る。

「ボクが産まれたところは遠い遠い星の海だよ。そこにはボクのママ……ラービィから分裂で産まれた、ボクと同じ見た目のやつがいっぱいいるんだ。まあその中で一番かわいいのはボクだけどね」

「はぁ」

 時々挟まる彼の自慢を聞き流して、相槌で続きを促す。

「ボクはその星から選ばれたエリートなんだ。ある目的の星まで行って、証拠を持って帰るのが仕事。それが出来れば、一人として認められるんだよ。船の制作から始まるこの仕事はとーっても大変なんだ。一人でやらないといけないからね」

「それは凄いですね」

「なんの話してるの?」

 カシャンと関節を鳴らしながら、くるくると巻かれた筒状の紙と正方形の箱を持ったセレーネーが扉に立っていた。

「シャシーがここに来るまでなにをしていたのか聞いていたのです。どうやらどこかの星に向かう仕事の途中だったようですよ」

「あら、そうだったの」

 セレーネーは椅子に座ると、机に巻かれた紙を広げる。紙は病院周辺の地図だ。長方形の紙に、端がぼやけている地図。紙の中央あたりはかなりしっかりした線で書かれているものの、端に行くにつれてぼやけ、書き込みがほとんどなくなっている。おそらく、楕円の中に地図が書かれているのだと思う。

「えっと、今いるのがこの四角ね。リウム病院。それから……このあたり。シャシーが落ちてきた場所ね」

 セレーネーは地図を指さしながら丁寧に説明してくれる。頷きながら話を聞いていると、シャシーは地図に乗りあげた。

「なんか点々で円が書かれてるけど、この円ってなぁに? 病院は点々の円の側にあるね」

「円? 確かそれは……。待って、シャシー埃まみれじゃない! 洗わないと」

 ガタ、と音をたてて立ち上がり、地図に乗っていたシャシーを抱き上げる。

「え?」

「洗いましょうね! せっかく可愛いのが台無しだもの」

「え? ちょっと?!」

 シャシーのか細い悲鳴を聞きながら、セレーネーが抱えて部屋を出て行くのを見送るしかできなかった。

 一人取り残された他人のもののような自分の部屋で、することもなく手持無沙汰で地図を見る。

 紙は黄ばんでしまい、にじみやかすれで所々読めなくなってしまっている。二四九五と左端に書かれている。この地図が作られた年だろうか。

 シャシーが言っていたように、地図には円が書かれている。よく見れば小さく文字が書かれている。掠れてしまっているものの、察するに「隔離範囲」と書かれているようだ。

「隔離……?」

 隔離されているのは、シャシーを拾った位置よりもっと遠く。おおよそ三十キロメートルほどだろうか。円の中心には病院よりも大きな四角が書かれている。

 その四角にはそれがなに書かれていない。そもそも、何もない場所なのかもしれない。何もなくなった場所なのかもしれないが。

 分からないな、と思いながら、セレーネーが置いて行った白い正方形の箱を手に取る。意外と軽いもので、鍵などもなく蓋を開ければ中が見れる。

 中に入っていたのは、小さなチップだった。データチップ。これは何のデータだろう。右目の前に持って行って、スキャンを試みる。

 読み取れた瞬間、視界にノイズが走る。ガザガザと嫌な音が響いて、開いたと思ったらすぐにデータが閉じてしまう。どうやらロックがかかっているようで、パスワードを入力しなければならないようだ。四桁の数字。とりあえず四回0を入力してみたら、ロックが解除され中を見ることが出来た。

『……これは』

 機体内に広がる情報により、先ほど地図を見て得た情報が更新される。先ほどの場所は、化学物質研究所と書かれている。隔離範囲は先ほど見た地図よりも細かく、円の中に病院も含まれている。円の外には、何もない。

 このデータが作られたのはいつだろうか。制作日を確認しようとファイルを見て、視界から電子の地図が消えた。

「テール」

「……セレーネー」

 僕のデータチップを持った手を掴んで、セレーネーは笑う。

「混乱してる中に情報増やしたらまた大変になっちゃうよ?」

「そう、ですね」

 彼女が大切そうに抱えているのは真っ白になったシャシーだ。シャシーは偉そうに机に座って、満足げに笑っている。あんなに埃まみれだったのにきちんと洗って乾かされ、艶がありもこもこがふわふわになっている。

「お風呂は良いね~! 苦しゅうないです」

「じゃあ早速シャシーの目的について話詰めていこうか」

 僕の手からデータチップをさらっと取り上げて、ついでに持ってきていたのか大きな地図を壁に貼り付けながらセレーネーが口を開く。

「部品を集めるって言っても私達にはシャシーの乗ってきた飛行船? の足りない部品とか分からないし、どこに落ちたかとか、そもそも壊れちゃってるから作り直しなのかも分からないのよね」

 だから具体的に教えて欲しくて、とセレーネーは続ける。それを聞いたシャシーは大きな目を細めて唸ると、すぐに目をまん丸にして口を開く。表情がころころ変わる様は見ていて飽きない。

「ボクもまだ正確には分かんないけど、多分一から作り直すとかはないと思うんだ。潰れた部分は直さなきゃだけどあれは今残ってる機体の部品で何とかなると思うし、あとは羽の部分でしょ? 多分取れたっぽいからどこかに落ちてると思う」

 机の地図の墜落位置を叩いてシャシーは続ける。

「僕の船が完全に操作できなくなったのは落ちるちょっと前だから僕の墜落地点からそんなに離れてない所に色々落ちてると思う! んだけど、あいつら元気だからどっか行っちゃったかも」

「元気? 物じゃないの?」

「モノだよ? でもあいつら動けるんだよね」

「……そう、じゃあとりあえずシャシーの墜落地点を中心に柵内を探しに行こうか。私達も落ちてくるのを見ていたわけじゃないし、足で探すしかないね。いつまでに、とかシャシーは決まってる?」

「決まってないよぉ。焦ってもないし。もともとボクの仕事に期限とか無いからね」

 じゃあみんなでまとまって行動して探そうか、とセレーネーの提案に乗り、明日から外を歩いて部品を探すことになった。

「じゃあ今後のことも決まったことだし、ボクから一個いいかな?」

「どうしたの、シャシー」

 シャシーの頭上に浮かぶ青色の輪っかが点滅する。

「お腹が空きました。ここって食べられるものある?」

「美味しくはないと思うけれど……あるにはあるわ。消化によくて栄養のある保存食。取ってくるわね」

 さっと部屋を後にしたセレーネーの背中を見て、シャシーがぼやく。

「……美味しくないご飯しかないってなんでなの」

「ここが病院だったから、ではないでしょうか?」

「きみさ~! ボクより知ってるはずでしょ?! ボクが聞いてるのに疑問で返されても困るよー!」

 すみません、と俯いて言う。

「……きみってセレーネーと違ってなんだかゆらゆらしてるね」

 いったい何を言っているのかと顔をあげてシャシーを見れば、シャシーは僕をのぞき込むように浮いて目の前にいた。淡くシャシーの頭上に浮かぶ輪っかが空間を照らしている。

「不安定? 頼りない感じ。聞いても何にも分かんないし」

「……そう、ですね、そうなんですよね。僕とセレーネーの製造は一年しか違わないはずで、記録の欠けている僕はすぐにでも復元したいんです。しないと、いけないと思うんです。どうして僕の記録がなくてこの病院の人もいないのか、この周辺のことも、僕も知りたいと思っています」

「へぇ~。……あ! じゃあさ、ボクの船の復元が終わるか、君の記憶が完全に戻るか、勝負しようよ。特に結果からの報酬とか無いんだけどさ」

 僕を安心させるかのように、膝の上にゆっくりと降りて、シャシーは僕を見上げる。

「ね、いいでしょ」

「シャシーの船の部品探しで外を歩いていたら思い出すこともあるかもしれませんし、いい案だと思います。勝負というものはそれだけで作業効率やスピードなどをあげる効果がありますから」

 膝の上のシャシーを撫でた。気持ちよさそうに目を細めた姿は可愛らしく、セレーネーにも見せてあげたい。

「遅くなってごめんね。取ってきたよ! これだけあれば一週間くらいは大丈夫なんじゃないかな」

 籠いっぱいに缶詰などの保存食を持ってきたセレーネーが戻ってくる。透明なビニールに包まれたクッキーのようなものが一番上につまれていて、長期保存を目的に作られているからか見た目から既にあまりおいしそうではない。

「わー、ありがとう……。嬉しいよ……」

 シャシーはいかにも棒読みの感謝を述べて籠に浮いて近寄り、嫌そうに僕の膝の上に戻ってくる。

「ごめんね。私達って食事は必要ないからこういうのしか残ってなくて。地下にある栽培室が生きていれば野菜とかもあると思うんだけど、もう十年以上動かしていないから全部枯れてしまったと思うし……」

「い、いや、大丈夫! ありがとう。これ食べてもいい?」

 僕の膝からシャシーを持ち上げて机の上の籠の前に連れて行き、適当に籠の中を物色して見せると、籠から比較的美味しそうなパッケージの、おそらくパンを掘り出すと机に置いた。賞味期限も過ぎていないため食べられると判断し、缶切りで缶を開けてあげれば本当にお腹が空いていたのかパンに食いついた。しばらく無言で食べ続け、半分程食べきったところで顔をあげて、美味しいよ、と真顔で言った。美味しくないのだろう。

「無理しなくていいからね。明日には、もっと美味しいやつ探しておくから」

 そういいながらセレーネーが金属のトレーに水を張ってシャシーの前に置けば、おずおずと水を飲み、黄色い瞳を申し訳なさげに伏せた。

 夜のうちにシャシーが食べられそうなものを探しに行こうとセレーネーと目を合わせて合図をして、今日はもう休むことにした。

「そうだ。シャシーは今日どっちのベッドで寝る? 私と寝るか、テールと寝るか」

「え」「え?」

 揃った僕らの声にセレーネーはくすりと微笑んで、シャシーの頭を撫でる。

「冗談よ。私達は睡眠必要ないし、シャシーの好きなところで寝ていいよ。あ、狭いところがいいとかある? だったら籠とか持ってくるよ」

「大丈夫、ボクはここで寝るから……」

 シャシーは机の上でちょこんと座った。

「……ええ、もっと柔らかなところで寝た方がいいと思うのだけれど……」

「ほ、ほら! ボクの船も固いし? むしろふわふわしてると安心して寝られないって言うか慣れてないって言うか!」

 ベッドで寝て欲しいセレーネーの目から逃れるように「ね、ね」とシャシーは僕を見て必死に同意を求めてくる。寝る、という行為を考えてみて、体を休ませるという意味では一定の柔らかさがある場所で寝た方がいいのではないかと思うが、シャシーは人型ではないし、シャシーが机で寝るというならば机でいいのではないだろうか。

「まあ、シャシーの好きにしたらいいのではないですか?」

「……そうね。せめてこの毛布を敷くなり囲うなりして楽にね」

 ベッドの下から柔らかそうな毛布を取り出して、机の上の籠をどかし、毛布をセットする。

「ありがとう!」

 毛布を手繰り寄せて、肌触りを確認したのち、自身の下に敷いて足で踏みつけて落ち着く形状を制作してシャシーは座り直す。形成された形は鳥の巣のようだった。

「まだ時間は全然早いけど、もうすぐ暗くなっちゃうし寝ようか」

 セレーネーは赤子を寝かしつけるようにシャシーのおそらく背中の部分をとんとんとする。人型でないそれに赤子にする行為は通用するのかと静かに見守っていれば、疲れていたのかすぐに寝息が聞こえてきた。

「私の子供寝かしつけスキルもまだまだ現役ね」

「凄いですね、セレーネー」

 でしょう、と彼女は胸を張って微笑み、音をたてないようにシャシーから離れる。

「じゃあ、地下栽培室行ってみようか」

 部屋を出て、一階まで降りてから隣の棟へと移動する。今までいた場所が一般病棟で、患者を収容する場所。これから行くのが医療従事者の部屋のある、健常者用住居棟だ。

 今まで通ってきた場所はまだ住居としての形を保っていたものの、住居棟に入ってからは荒廃が進み、窓ガラスは割れていたり壁の塗装や壁紙が剥げていたり、一部は崩れてしまっている。天井には穴が開いている部分もあり、長らく使われていないのが分かる。

「セレーネー。この住居棟はもうずいぶんと使われていないのですか?」

「そうね、人が減ってからは一般病棟に先生達は部屋を移したから、住居棟がまったく使われなくなったのは二十四年前。えーっと二九八六年ね。でもそれより前から移行自体は始まってたから、もっと長く使われてないんじゃないかしら」

 真っ暗な階段を降りて地下へと入る。むき出しになったコンクリートの階段を慎重に降りて行けば、アルミの扉が見えてきた。

「ここだね」

 セレーネーはドアノブを回し、扉を押し開ける。錆びついていたのか固そうで耳障りな音と共に扉が開かれる。

「……あー、やっぱ駄目そうね」

 落胆の声をあげたセレーネーの視線の先には枯れた植物の痕が残っていた。管理されていたころの面影が分からないほどあれている。伸びた蔓がいろんなところに絡まり枯れ、ここだけ外のような印象を受ける。

 慎重に一歩踏み出せば、湿った土のにおいが鼻に刺した。あまりいい匂いではないだろう。

「わ、ライトもつかないじゃない。切れちゃってるのかなぁ」

 セレーネーはすいすいと中に入り、壁面のスイッチを二、三回押してつかないことを確認すると、息を吐いた。

「ここって何を育てていたんですか?」

「確か、トマトとか、ビーツ、ニンジン、あとはナスとか? 住居者が食べたい物を育てるからいろいろあったと思う。あの扉の向こうは温室になっててバナナとかも育ててたはずよ」

 全部枯れちゃってるだろうけどね、と吐き捨て、彼女はさらに奥に進んでいく。

 奥の扉の向こうも案の定すべて枯れてしまっていた。

「……ないね、食べられそうなもの」

「ですね」

 置いてあった箱の中身も、枯れた苗や肥料など食べ物ではなかった。

「あ、その、ここの医者たちの住居はどうでしょうか。冷蔵庫の中身とか、生きているかもしれませんよ」

「それもそうね。戻るついでに見てきましょうか」

 頷いて、思い出す。

「そういえば、ついでと言えばセレーネーの膝って直さなくていいのですか?」

「? あー、そういえばそうだったかも。そうね。ついでに足もちょちょっと直しちゃいましょう」

 流れるように僕の手を取ってセレーネーは栽培室を後にする。

 引かれるままについて行けば、住居棟一階の一番奥の部屋へと入っていく。奥に行くにつれて廊下も地下ほどではないものの荒れていて、ところどころ床が抜けていて恐ろしい。できれば明るい時間帯に来たい。

「よっと」

 扉を繋いでいない手で力任せに押し開けて、セレーネーは更に進んでいく。

「えと、ここは?」

「私達の整備室。記録に入ってない?」

「……あぁ、あります。あまりにこう、ボロボロになっていて一致しなかったみたいです」

 僕らが制作された部屋。つまり、生まれた部屋である。

 機械がたくさん置かれ、どこに繋がっているか分からないコードで足の踏み場もないこの部屋は、他の部屋に比べて物は多いものの荒れてはいない。扉の建付けが悪くきちんと閉じられていたせいもあってか、湿気も少なく、ただ埃っぽい。

「ここらへんにあったはず……」

 セレーネーはようやく繋いでいた手を離し、棚を漁り、適当にスプレーを取り出して膝の関節にふきかけ接合部をいじり、軽く足を動かして何も問題のないことを確認する。

「よし、これで私はオッケーね」

「……よかったです。じゃあ、次は医者たちのいた部屋ですね」

 セレーネーに手を差し伸べて立ち上がるのを手伝い、次の部屋の位置を聞く。すると彼女はちょっと待って、と言うと山積みの箱やら絡まったコードやらを退けて部屋の端に置かれたクローゼットを力任せに開ける。

「あった。……えっと、こっちがテール、こっちが私のね」

「……これは?」

 押し付けられたのは白い布で、おそらく衣服の類であると分かる。

「服よ」

「いえ、それは分かるのです。そうではなく、この服はどういったものなのでしょうか」

「……そういえばテールはもうスリープしてたっけ」

 目を閉じて腕を組み、顔を上方へ向ける。少ししてこちらに顔を向け人差し指をたてる。

「患者の中に一人私達を気に入ってた子、ザフォラって子なんだけど。その子が私達に新しい服を作るんだって言っていたの。裁縫が得意で、入院中することないからってシーツとか使ってないカーテンとかを利用して作ったみたい」

「なるほど」

「肩の部分に布がないのがとってもいいわ。関節部分に布が引っ掛かって邪魔だったし。さ、テールも着てみて」

 今着ているカッターシャツを脱いで着るだけよ、とセレーネーは急かす。

「……今着ているものでは駄目なのですか?」

「だってこれ仕事着でしょう? もう仕事はないし、せっかく作ってもらったし、彼女には見せてあげられなかったけど着てあげないともったいなくて申し訳ないじゃない」

 ほら早く、と彼女は僕のシャツのボタンに手を伸ばす。

「わ、ちょっと! 分かりました、自分でやりますから!」

 シャツのボタンを外して脱いで、受け取っていた首から脇下あたりまでざっくりと開いたアメリカンスリーブと二の腕あたりまで開いたオフショルダーを組み合わせたような服を着る。僕が着替え始めたのを確認してセレーネーも着替え始める。

 腰の位置ベルトを締めて、膝上の白のハーフパンツも付いていたのでズボンも履き替え、軽く膝を曲げたり腕をあげたりして、動作の邪魔になることもないことを確認する。セレーネーの言っていた通り、関節部分に布がないのはスムーズに動かせてとてもいい。肘の部分だけどうしても挟んでしまったりはするけれどそれ以外は全く支障がなく、風通しもよく便利な服である。

「凄いですね、これ」

 振り返ってセレーネーの方を向けば彼女も着替え終え、彼女は膝丈のワンピースを着ている。同じく白のアメリカンスリーブとオフショルダーの組み合わせで、アクセントに使用されている色が僕は青で彼女は黄色。

「そうね。さすがザフォラ。いい感じ!」

 くるりと一回転。スカートがふわりと広がると同時に彼女の長い髪も広がった。淡いクリーム色の長髪と、暗い室内に差し込む月明かりが埃を輝かせてキラキラとセレーネーの周りを輝かせている。

「どう? 可愛い?」

「はい。とても可愛らしいと思います」

「ふふ、ありがとう。テールもとっても可愛いわ」

「そうですか? ありがとうございます」

 セレーネーのような女性的な機体に可愛いという言葉はあっていると思うが、男性的な機体の僕に対して可愛いという発言はあっているのだろうか。何も言われないよりは断然嬉しいので感謝で返してしまったが、それこそかっこいいとかの方がうれしいかもしれない。そんなことを考えていたら、いつの間にかセレーネーは部屋の外へ向かおうとしていたようで、扉の前で僕を呼んだ。慌てて彼女に追いつこうと部屋を出た。

 住居棟から元居た一般病棟へと戻る。セレーネーは階段を上がることもなくそのまま一階の奥へと進んでいく。入り組んだ通路は綺麗で、掃除こそされていないものの荒れた様子はない。

 突き当りを曲がると、一つ扉が見えてくる。隣には人一人通るのがやっとな地下へとつながる階段がある。階段ではなく扉に手をかけ、引き開ける。

 少し前まで誰かがここで生活していたような跡があった。この一部屋で生活できるようで、キッチンもユニットバスもある。ここはまだ電気も付く。

「この部屋綺麗ですね」

「……そうね」

 セレーネーの後をついてきたらこの部屋に到着したことを考えるに、この部屋の持ち主が最後まで生きていた医者なのではないかと思う。そう考えれば部屋が綺麗なのも納得できる。生活していたから荒れていないのだ。

 あんなに明るかったセレーネーの表情が少しだけ暗いような気もするけれど、取りあえず冷蔵庫を開けてみる。コンセントが刺さったままで、ひんやりとしている。これならば中にある食材も食べられそうだ。

「セレーネー、見て下さい。これ、ニンジンです。冷凍庫にありましたから解凍したら食べられますね」

「本当に。……これはナスね。栽培室のものをここに取って置いていたのね」

 使いかけの野菜もあるが、冷蔵庫には缶詰の食材も入れられていた。缶詰はもともとが長期保存を目的に作られているからおそらく食べられるだろう。

 部屋のテーブルの上に置かれていた籠に食材を詰め入れて、何となく部屋を見渡してみる。

 綺麗に整理された部屋。勉強机には大量の医学書にレポートの山。ⅠCチップも綺麗に箱詰めされている。

「この部屋のタオルとかなら洗わなくても使えるし、シャシーに持って行ってあげようかしら」

「そうですね、いいと思います。タオルはこの棚にありますよ。ふわふわのものはバスルームの方に」

 机に置かれていたノートを捲る。柔らかな文字で、たくさんの名前と治療方針のようなものが書かれている。お患者名と、その人に合わせた治療法などを書き留めていたのだろう。

 ノートを閉じて机に戻し、ⅠCチップをケースごと籠に入れる。

 なんだか気の抜ける部屋だ、と思う。部屋に入るのもおそらく初めてのはずなのに、どこに何が置かれているのかなんとなく分かるような、でも確信はないような。絶対にここにこれがある、とは分からないものの、おそらくそうではないか、と感じる。

 不思議な事もあるものだ。もしかしたら見られないデータにこの部屋のことがあったのかもしれない。

 適当に結論を付けて、何気なくキッチンへと戻ってみる。シンクの中には何もなく、洗われた皿が干されたままになっていた。

 目についたものを籠に詰め終えたら、数枚タオルを抱えたセレーネーと共にシャシーのいる僕たちの自室へと戻った。

 机の上のシャシーは変わらずすやすやと眠っていた。セレーネーは持ってきた柔らかいタオルでシャシーを包み、ベッドへと移動させる。

「そうだ。まあ大丈夫だろうけれど、私達も明日はこの建物から出るし、充電しておこうか」

「充電ですか。たしかこのケーブルを前腕の外側にさすんですよね」

「正解。さしてあげるね」

「自分で出来ますって」

 口角をあげてコードを刺そうとしてくるセレーネーからケーブルを奪いさっさと接続してしまう。三十分ほどで充電が完了するようだ。ベッドに腰掛けて目をつむる。

「おやすみ、テール。今回は何年も眠らないでね」

 スリープする少しのあいだ、セレーネーのそんな声が聞こえたような気がした。

***

 充電モードに入ったテールを置いて、部屋抜け出す。

「……テールはどうして、タオルの位置を知っているの?」

 セレーネーは一人廊下で、ユニットバスで見つけたタオルを抱えて呟く。

 テールに聞けなかった質問だ。してはいけない質問だ。何故なら、テールはあの部屋のものの配置を知るはずがないのだ。あいつの部屋には私しか入室していない。それにもし入ったことがあったとしてもテールの記録は欠損しているはずだ。凍結したはずだ。私が、上書きされたデータを消せない代わりに誤魔化したはずだ。質問をしてしまっていたら、思い出してしまったかもしれない。本当に、しなくてよかった。

 タオルを握りしめ、ふわりと香った香りに顔をしかめる。

 こんな事ならあの部屋には行かなければよかった。でも、他の部屋に行ったところで食べ物なんて残っていない。ほとんどの医者の死因は感染症によるもので、その人たちが振れたものは危険だからと家具ごと処分してしまったのだから。

 これは仕方がない。テール自身も何も気が付いていなさそうではあるから、私が何も言わなければ彼が何かを思い出す事などないだろう。そうであってほしい。

 他の可能性は止まることなく湧き上がってくるけれど、今は甘い考えに浸って、幸せな味わうことにした。

   3

 やわらかな朝の光が窓から差し込んでいる。

「おはよう。テール、シャシー。朝よ」

 とん、と軽く肩を叩かれて目を覚ます。三十分ほどスリープするつもりだったのに気が付けばもう朝になっている。やってしまった。

「おはようございます、セレーネー」

「ふふふ、寝癖が出来てるわ、テール」

 僕の頭を撫でて、髪を結び直してくれる。寝転んではいないから乱れているとは思わないが、セレーネーの表情がにこやかなのでそのまま結び直してもらう。

「うぅーーん、もうちょっと寝る」

 青い輪っかは寝ている時でも浮きっぱなしなようで、シャシーが埋まったタオルに丸い形が見えている。

「私は別にいいんだけど、シャシーはそれでいいの? ずっとここにいる?」

「それは駄目だ!」

 もこもこになったタオルから勢いよく白い丸が飛び出してきた。昨日セレーネーが綺麗にした毛並みは静電気と寝癖でぐちゃぐちゃになってしまっている。

 腕に刺したままになっていたケーブルを抜いて立ち上がる。

「全然寝たりないよぉ。この星、時間が回るの早いんじゃないかな? ボクあと六時間は寝れる……」

 のそのそとタオルの上に戻り、足で毛並みを直す。届きそうにない頭の上にプルプルと震えた足を伸ばしている姿になんとも言えない可愛らしさを感じる。セレーネーへと視線を向ければ、両手で口を押えて見開いた目はシャシーに釘付けになっていた。

「え、な、なにさ……?」

「いいえ、何にもないわよ? 続けて」

「いや終わったけどさ……」

 目の下あたりまでしか綺麗になっておらず、耳もぼさぼさのまま。

「とっても可愛いと思うわ」

 セレーネーはどこから取り出したのかブラシを持ち出して、シャシーにブラッシングを行う。大人しくされるがままのシャシーのおかげで、すぐに毛並みはサラサラになった。

「で、今日はどこ探しにいくの?」

 昨日の夜に持ってきておいた冷凍野菜を食べながらシャシーは口を開く。

「……そうね、まずは一番端まで行きましょうか。ぐるっと端から攻めていきましょう」

 最後の一口を飲み込んで、頬を丸く膨らませたまま浮かび上がる。

「よく分かんないけど、出発だ~!」

 定位置のように頭に乗っかってきた。せっかく綺麗にしてもらったのに残念だ。

 

 頭が重いまま階段を降りて病院を出て、シャシー墜落現場を抜けて、さらに奥へと歩く。セレーネー曰く、今から行くのがセレーネーが行ったことのある病院から最も離れた場所とのことだった。

「これからは病院に戻らないで部品を探しに行くから、私達はバッテリーを持って行って、あとは食べ物も持って行かないとね」

「え、帰らないの? どこで寝るの?」

 セレーネーは自身が持って来ていた籠を見せて、頭の上のシャシーを撫でる。

「いろんなところにまだ多分そんなに壊れてない家があると思うから、休むときはそこにお邪魔しましょ。誰も住んでないし、大丈夫大丈夫」

 野宿だ、と頭の上から嫌そうな声がする。そもそも頭に乗っていて疲れないだろうし、ちょうどいいのではないだろうか。

 遮るものがなく降り注ぐ陽の光は温かく、草木は元気にすくすくと育っている。コンクリートで舗装された道を二人と一匹を連れて進む。時々爽やかな風が流れて、草がさらさらと揺れる。

「……ねぇ~遠くない? まだ?」

「ここから一番近い端まで行くからね。シャシーはちゃんと道中に部品落ちてないか探してよ~?」

「探してるよぉ。衝撃を受けたらでかくなるから、目視で分かる大きさで落ちてると思うよ。だからボクじゃなくてもすぐ分かるよ」

「……大きくなる? 物なのに動けて、大きくもなる……。まぁ、シャシーは僕に乗ってるだけなんですから、僕らに頼らずちゃんと見ていてくださいね」

 もちろん、と言って僕の頭を叩いてくる。振り落としてやりたい。そんな気持ちを押さえて、セレーネーへと問いかける。

「この辺りは建物がほとんどないんですね」

「そうね。もともと人が住んでいなかった土地でもあるし、もう少し行くと林、って言うんだったかしら? 木をたくさん植えて大気を綺麗にしようとした結果できた林の中に入るわ」

「へぇ~。木って空気を綺麗にするんだ」

「……まあ、それだけじゃなくて目隠し的な意味もあるんだけどね」

「目隠し、ですか?」

「ふふ、内緒」

 人差し指を僕に向ける。きゅ、と口を閉じてセレーネーを見れば、いい子、と笑ってた。

 なにもないまま、ようやく林の中へと足を踏み入れる。影になっていて心地がいい。

「ここが端っこ?」

「そうね、もうほぼ端まで来たと思うわ」

 セレーネーはポケットから十センチ四方の、厚さ三センチほどの板を取り出すと、板をタップする。すると板の上に青白い3Dホログラムが映し出された。どうやら地図のようで、現在地と思われる部分に赤色の点が光っている。赤い光は楕円の端の方で光っているため、目的であった一番端まで来ることはできたようだ。病院を出るときはまだ日が上ってすぐだったはずなのにすでに日は真上から少し落ちていて、三、四時くらいではないかと推測できる。

「にしても、木しかないね」

「そうでしょう? ……あともう少し進んだら柵が見えてくると思うの。そこが私とテールが行ける、病院から一番近い端ね」

 ホログラムの地図は少し先にある、セレーネーの言う柵を表しているであろう線の先には何も表示されていない。

「その柵の向こうって何があるんですか?」

「え? 端っこって言ってたからその先なんてないんじゃない?」

 のんきにシャシーは笑った。

 道はコンクリートではなく砂利道へと変わっていく。隙間を縫うように草が顔をのぞかせている。いつのものか分からない枯れた葉っぱに、折れた枝。

 見渡してみても不自然に木が折れたりした様子はなく、この周囲にはシャシーの部品は落ちてきていないようだった。

「見たら分かるわ」

 僕の背よりも高く伸びた草が邪魔をする。セレーネーはそれを手で避けて踏み、道を作る。

 さっと開けた視線の先には僕よりも、セレーネーよりもずっと高い柵がある。金網フェンスのそれはおそらく三メートルはあるだろうか。フェンスの向こうには、平地が広がっている。その奥にはコンクリートの壁がずっと広がっている。

「何にもないね」

 のんきな声でシャシーは告げる。向こうは木があるだけで、そのさらに奥は何も分からない。

「もしかしたらこのフェンスより向こうにも落ちているかもしれないけれど、私達には分からないし、私達と一緒に探すなら諦めてね、シャシー」

「……ふーん。いいんだけどさ。このフェンスはどこまで続いてるの?」

「ずっとよ」

 ずっと。地図に書かれていた円、それがこれだから。

 遠く、ここではないどこかをぼんやりと眺めるように、フェンスの向こうを見ながら静かにセレーネーは告げた。

「……セレーネー、この木々の向こうには何があるんでしょうか」

「ここで働く私達にはいらない情報だったから、私も知らないわ」

 俯いて、暗い顔つきで微笑んだ。何か声をかけようと口を開いても、続く言葉が出てくるわけでもなく、口をぱくつかせてしまう。

 すると彼女はぱっと顔をあげて、軽く自身の頬を叩くと、いつもの笑顔を浮かべる。

「うん。じゃあ、もう少しだけこのフェンス周辺を見てみて、どこかで夜を明かしてから次どこを探すか決めていくのでどう?」

「さんせー」

 気の抜けた返事をシャシーが響かせる。それをみてセレーネーはくすりと笑った。

 しばらく提案通りフェンス沿いに林の中を歩いていると、セレーネーが立ち止まった。

「確か、このあたりにこの中に入ってくるため扉があったのよね」

「そうなの? でも今ないじゃん。入っても出られないよ?」

「入った人は出ないからいらないでしょう?」

「出ないの?」

「ええ。出る必要もないし、そもそも出てはいけないもの」

「なんで?」

「……そう、決められているからよ」

 シャシーは矢継ぎ早に質問を投げかける。一度目を伏せ、すぐにフェンスの向こうに視線を向けるセレーネーの横顔は感情が抜け落ちたようで。

「セレーネー」

 思わず、フェンスに添えられた彼女の手を握って声をかけてしまった。

「……テール?」

 僕の名を呼ぶ声には戸惑いが感じられ、先ほど見た無表情のかけらなど感じられないほど不安げな表情で僕を見る。いつも通りの、彼女の表情だ。

「どうしたの? ふふ、ちょっと恥ずかしい、かな?」

 セレーネーは口元を出て押さえて微笑む。彼女に表情が戻ったことに安堵しつつ、セレーネーの言葉を受け取った気が付く。そういえば手を握ってしまった。別に何ともない動作のはずなのに、彼女が恥ずかしい、と言うからこちらも恥ずかしいような気がしてきてしまう。咄嗟に握ってしまった手を引っ込めた。

「あ、えと。その、こういう野晒しになってた金網って危ないって言うか、僕らがいくらアンドロイドだからって言ってもこの肌を模した被覆部が傷つきますよ。人らしく見せるために柔らかめの素材が使用されていますから脆いですし、中が出てくるとそれはそれで不便ですし」

「大丈夫よ、テール。でもありがとう。ここじゃ修理もできないものね。あなたも気を付けてね?」

 ひっこめた手を彼女が握る、柔い感触。

「あのぉ、いい感じなところ、申し訳ないんだけどさ。ボクのこと忘れてるでしょ」

 ぱし、と頭を叩かれる。そういえば、乗せていた。頭にいる荷物は、不貞腐れた声をあげた。

「えぇ……。本気でこのボクのこと忘れてたんだ? 信じられないよ」

 こんなに可愛くて存在感があって……、とぶつくさ言っている。機嫌を取るように、セレーネーは頭を撫でた。

「まぁ。ごめんなさいね。大丈夫、一瞬忘れていただけよ」

「なにも大丈夫じゃないじゃん!」

 随分と歩いたようで、もう日はオレンジ色をしている。赤い色が周りの景色を染めて、夕刻だと告げていた。

 軽風が頬を撫で、髪を揺らす。

「……もうこんな時間。暗くなると動きにくいし、シャシーも疲れたでしょうし、このまま空き家を見つけてそこで夜を明かしましょうね」

 シャシーの青色の輪の光が目立つようになってきた。それほど周りが暗くなっているという事で。

「やった~! あと、ボクもうこの葉っぱばっかのところ歩きたくないよぉ。別のところ探そうよ、きっとこんな遠いところまで落ちてないと思う」

「シャシーは歩いていないのでは」

「うるさいな~! キミの頭不安定なんだよ。もっとね、丁寧に移動してくれたまえよ。バランスとるのも体力いるのさ」

「ふふふ、明日は私が抱っこして運んであげようか?」

「……いや、テールの頭の上でいいよ。頭の上がいいな」

 また潰されたら困る、と小さくぼやいたのが聞こえたけれど、残念そうにしているセレーネーに教えてあげることはできなかった。

 そうこうしていると木々の中に一軒の木造の建物が見えてきた。劣化こそあるもののぱっと見で穴が開いていたり天井が崩れていたりしている様子もなく、一夜を明かす程度ならば問題なく過ごせそうだ。

 慎重に扉を全開にして、中に入る。埃まみれで土っぽい室内の、あまり綺麗ではないソファーに腰掛ける。

 シャシーには持って来ていた保存食を与えたけれど、家の前に生えていた謎の青草の方が美味しかったようで、泣きながら「草がうまい」「絶品」「もうこれだけでいい」と言って家の外に出て生えている草をなりふり構わず食べていた。

 次の日も同じようにフェンスに沿って歩いていたけれど、一度林を出てすぐにまた木がたくさんの場所になったことで、シャシーがもう同じ景色ばっかりで飽きたと泣き言をこぼし、結局すぐに空き家に入ることにした。

「シャシー、まだお昼ですよ?」

「あのね、ボクは君たちと違って繊細なんだ」

 それにこんなところにはきっと落ちてないよ、と本気で嫌そうにつぶやいた。流石に可哀想に思ったのかセレーネーはホログラムの地図を表示する。昨日の出発点からおよそ円の半分ほど進んだところだった。

「……まぁ確かに見つかっていないし、そろそろ病院付近に戻るのもありね」

 空き家自体は探せばたくさんある。十分ほどで空き家を見つけて、昨日と同様に休むことにした。

 二人が眠ってから、何となく外に出る。半分も進んだはずなのに、フェンスの向こうはずっと木に取り囲まれていた。うっすら見える向こうも、何かがあるようには見えない。もう少しだけ進んでみようと、月明かりを頼りに木々の中を進む。

 一時間ほど歩いただろうか。アルミの看板がフェンスに付けられている。髑髏のマークと、大きく書かれた文字。

「……この先立ち入り禁止区域?」

 セレーネーが見せてくれていた地図を思い出す。中央の建物の周りに薄く線が引かれていたのは覚えている。しかし、これまでの距離と時間を考えるにそこまで進んではいないはずだ。それにあの中央の円はフェンスの円とは接していなかった。

よく見ると、掠れた印刷の文字はさらに小さく何かが書かれている。指で軽く表面をなぞって土や汚れを落としてみると、ところどころだが読むことが出来た。

「……に、注意?」

 なにに、と読みかえそうとして、視界にノイズが走る。

——『駄目だよ』

***

「ミーナ、そっちは駄目だよ」

 栗色の髪を白いリボンでポニーテールにした少女の背に声をかける。痩せた細腕の彼女は、看板に向かって手を伸ばし、くるりと回って振り返った。

『ね、センセ。もし私がこの柵の向こうに行ったら、怒る?』

 茶色の目がまっすぐにこちらを捕らえた。

「あぁ。とっても怒る。そもそも行かせない」

『でもさ、センセ。この先に行ったら、運がよかったら痛みもなく死ねるかもしれないでしょ?』

「運が悪かったら片足が吹き飛ぶ痛みをずっと味わって終わってしまうよ?」

 俯き黙り込んだミーナに駆け寄って、手を伸ばす。

「みんな待ってるよ。病院に戻ろう、ミーナ」

『触ったらだめよ、センセ。センセがビョーキになったら、私達を治してくれる人がいなくなっちゃう。分かった。痛いのは嫌だから帰るよ』

 視界が滲む。この子を治してあげられない自分に腹が立つ。

『……泣かないで、センセ。私、センセのこと大好きだもの』

 ハンカチ一つ渡してあげられないけど、と潤んだ目で、彼女は言う。木の枝の両端を二人で掴んで、気持ちだけでも手を繋いでいるようにして病院までの道を歩く。

 まだ幼い彼女(ミーナ)は、あと三年もつか分からない。せき込む彼女の声と、雨に濡れた土の臭いがまとわりついて離れなかった。

 ***

 ぱちぱちと弾ける音がして、ゆっくりと視界が回復していく。

「……今のは?」

 少女にセンセ、と呼ばれて それが自身に言われたことだとはわかるけれど、それが分からない、なんでそんな風に呼ばれていたのか、なんだか引っかかる。

 しかし、分からないものを一人で考えたって分かるわけもない。記録が欠落している僕なら尚更だ。諦めてさっさと今日の就寝地へと戻ることにした。

  4 

 自然と目が開く。顔をあげれば、スリープするセレーネーと、その膝の上で丸まっているシャシーがいる。

 僕は珍しくセレーネーより早く目が覚めたようだ。シャシーの食事を用意するために建物から出る。あまり汚れていなくて元気な草を探して、数本引き抜いておく。きっとこちらの方がシャシーは嬉しいだろう。栄養バランスとかがどうなのかはいまいち分からないが。

 実が付いたものもないだろうかと草をかき分けて探してみたけれど見つからなかった。けれど、小さな花が咲いていたのでついでに採集して家の中へと戻る。二人はいまだ同じ体制のままでいた。

「セレーネー、シャシー、起きて下さい」

 肩に手を置いて、ゆっくりと揺らす。すぐにセレーネーは目を開けて、息をのんだ。

「テールが、私より先に起動してる……?」

「僕だってちゃんと時間通りに起動できますよ……」

 ごめんごめん、と軽く謝って、セレーネーは膝の上で丸くなっているシャシーを撫で、口元に手を当てる。

「起きてくださーい? 起きないと、抱きしめちゃうわよ~」

「おきますした!」

 ピンと耳をたて、勢いよく跳ね起きたシャシーと、残念そうにしているセレーネー。

「あ、いや、そのぉ~。セレーネーが嫌とかではないんだよ?」

「いいの、分かってるわ。初対面であんなことをしちゃったものね」

 でもいつか絶対ぎゅってするから。と堂々と宣言をするセレーネーを見てプルプルと震え脅えているシャシーに、さっきとってきた草の入った籠を見せる。

「シャシー。これらは食べられるものですか?」

 恐る恐る入れられた葉の端に噛み付いて、まん丸な目が僕を見上げる。

「……、めっちゃ美味しい! ありがとうテール。君、神様みたいだね」

 手から奪い取るように全部加えて地面に降りる。むしゃむしゃと葉っぱを勢いよく咀嚼して飲み込んだ。

「よし、さっさとここから出よう。じめじめするし」

 結構な量を採取してきたのに、小さな花一つ残さずぺろりと平らげて、ついでに美味しくないと言っていた保存食も少しだけ食べて、シャシーは浮かび上がった。

「そうね。今日は、どこに行こうかしら」

 地図を広げて二人と一匹でのぞき込む。シャシーは円の中心を指して、

「あ、ねぇねぇ。ボクここ行ってみたい」

 と言った。セレーネーは、病院からも近いからもしかしたら部品が落ちているかもしれないね、と頷く。

「よし、じゃあこの四角に向けて出発だ~!」

 意気込んだくせに、シャシーは当たり前のように僕の頭に座った。

「シャシー」

「いいじゃん。減るもんじゃないし。僕のこのふわふわが堪能できるし」

 そういう事ではない、のだが。ため息一つで諦めて、頭を揺らさないように立ち上がる。

 扉を開けて外に出てひたすらに歩く。木陰は気持ちがいい。

「あ、もう少ししたら山になってて、目的の建物は山の中にあるみたいだからまた木の中を進むことになるわね」

「えぇ~~! やだぁ!」

「あなたのためでしょ、文句言わないの」

 むすっとしたシャシーは置いておいて、セレーネーは映し出した地図を消して指さして進行方向を教えてくれる。

 あの四角は、僕が読み込んだチップによれば化学物質研究所と言う場所らしい。そこには何があるのだろうか。何か思い出せたらいい。

 研究所に向けてひたすら山道を登っていく。よくよく足元を見ると、ぎりぎり階段とも見えなくない石と木を組み合わせた何かの残骸があるのが分かる。慎重に足を乗せて、体を前へと持ち上げて進む。

「……結構、急ですね」

「本当に。病室の窓から見えてはいたけど、本当に高いのね」

 顔をこちらに向けて返事をくれたと同時に、僕の頭上を見つめてセレーネーは小さく噴き出した。

「ふふ、シャシーったら。むくれてないでちゃんと探すのよ?」

 未だふくれっ面なのか。表情が見れないのが残念だ。

「探してるし。……ね、あれなに?」

 あれ? とセレーネーは聞き返して、上でシャシーがもぞもぞと動いたので指示を出しているようだ。

「うーん、とりあえず行ってみましょうか」

 こちらからはシャシーが何を指しているのか分からないので頷いて、セレーネーについていく。

 少しすると、腰ほどまでの高さの細い針金で出来た柵があった。触れてみてもなにもない。

「……おそらく電気柵、ですね。電気通ってないので今はただの柵ですけど」

「触っちゃ駄目よ、テール。……まぁ仕方がないけれど」

 どうしようか、と顔を見合わせる。すると頭が軽くなった。シャシーが頭から降りて、柵の向こうへとふよふよ進んでいく。

「うーん、なんかね、建物あるよ。壊れちゃってるけど。ここも入っちゃ駄目なの?」

「いいえ、そういうことは聞いた事は無いわ」

「じゃあ行けばいいんじゃないの? デンキサクってのはよく分かんないけど、この高さなら二人も来れるでしょ?」

「……まあそうね。入っちゃいましょうか」

 周囲を見渡してみても看板などはついていない。こういうのは入らないために建てられるけれど、注意書きも見当たらない。まあいいだろうと頷いて、セレーネーと共に柵を乗り越える。

 少し上った先に、半壊した建物があった。その崩れ方は、経年劣化で壊れたようには見えない。何かが墜落したような跡、だろうか。

「これさ~、僕の部品落ちてそうじゃない?!」

 耳をパタつかせると勢いよく崩れた部分に突っ込んでいく。

「あ、ちょっとシャシー?!」

 セレーネーはそれを追いかけて建物へと入っていってしまう。

 入口のようなものはないだろうか。二人のことも心配だが、建物についても知りたい。

 崩れた瓦礫の上に慎重に足を乗せて、まだ残っている壁面へと近づく。四角のプレートにははっきりと、化学物質研究所と書かれていた。つまり、あのチップから得たデータは間違っていなかったという事だ。

 二人の行った方を見ても、後も形もない。まあ大丈夫だろう。

 おおよその予想を付けて二人が言った方へと足を伸ばした。

 瓦礫の隙間を抜けて、広い空間に出る。外からも見えていた壊れていない部分。

 部屋になった場所は書類が仕舞われていた資料室のようだ。棚には紙の資料と電子の資料が入り混じっている。

 何気なく机に置かれた紙を拾って、読み上げる。

《二四九三年 六月七日

 地点A施設、飛来した鉱石から発せられる未知のウイルスの解明・実験の場。午前九時に別物質との融合実験中に小規模の爆発が発生。小規模ながら保護ガラスを破壊し、換気扇より有毒ガスが施設外に流出を確認。 地下への影響なし。

 施設職員は防護服により影響なし。流出したガスによる人体への影響は甚大。昏睡、筋力低下、循環器、呼吸器機能の低下などを引き起こすため要注意。上層部への報告》

《六月八日 

 空から爆弾が降ってきた。施設に直撃はしなかったものの、割れた窓や実験途中の物質の熱膨張等の事故を誘発し、建物が半壊した。地下は無事だった。

 昨日記録した、流出した気体による人体への感染症の発症は気体を吸い込んでから約五年後とされる。発症確率は七十五%。薬剤などの投薬による発病を抑えることは不可能。範囲を考えるに、この山の中で収まっているとみられる》

《感染した患者を近くにあった町の病院、リウム病院へと運んだ。病院は汚染者だけではなく負傷者でいっぱいだった。近年、また戦況が悪化したと聞く。昨日の爆弾もそういう事だろう。この辺は戦線付近ではある。民間人への攻撃は無いとされていたが、この研究所が狙われる理由は分かる。敵国に化学物質をばらまく時代だ。我々はそんなこと望んではいない。争いなんかが長引くからこうなるのだ。すぐになくなってしまえばいい》

「……負傷者」

 かち、と。機体内のどこかで音がする。瞼を下ろし。思考を巡らせる。

 一つ、データのかけらが読み解ける。自身がリウム病院でしていた仕事。身元の分からない負傷兵の手当て、看取りをしていた様子が再生される。今より小さくボロボロの病室に、ぎっしりと人がベッドに寝かされていた。一人一人の汗をぬぐい、包帯を変え、水を飲ませ。

 ここにいる半数は家に帰り、残りは病院の側の墓地に眠っているはずだ。

 これは、(テール)の記録だろうか。ぼやけた映像が終わり、目を開く。半壊した建物の中で、古びた紙を持っていた。紙を机に戻して、さらに奥へと向かう。

 開け放たれた扉の奥には、セレーネーとシャシーがいた。

「二人とも、大丈夫ですか?」

「お、遅いな~テール! みてみて、あったよ部品!」

 シャシーが耳をパタパタさせてこちらに飛んでくる。両手で捕まえて、セレーネーが座っている位置に持って行く。

 そこには、天井にはしっかりと穴が開き、地面にめり込むように三角形の銀色が埋まっていた。意外と大きく、触ってみればしっかりとしていた。

「シャシー、これはどの部分なの?」

「羽だよ。あ、帆かな? うーんまぁなんでもいいや! 下の方にくっつけるんだ~」

 浮かべた輪っかが明るくなり、白い壁が青く照らされる。

「お前さ、勝手に船から外れるからこんなとこで落ちて埋まって動けなくなったんだよ。分かったらボクの船まで自力で戻るんだ。いいね?」

「自力で?」

「うん。二人には埋まったこいつを持ち上げてもらってもいい? そしたら勝手に船に戻ってくからさ」

 不思議なものもあるものだ、とセレーネーと見合わせる。

「これを持ち上げてあげればいいのよね?」

 そろりと近寄って持ち上げる。セレーネー一人で十分だったようで、僕が力を貸すまでもなく羽は地面へと置かれた。

「はい、行った行った!」

 シャシーがそう言うと青い輪っかが光って、銀の三角形はうにょっと伸びて、手のひらサイズの黒くて丸っこいものに形を変える。

「まぁ! シャシーと同じ見た目だわ」

 銀の三角形が掌ほどの黒いシャシーへと変形していた。黒いシャシーはシャシーがするのと全く同じようにふわりと浮いて、施設を後にする。

 全く構造が分からない。分からなくてもいいか。質量とかいろいろと無視しているし、おそらく理解できないものだ。

「あれの見た目がボクと似てるのはボクが手を加えたからなの。持ち主の姿になるんだよねアレ」

 黒くて小さなシャシーもどきを見送っていると、シャシーが静かに告げる。

「そうなのですか。そう言えば、先ほどこのようなものを見つけまして」

 そう切り出して先ほど見た資料の内容をセレーネーへと話す。すると、聞いていたのかシャシーが不思議そうに首を傾げる。

「ここって汚染されてるの? ボクには何も分かんないけど」

「それに、戦線? 私も初めて聞いたわ」

「え?」

 僕の仕事に、負傷者の手当てがあった。その時、セレーネーがいないわけがない。僕らは製造されたのは同時期のはずだ。

 セレーネーの顔を見ても、嘘をついている様子はどこにもない。本気で、分かっていない、知らないようだ。

「いえ、何でもないです。確かに、そうですね」

 僕ら機械には何の影響もなくても、シャシーには何かしらあるかもしれない、と不安になっていると、シャシーは何か悟ったのか頭に乗ってきた。

「ちなみに~、ボクのこの頭の上の輪っかはボクの体調管理とかもしてくれてて、これが真っ赤になったらやばいんだ。けど今は青いから大丈夫なんだぜ」

 凄いだろ~、と僕の頭を叩く。叩く行為さえなければ凄いですねと褒めていたところだ。

 まだ何かあるかもしれないからと施設内を探索していると、綺麗なまま、まるで時が止まったかのような静かな部屋へと足を踏み入れる。

 机の上にはコップが置かれている。中身はコーヒーだろうか。コップには茶色いしみがついている。

 壁一面のスクリーンに、制御盤らしきテーブルが半円に並べられている。部屋の中央の柱に設置された時計は八時二十七分を指して動く様子はない。

「初めてここに入ったけれど立派な建物だったのね」

 セレーネーはゆっくりと部屋を散策している。この部屋は窓がなく外の光が扉以外から入らないせいもあってか薄暗い。

 制御盤には電源がなく、操作は出来なかった。

「ねー、これなに?」

 シャシーが持ち上げて持ってきたのは一枚の写真だった。二十代ほどの二人の男女が寄り添う姿で、裏を見れば愛しのアナと書かれている。

「……これ、夫婦ってやつかしら」

 覗き込んだセレーネーは口元を手で押さえて呟く。心なしか頬が赤く染まっているような気がする。

「夫婦ってなに?」

「結婚した男女……いいえ、今時男女以外もあるわね。添い遂げることを決めた二人のペアのこと、かしら」

 シャシーは興味なさげに頷いて、頭に座った。

「そもそも男女ってのもよく分かんないからよく分かんないや」

 男も女もない場所から来たシャシーに分からないのも当然かもしれない。前に聞いた話から、シャシーは細胞分裂で生まれているようだし、細胞に性別なんてない。

「シャシーもいつか分かる日が来るわよ。私みたいにね」

「絶対にないね」

「何にもなさそうですし、外出ましょうか。ここだって崩れる可能性ありますから」

 写真は元の位置に戻して、薄暗いこの部屋を後にする。特にこの場所に関して思い出した事は無い。つまり、僕はここに来た事が無かったのだろう。

 廊下の先の崩れかけた扉を抜けると、その先は瓦礫と青空だった。入ってきた場所とは違う位置に出てきてしまったようだ。

 瓦礫の山を乗り越えて敷地外を目指していると、ここが頂上のようで、下の様子がよく見える。

「あっちは病院ね。ちょっとしか離れてないからかしら? とっても大きく見えるわ」

 強めの風が僕らの髪を靡かせる。

「じゃああの壊れた家が沢山あるところがボクが落ちちゃった場所だね」

「そうね」

 緑豊かな土地に、荒廃した風景。雄大な自然が僕たちを取り囲んでいる。

「こんなに、自然が溢れた風景だったでしょうか」

「え?」

「僕が眠っていた十年で、こんなにも荒廃、するんでしょうか」

 目を閉じる。ミーナと帰った道は、もっと人工物にあふれてはいなかっただろうか。看板も標識も、動物だっていたはずだ。

「……私はあなたが起動するまでずっとあの部屋にいたから、外のことなんて分からなかったわ」

 分からなければならないわけでもなかったし、と呟く。

「あれ? 僕が眠ってからも患者を見ていたんじゃないんですか?」

「ええ診ていたわよ」

「診ているときに、外に行ったりはしなかったのですか」

「井戸に水くみに行ったり、埋葬したり……病院近辺からは動いてないから、分からないも同義じゃない?」

「……そうですね」

 病院近辺は確かに物が少なくて、自然が豊かだった。もともと小さな町医者で、都会から療養に来る人もいるくらいには緑豊かさが売りだったからだ。

「ねぇねぇ、あっち何もなくない?」

「ほんと。見事に更地ね。なんて言うか、ずっと前に何かが押しつぶしてしまったみたい」

 シャシーとセレーネーの声に、後ろを振り返った視線の先には何もなくなった平地が広がっていた。緑一つない、でこぼこになった茶色い地面。

 ずっと奥には川が流れ木が生えているものの、そこまで行くのにいったいどのくらいの距離があるのだろうか。

 へこんだ地面が、やけに目に付いた。

 どうしてこんなにもあの地面に意識が行くのだろうか。もう一度目を閉じて、記録を探る。見た事があっただろうか。何か知っていることがあるのではないだろうか。

 壊れかけのファイルに手をかける。触れれば鍵は壊れ、記録が流れだす。ほとんどは、患者との会話だ。

「あ、見てあれ! ボクの船の部品っぽいもの発見!」

 水を飲ませて、汗を拭いて包帯を取り換えて。僕を女性だと見間違えて呼ぶ者や、セレーネーの手を握りしめて泣く人。義足の練習をする人。

 研究所の向こうは、国境付近で、一番怪我人を出した場所、で。

「本当ね、取りに行きましょうか」

「っ、駄目です、セレーネー!」

 咄嗟に、先に進もうとするセレーネーの腕を掴んで引き寄せる。勢いのままガクンと、彼女の肩が外れた。

「あ」

「あああごめんなさい! でも、危ないんですその先! 僕らは駄目です、駄目なんです」

「大丈夫、大丈夫よテール。外れただけだからすぐに直るわ、ね?」

 簡単に無事だった方の手で肩を押し込んで、セレーネーは自分の外れた腕を治した。外れたときの音は決して安心できるものではなかった。

「これは応急処置ですよね? 病院に戻ったらちゃんとあの僕らの作られた部屋で直しましょうね。あそこなら絶対部品足りますし、おそらく予備もあります。あ、エマの部屋でもいいかもしれません。エマの部屋は地下です。あそこなら——」

「大丈夫、いらないわ。ねぇテール。どうしてこの向こうに私達は行けないの?」

 首を傾げる彼女は可愛らしいが、そんなことは置いておいて。

「はい。この先、何が埋まっているのか分かりません。僕らの機体を守るためにも、足を踏み入れない方がいいのです」

「つまり、ボクならいけるってコトだ」

 ふわっと頭から飛び上がり、部品らしきものへと浮かんでいくと、研究所内で見つけたようにその部品は黒くて小さなシャシーへと形を変えて動き出した。どうやらうまくいったようだ。

「……よかったです。何もないみたいで」

「……そうね」

 部品の黒シャシーがふよふよと動くのを眺めていたせいか、静かに、僕を見下ろしているセレーネーの視線には気が付けなかった。

「よぉし、これであと一つ見つかればボクの船は完璧完全に直っちゃうね」

 シャシーは、黄色の丸い目を輝かせて戻ってくると、当然のように僕の頭に着地する。

「帰りましょうか。そろそろ充電が足りなくなってきたわ」

 頭の上のシャシーを撫でると、柵まで戻り、乗り越えて病院へと向かう。

 頭の上のシャシーがずっと何かを話し、それにセレーネーが相槌を打っている。

「あと一個、どこにあるんだろうねぇ」

「シャシーは何か分かることはないの?」

「全く」

 勝手に船から離れたあいつらが悪いんだ、と愚痴をこぼしながら、進み、病院へとたどり着く。

 相変わらず開かないスライドドアをこじ開けて、重たい足を持ち上げて階段を登り僕たちの部屋へと足を踏み入れた。

 前に来た時は懐かしさなんて感じなかったのに、久々だからだろうか。とても懐かしく感じた。

「帰ってきましたね」

「そうね、帰ってこられたわね」

 籠を置いて、伸びをする。関節に不具合はない。ただ、気分が少し重たく、疲れているような気がする。

「あ~! ふわふわベッド~」

 力なく頭から飛び上がり、ベッドへと飛びつくとそのままシャシーは動かなくなった。

「シャシー?」

 耳をすませば、微かに寝息が聞こえる。どうやら眠っているようだ。

「ふふ、凄くスムーズに眠っていったわね」

「ですね。なめらかでした」

 毛布を掛けてシャシーを包む。建付けの悪い窓を少しだけ開けて換気をして、僕もベッドに腰掛ける。

 座ると一気に疲れが来る。充電をするべきだろう。

「疲れましたね、セレーネー」

「え? ……えぇ、たくさん歩いたもの」

 セレーネーも自身のベットに腰掛けると、天井からぶら下がるケーブルを前腕の外側に差した。僕もケーブルを差して、目を閉じる。

 

 スリープに入る少しの間、思考を巡らせる。今日、あった事を。

 本当に少しずつだけれど、思い出せる記録が多くなってきた。封がされていても、触れると開いてしまうものも意外とあるようだ。きっかけは分からないけれど、見たものによって脆くなっているのかもしれない。

 あの研究所に行った事は無いけれど、遠目に見たり、話に聞いたことはある。

 研究所から患者が運ばれてきた記録はなく、地域住民の記録はある。恐らく研究所職員は無事避難することが出来たのだろう。

 センセ、とミーナは、なんだろうか。この病院でセンセと呼ばれる人は、新しい記録だと一人しかいない。唯一この病院に残った医者は、コンラートだけだったはずだ。そう考えると、あの記録はコンラートの記録ということになる。けれど、彼は人間だ。どうして人間の彼の記録を自分が知っているのだろうか。話を聞いていたのかもしれない。しかし話を聞いただけで、あんなにも鮮明に映像になるものだろうか。

 ぐるぐると思考が回る。諦めも肝心だと、逃げるように一気に意識をシャットダウンする。

 暗い意識の底で、白い白衣の後ろ姿が見える。濃藍色の髪を後ろで一つにまとめた彼は、こちらを振り返ることもなく消えた。

  5 

 

 最近、スリープ中に凍結されていたりロックされていたデータが少量ずつ読み取れるようになってきた。

 途切れ途切れでも、自分について知れていく感覚は意外と悪くない。

 コードを抜いて、隣のベッドを見るが、相変わらずシャシーとセレーネーは目覚めない。

 セレーネーの目覚め(起動)が遅いのはよくあることになってしまった。

 まだ日も昇りきっていない。気分転換に病院を歩くことにした。

 今だ完全に記録が戻ったとは言い難く、地図すら危ういが、見てみたら意外とスリープ時と同じように少しでも何か記録が思いだせるかもしれない。

 今いるのが三階だから、一個下の階を見てみることにする。

 階段を降りて、薄暗い廊下を歩く。側の部屋の扉を開けて中に入れば、ふわりとほこりが舞った。

 二階は四人部屋のようで、ベッドが四つ並んでいる。そのうち一つは最近まで使われていたのか、シーツと毛布が置かれたままだ。

 ベッドに近寄って、ヘッドボードを見れば、ザフォラと書かれていた。たしか、この服を作ってくれた子の名前だ。

 何となく気になって、その隣のベッドボートも見てみる。綺麗に片されて埃が積もったベッド。名前はカルロスと書かれている。

 カルロス、という言葉をもとに記録を漁る。

 茶髪に灰赤の瞳。長身の少年だった。やんちゃな性格で、処方された薬を苦くてまずいから飲まないと言い張って、勝手に外に出て元気な子とサッカーをする、そんな子。

 僕ではなくセレーネーが担当していて、いつも他の部屋の患者を見ているすきに逃げて困っていると言っていた気がする。 

 他のベッドは、どうだろうか。

 その隣に置かれたベッドは、カイ、と書かれている。黒い髪にこげ茶の目。大人しい人だったはずだ。目が良くなく、電子ではなく紙の本を好んだ人。歳は入院時が十八で、最後は二十三だった。幼い子に読み聞かせもしてくれていた、面倒見のいい人。

 部屋の端に置かれた医療用ワゴンには、小さな薬ケースが置かれたままになっている。

 カプセル剤のそれは、鎮痛作用を有するもので、この病棟のほとんどの人に処方されていた薬だ。

「あ」

 つるりと滑り、薬は床へと落ちる。ワゴンに戻し損ねた薬を拾い、ワゴンへと戻して顔をあげる。

 まだ早朝だったはずなのに、窓から日が差し込んでいる。それどころか、全体的に綺麗だ。

『おはよう、テール』

 銀色の医療用ワゴンを引いて、セレーネーが向かってくる。

『昨日のうちにやるべきことは終わったから、今日は私、テールの手伝いするね』

「了解しました。本日は二階をメインに通常業務があります」

 セレーネーの瞳に映るのは、白いシャツを着た、青い髪の少年。テールだ。

「私は食事の支度および配布を行いますので、セレーネーは薬をお願いします」

 自分の引いていたカートから小分けされたプラスチックケースを取り出し、セレーネーへと手渡す。

 にこりと微笑んでセレーネーは受け取ると、頑張りましょうね、と頭を撫でた。

 これは、また記録が流れているようだ。

『わー、セレーネーだ。一昨日ぶりだねぇ』

 静かに病室の扉が開く。声の方には、ウェーブがかった髪を後ろで一つに括った、大人しそうな女性の姿がある。

『あら。おはよう、ザフォラ。今日はよく眠れた?』

『眠れたよ。でも、ちょっと関節が痛いかも』

『先生に伝えておくわ。今日はこれとこれ、食事の後に飲んでおいてね』

『ありがとう。よろしくね』

 ザフォラは薬を受け取ると、自分のベッドへと戻っていく。そのまま中に入って食事を配膳し、セレーネーは薬を配っていく。

 ここにはまだ、カルロスもカイもいた。

『おはよう、テール、セレーネー。今日もありがとう』

『うげぇ、今日の薬粉じゃんかよー』

 律儀に毎日お礼を言うカイに、配られた薬に嫌そうにしながら、行儀よくパンを口に運ぶカルロス。

『ねぇテール、これあげるわ』

「これを、私に?」

 ザフォラから渡されたのは黒いひざ下の靴下とソックスガーターだった。

『この前先生から端切れをもらったから、靴下を作ってみたの。それでね、ソックスガーターは私が持ってたものなんだけど、もう私は使わないでしょう? ずっとしまうことになってしまうし、それはもったいないから、きっと似合うテールに使ってもらおうと思って』

『いいじゃない。私達、革靴履いているのに靴下は履いていないし』

『替えがなくてごめんなさいね。でも時間はたっぷりあるから、絶対作るわ。セレーネーの分もね』

 ザフォラは朗らかに微笑んだ。

 穏やかな空気が流れる病室は、明るくて、賑やかだ。

 しかし、その穏やかな空気は別の部屋から聞こえた警告音によって途切れる。

「セレーネー、コンラートを呼んできてください。二〇一にて呼び出しです」

 警告音が鳴るときは、誰かの状態が悪くなった時だ。

 すぐにセレーネーは部屋から出て、コンラートの元へと向かう。セレーネーの引いていたワゴンから薬を自身のワゴンに移す。

 この部屋の三人も落ち着いて食事を続けている。いつものことなのだ。

 病室から廊下に出て、道中別室の患者に食事と薬を配布しながら呼び出しのあった部屋へと向かう。

 二〇一室へと入ると、一番奥のベッドで苦しそうにせき込んでいる女性がいる。

「……オリビア」

 同室の患者を別室に移動させる指示を自立式ロボットに打ち込んで移動させる。

 移動中にオリビアに近づき、背を擦る。

「こちらを」

 水と薬を飲ませる。少しすれば咳は落ち着き、そのままベッドに横たわり浅い呼吸を零す。

 一時的な処理を終えると、コンラートとセレーネーが到着した。

 セレーネーに指示を出しながらコンラートは患者の容体を診ている。悔しそうに彼の顔が歪むのが見えた。

 それを、何ともなく見ている自分の姿が、窓ガラスに映って見えた。

 そういえば、ここにいた彼らの最後を僕は知らない。セレーネーは埋葬したと言っていたはずだ。

 壁紙は剥がれ落ち、ひび割れた窓に錆びついたベットを尻目に、自室へと足を進めた。

 部屋に戻ってもまだセレーネーたちは眠っていた。行きたいところはあるものの急ぎではない。たまにはゆっくりするのもありだろう。

 先ほど流れ出た記録の整理をしようと、ベッドに腰掛けて目を閉じた。

「おはよう、テール。充電しないままスリープするなんて珍しい事もあるのね」

 声に目を開ければ、東の窓から陽の光が差し込んでいる。

「あれ、朝、ですか?」

「そうよ? あら、寝ぼけてる?」

 可愛いわ、とセレーネーが言っているのを聞き流す。丸一日寝ていたのだろうか。時間を確認、したところで分かるものはない。そもそも、機体の電波時計はいつの間にか壊われているし、電波がそもそもないせいで正しい時間が分からないのだ。

「……シャシーは?」

「シャシーならあそこ。食べながら寝てるわ」

 乾パンを食べながら寝ている。顔は嫌そうで、本当に不味いのだろう。

「うーん、今日はどうしようか? 美味しいご飯でも探しに行く?」

「セレーネー。僕行きたいところがあるんです」

 どうしたの? と僕の顔を覗き込む。

「セレーネーは患者の埋葬をしたって言ってましたよね」

「? ええ。遺体をそのままに置いておくわけにはいかないし、私達の仕事だったもの」

「はい、そうです。そのあたりは思い出せています。それで、僕も埋葬地に行きたいんです。それに、そのあたりに部品も落ちているかもしれませんし」

 駄目ですか、とセレーネーを見上げると、一瞬目を見開き、顔を押さえて俯いた。

「……セレーネー?」

「……ずるいわ」

 え、と思った瞬間、彼女は顔をあげた。

「いいに決まってるじゃない! もう、どこで覚えてきたのその顔?!」

 頬を赤く染めたセレーネーの大きな声でシャシーが飛び起きる。

「なに?!」

「何でもないわ。行きましょう今すぐに」

 頬の赤をすぐに引っ込めて腕を引いて立ち上がる。セレーネーはシャシーを抱き上げると僕の頭にのせた。

「ここからすぐよ。少しだけ歩くけど、こうすれば何も問題はないわね」

 食べかけの缶を頭上のシャシーに持たせると、籠を持って部屋を後にした。

 病院横の、少し丘になった場所を進む。進むにつれて花が咲き、風に揺られている。

「どこ行くの?」

「お墓よ」

「おはかぁ?」

「亡くなった人の眠る場所ね」

「ふぅん」

 分かってなさそうな返事が聞こえる。

「ここらへんで花でも摘んでおこうか?」

「そうですね」

 満開の白い花や、桃色の花を摘んで籠に入れる。いっぱいになれば、後は目的地に向かうだけだ。

 木で縁取られた道を進むと、鉄柵で囲われた場所が見えてくる。

「覚えてる? ここが埋葬地ね」

 柵の中には、茶色い土で覆われた地面がある。

 等間隔に長方形の石や丸石が置かれている場所が奥にあり。手前には一本の木が植えられ、木にはシャベルが立てかけられている。

「ここ広いねぇ」

 のんきな声が頭上から聞こえた。

「ここは埋葬するためだけの場所だからね」

「なんか寂しいところだね。周りは花が咲いててカラフルなのに、ここってモノクロって言うかさ~。ボクもっとカラフルなのがいいなぁ」

「そうねぇ。ここに花を植えるのもいいかもしれないわね」

 

 持って来ていた花を供えて、目を閉じる。

 風の音が聞こえる。風に揺れた花たちの匂いが香る。

「この花はアルストロメリアかしら?」

「ふーん。花って名前あるんだ」

「あるわよ~」

 

 じゃあこれは? と皿に説明を求めているシャシーをセレーネーに預けて、柵の中に足を踏み入れる。

 奥に置かれた石には名前が刻まれている。見覚えのある名前やあまりないもの、全く記録にないものもある。

 タルフェのものがあった。自分たちを作った人。どうして亡くなったのかは知らない。

 隣の石はタルフェの奥さんだろうか。

「……あ、あれ見て! あの木に、引っかかってるの、ボクの船の部品でしょ」

「うーん? あ、本当ね。今まで見つけたものよりは小さいのね。一人で行ける?」

「行けるに決まってるだろ? なんたってボクだもんね~」

 

 木の方へ歩みを進めれば、墓標が刺さっていた。

 その木に結ばれていたのは、白色のリボンだ。

 このリボンは、ミーナのもの、で。

 柵の向こうに行こうとしているのを止めて、病院まで帰ったあの日。他の患者の容態が悪くなって、すぐにそちらの処置に映ってしまったせいで、ミーナとゆっくり話すことが出来なかった。

 あの日、彼女が柵の向こうに行けば楽になれると考えたのは、体の調子が悪かったからだったのだ。

 横になっているもの辛くて、歩いて気を紛らわせて。それでも、僕に会ったら病室に戻ると決心してくれた。

 そんな健気で優しい彼女が亡くなったのは、すぐのことだ。

 持つはずだった。処方した薬は間違っていないはずだった。少なくとも、二年は安心していられるはずだったのだ。

 

「……?」

 目が痛い。目じりに触れるが、指に何かが付く事は無い。この感覚は何だろうか。ミーナを想うこの記録は誰のものか。

 僕は、テールのはずだ。また見えたこの記録はコンラートのものではないか? では、僕とは何なのか。どうして、医者の記録が残っているのだろうか。

「……テール?」

 声に振り返ると、セレーネーが心配そうに僕を見ている。

「どうしたの? なんだか、悲しそう? いえ、悔しそう、かしら」

「……ここには、カイやカルロス、ザフォラもいるのですか?」

「ええ。ここにしか埋葬する場所ないもの。……でも、たしかカルロスをここに埋葬したのはあなたじゃなかったかしら」

「……そう、でしたか」

 もう一度、供えた花の前で膝を地面へと付ける。指を組んで、深く目を閉じた。

 安息を願う、それしか今の僕には出来ない。

 しばらくして目を開けた。陽の光が眩しくて、数度瞬きを繰り返す。

「セレーネー、どうかしましたか?」

 しっかりとした視界の先で自分を見下ろす彼女の目は僕を見ているようで見ていない。

「……ううん。何にもないよ。テールこそひどい顏よ。今日はもう休みましょう」

「そう、ですね。ありがとうございます、セレーネー」

 頭の上に戻ってきたシャシーは何も言わない。ふわふわな足が、弱弱しく僕の頭を撫でていた。

 今日は少しだけ自分について分かった気がする。減った分の充電をしながら、思考の海に浸る。

 復元された記録は僕のものではなかった。けれど、僕がそれを僕として理解できるという事は。それはつまり、あの記録は僕のものという事で。

 あそこにいる、患者たちは。助けられなかった命だ。看取ることしかできなかった命。看取ることすらできなかった命。

 僕には、彼らを治す知識も、性能も備わっていない。あくまで僕の仕事は簡易的な経過観察と、環境整備。患者に直接的な治療などは出来ないのだ。そう、作られているから。

 それでも、頭のどこか、機体のどこかで、「もっと技術と知識があれば」と思う声がある。

 復元された記録に蓋をする。きっと、完全に理解するのは今ではなくてもいい。もう少しだけ、自分に余裕が出来るまで。

 きつく目を閉じる。いつもならすぐにスリープモードになるのに、今日だけは全くなってくれなかった。

***

 膝を汚して墓に祈りをささげるテールの姿は、どうしても分からなかった。

 私は彼の真似をして、地面に膝をついて指を組んで、目を閉じる。

 確かに、病気で苦しんでいる彼らは可哀想で痛ましかった。亡くなってしまった時は何もしてあげられなくてもどかしかった。けれど、私達にはどうしようもなかったのだ。あくまで医療の補助として作られた私に治療などの知識も技術もない。症状を緩和することも、治すこともできない。そういうものだと、割り切って考えてしまっている。

 それは、どこまで行っても私達が作りものである証明だった。だったはずだ。でもそれは今、変わってしまった。……テールの中にある、あいつのせいで。

 ここの土は、人体の分解を促す成分が置く配合されている。人の遺体は堆肥になるのだ。より栄養のある土に還って、豊かな自然を生み出す。木の葉が落ちて土に還るのと同じ。そうしたのは、あいつだった。だから、きっとテールにこれは、良くない。

 こんなに悲しそうに、悔しそうに顔を歪ませて墓を見ている彼が、私には分からない。

 ……前の貴方は誰かが亡くなってもそんなに落ち込んだりしなかった。

 私も同じ。淡々と処理をしていた。だって、どこまで行っても私達はアンドロイドであって人間ではない。機械なのだ。しかし今の彼は。決して、私と同じではない。

 私はきっと、テールが望んでいるものを与えることはできない。私が立ち上がっても未だ祈りをささげる彼は、きっと記録を復元しようとしているはずだ。けれど私は、それに答えるわけにはいかない。

「セレーネー、どうかしましたか?」

 そう言って私を見上げるのは、私を心配している優しい表情。今ここにいるあなたは、私の知るテールではない。けれど、仕事に丁寧で、否定をしない。そんなところは私の知っているテールなのだ。

「ううん。何にもないよ。テールこそひどい顏。今日はもう休みましょう」

 そう言って手を差し出せば、一瞬躊躇った後に手を取る。私を見るその目は、少しだけ揺れていた。

「そう、ですね。ありがとうございます、セレーネー」

 たとえあなたが私の知るテールでないとしても、この気持ちは変わらない。私はテールが大切で、守るべきものだ。

 もうこれ以上、テールのなかのあいつが出てくる事が無ければいい。

 私には、テールがいればいいのだ。

 

 スリープしている彼の髪を撫で、結ってある髪を持ち上げる。青色の細く滑らかな髪は、水のように私の手からするりと流れ落ちた。

  6 

 瞼に陽の光があたって目が覚める。カーテンの隙間からこぼれた朝日が機体を照らす。

 腕に繋がったままのコードを引き抜いて、時間をかけて立ち上がった。何となく、体が重いような感覚。

 久々に、シャシーに草をあげよう。思い立ったが吉日。音をたてないように部屋を出て階段を降りて、自動じゃない自動ドアを無理矢理こじ開ける。

 青々と茂った何の種類かも分からない葉の長い草を引き抜く。意外と力を入れないとうまく抜けなくて、途中で千切れてしまうのがまた手の使い方に気を遣うので鈍ったこの身にはとてもいい訓練だ。

 持ってきた籠がいっぱいになってきたからそろそろ切り上げようか、なんて考えているとまっすぐ落ちてきていた日に影が出来た。

「セレーネー。おはようございます」

 振り向けば、予想通りセレーネーが立っている。僕がそう言うと、彼女の目はまっすぐに僕を捕らえた。

「今度から一人でどこかに行く時は私に一言、言ってからにしてね。部屋にいなくてびっくりしちゃったから」

 美しいクリーム色の髪が風に揺られる。彼女は弱弱しい声色でそう言った。

「……はい。そうしますね」

「それで、何をしていたの?」

「シャシーの食事を、と思いまして。缶や保存食をあげても、とても不味そうな顔をするでしょう? 最近はその美味しくないものしか食べてなかったですから、シャシーのお気に入りのご飯にしてあげようと思ったんです」

 引っこ抜いた草を見せる。齧ったあとがあるのをみて、セレーネーは笑みをこぼした。

「ええ、とてもいい案ね。私も協力するわ」

 籠からあふれるほど積んで、部屋へと戻る。ベッドの上では幸せそうにシャシーが眠っていた。

「起きて、シャシー!」

「んんうあ~」

「もう。部品揃ったか確認して、船直すんでしょう? 早く起きてってば」

 セレーネーに揺すられても起きようとしないシャシーの目の前に、採れたての雑草を揺らす。

「これ、今起きなかったらあげないんだからね」

「はい起きたから食べるね~」

 飛びついて、もう口に入れながらシャシーは声に出している。意地汚いというかなんというか。

「ってあら。もう草以外の食べ物がほとんどないのね。シャシーが大食いなのか、それとも……」

「え、ボク大食いなの? まあ、よく食べれば成長するし、良い事だよね!」

 中身の減った籠を見つめ、セレーネーはため息をつく。

「……あ」

 そういえば、と顔をあげる。

「じゃあ僕、冷蔵庫見てきます。まだ食べられそうなものがあるかもしれない」

「え? ……ええ分かったわ。なかったらこの場所に帰って来てね」

「はい」

 セレーネーと別れ、廊下へと出る。目覚めてすぐに、シャシーのご飯探しで入ったあの何となく慣れた空気感のあったあの部屋は、おそらくコンラートの部屋だ。

 そこに行けばまた何か分かるかもしれないと、一人で足早に向かう。

 

 到着してすぐに冷蔵庫を開ける。この前置いて行った食材がまだ入っていた。

 それを抱えて立ち上がって部屋を後にしようとして、思い出す。確か、この部屋を出た先、階段があってまだ下に行けたはずだ。

 医者の部屋の隣にあった地下へ続く階段。降りていくと、そこには大きな両開きの扉の先、一部屋があった。

 鍵などはなく、壊れている様子もない。取っ手を握り、引けば簡単に開く。

 一気に冷えた空気があたりを包む。そして、その先に。様々な機械に繋がれた、医療用ベッドが一つ。

 青白い顔をして横たわる、濃藍色の髪の青年。

「……コンラート」

 彼の頭や首にはチューブが何本も刺さっている。そのコードは大きな画面の付いた機械へと繋がっている。画面には何も映っていない。

 これは、ここで横たわっている青年は、コンラートだ。この病院最後の医者の、はずだ。

 頬に手を当てる。温かみなどどこにもない。冷え切った人の肌がそこにある。

 手を放そうとした瞬間、声が聞こえた。

 ***

 

『テール、そこの部品を取ってくれる?』

 記録が電子の引き出しから溢れ出すこの感覚にも慣れ始めてきた。無理に意識を動かさず、流れ出るそれを受け止める。

 

 僕の名を呼ぶこの声は、セレーネーのものではない。やけに甘ったるい女の声。僕らに人工知能や機械学習の技術を取り入れて、自律型へと改造した人物、エマの声だ。

 自分が差し出した部品は袋にたくさん詰められた螺子のようなもの。

『ありがと。……あなた愛想がないわね。もうちょっといじった方がいいかしら』

 じっとこちらを見る。化粧気のない、飾られていない顔が近づけられて、ゴム手袋を付けた手は機体に触れた。

『……まぁ、顔はいいのよね。顔の造形まで変えるってなると時間も素材もないし、そのままでもまあいいわよね』

 くるりと背を向けて彼女はもともと取り組んでいた作業を再開する。

 

 これはいつ頃の記録だろうか。改良されてすぐの頃だろうか。

『ねぇテール。貴方、今日はここじゃなくて患者の様子を見てきたら? 私じゃ病人を見てあげられないもの。それに、患者と触れ合えばより学習が進んで彼に近づけると思うわ』

「分かりました」

 自分の声で、抑揚なく再生される返事。自分はこんなにも無機質だっただろうか。

『不愛想ね……まぁいいわ。空っぽの方が受け皿にはちょうどいいでしょうし』

 エマに背中を押されて部屋を追い出される。白い廊下は今より綺麗で、清掃ロボットが懸命に床を磨いていた。

『おめでとう。あなたは明日、人間になるの』

 椅子に座った状態で起動させられて、目を開く。視線の先には赤茶の髪を高い位置で結いあげ、白衣に身を包んだエマが、真っ白な病室でこちらを見ている。

 彼女がゆっくりと、けれど多少強引に頭を撫でた。

「私が、人間に」

『そうよ』

 関節や目の状態を確認しながら、彼女は続ける。

『うん、最終確認も異常なし、と』

 初めて見る、自身に向けられた慈愛の瞳が、僕の目を貫いている。それなのに、僕は電源ボタンに伸びる彼女の腕を視界にとらえて、すぐに瞼を下ろす。

『……おやすみなさい』

 首の後ろに彼女の手が回り、カチ、と。軽い音と共に電源が落ちた。その声色は普段とは違い、とても優しくて柔らかかった。

 ノイズと共に視界は明転し、目の前にはセレーネーとエマがいる。エマは溢れんばかりの笑顔を向けている。

『コンラート! 分かる? 私が、貴方が分かる?』

 ゆっくりと、あたりを見回すように視界が動く。そして、しっかりと目の前の人物を捕らえた。

「エマ」

 発された音に手で口を覆う。

——なんだ? 

口元の手を視線の先に持ち上げて見れば、そこにあるのは柔らかいのに違う見た目の手。これは、人間のものではない。

「……なんで」

『覚えてる? あなた、倒れたの。ついに声をかけても目が覚めなくなっちゃって。でもね、脳は、ちゃんと生きていたの。だから私頑張ったのよ。貴方が、貴方に戻れるように』

 ね、頑張ったでしょう? と。エマが、言う。

 この体なら、なんだってできるわ。まずあなたが言っていた患者に触れることでしょ? と嬉しそうに弾んだ声色でエマは話している。

 まだ何か説明をしていたけれどまったく頭に入ってこない。

 俯くと、肩からするりと流れ落ちる何か。それは、青色の糸。髪の毛だ。

 この施設に、こんなに明るい青の髪なんて一人しかいない。

 なにが、起きている?

『コンラート?』

「これは、なんで」

 指を動かして、足に触れて。

『混乱しているのね? 大丈夫よ、コンラート。すぐに慣れるわ』

 エマが肩を掴んで、しゃがみ込む。視線が僕より下になった。

「これって、テール、だよね」

『ええそうよ。あの機体を使用したの。男性体だし、セレーネーよりは抵抗がないんじゃないかって思って』

 顔をあげれば、彼女の後ろで無表情に立っているセレーネーがいる。彼女は僕を見ているようで、見ていないような。確かに視線はこちらに向いているのに。

『どう、立てそう? 話すことも腕を動かすこともできているから、特に問題はないと思うんだけど』

「どうして僕を、テールにいれようなんて思ったの」

『え? だって、ずっと言ってたじゃない。ちゃんと患者を診てあげたいって。その体ならもう病気とか関係ないんだよ。やりたいこと全部できるよ。それに、この場所にはまだ医者が必要でしょ?』

 それに、私は——

 彼女が続ける言葉を遮るように、音をたてて立ち上がる。

『どうしたの?』

「ごめん、エマ。僕は——

 

 ノイズが走る。自身が何を言っているのか分からない。視界が歪み、空間すら認識できない。

ぐにゃりと歪んだ空間で、僕の意識だけが立っている。

 時間をかけて戻った空間の先で、エマが微笑んだまま、けれど悔しそうに泣いていた。

「……あなた(テール)って、そんな顔もできたのね」

 その顔は、コンラートじゃないわ。

 そう、言った彼女の。エマの頭上に、椅子が振り下ろされて。

 強い打撃音に温い温度と共に視界が暗闇に奪われた。


 ***

 ——気が付けば、目の前にはベッドと、顔色を失った青年が横たわっている、変わらない光景だった。一瞬見えたあの色は、何、だったのだろうか。

「それ、綺麗よね。……中身のない抜け殻なのに」

「セレー、ネー」

 床に影が伸びる。扉の向こう、セレーネーが立っている。

「戻ろう、テール。ここは寒いでしょう?」

「……僕、は」

 僕は何ですか、エマがどうなったんですか、と聞きたかったけれど。

「テール。……駄目よ」

 有無を言わせない声色で、セレーネーが告げる。

「駄目。こんなところにいたら、いくら作り物の私達でも体に支障が出ちゃう。だから戻りましょう、テール。それに、そろそろシャシーのご飯の時間よ」

 コンラートに触れていた僕の手を掴んで、セレーネーは部屋を後にする。体は引かれるまま部屋を出て行くのに、目だけはコンラートから離せずにいた。温い温度が、頭にこびりつくいる。

 彼は、あれは、僕、なのだろうか?

「あ、やっと戻ってき、た?」

「ええ、戻ったわ! テールもつれてきたの。あとこれ、壊れた窓から入って来てた草!」

 シャシーの船が落ちてきた場所へ二人は移動していたようで、セレーネーに連れてこられたのは元居た病室ではなかった。

 到着したのにもかかわらず、セレーネーは僕の手を掴んだまま離さない。

 僕とセレーネーを交互に何度か見て、シャシーは難しそうに顔をしかめ、絞り出すように感謝の言葉を紡ぐ。

「……ありがとう」

 そんなお礼の言葉に、どういたしまして、と笑顔でセレーネーは答えると、ようやく手を離し僕を置いてシャシーの機体へと歩いていく。

 取り残された僕の頭に慎重に乗ったシャシーが頭を叩いた。

「……ねぇ、なんかあったの?」

「そうですね、すみません」

「ボクに謝られても……。なに、君が何かしたの?」

 僕がしてしまったと言えばそうだし、違うと言えば違うし、そもそもなぜあんなに怒っているのかも分かっていない気がする。

 黙っているのが言いたくないと取られたのか、シャシーはいつもより高い声でわざとらしく高笑いをした。

「はーっははは! ボクには丸分かりだよ。こういうのはね、さっさと謝ったもん勝ちなんだぜ」

「謝る……?」

「何があったか分かんないけど、謝っとけば解決するよ。ボクが保証しよう」

 叩くでもなく、シャシーは頭を撫でてくる。子供をあやすように、優しく、暖かい手だった。

「ねぇシャシー、ここ穴開いてるわよ?」

「え、どこ~?」

 セレーネーの言葉に、シャシーは頭の上から離れていく。

 ふよふよと浮かびながらセレーネーの所へと移動していく後姿を見る。

 この船が完成すれば、シャシーはここを去るだろう。彼がいなくなったら、僕はこの場所にセレーネーと二人きりになる。

 目が覚めたときも、そうだったはずなのに。元気で活発なシャシーがいなくなったら、僕はセレーネーとどう接すればいいのだろうか。会話は、どんなことをしていただろうか。

 以前の僕は、どんなことをしていたんだろうか。

 分かるようでわからない自分に、嫌気がさした。

 思考を整理して、顔をあげる。シャシーの船を直す手助けをしよう。何かをしていれば、気も紛れるというものだ。

***

 穴の開いた部分を直し終えると、もう空は暗くなり始めていた。テールを先に私達の部屋の病室に戻して、シャシーを抱き上げる。

「今日はここまでにして、帰りましょう。寝ないと、明日作業できなくなっちゃうわよ」

「あぁー、そうだね。もう眠たいから、ボクも帰ろうっと」

 満足そうに腕の中でそう言うと、うまく身を捻って私の腕から抜け出してしまう。

「ねぇ、テールはなにをしたの?」

 至極真面目な表情で私を見つめる。粒らでまっすぐな瞳は、私を捕らえて離さない。

「さっきは二人ともちょっとなんか変だったよ」

「そう? 特に何もなかったけれど」

「何もないならああはならないよ。どうしたの?」

 珍しくきりっとした表情でシャシーは私を見ている。普段は見かけない表情なだけに、真面目な話をしているのになんだかおもしろくなってきてしまった。

「ふふ、本当に何もないのよ。テールが悪いことをしたわけでも、私が何かしたわけでもないの」

「本当に? ならなんであんなに空気悪かったのさ」

「そうかしら?」

「そうだよ」

 はぐらかしても無駄だよ、とシャシーは言う。

 はぐらかしているつもりはないし、言いたくないわけでもないけれど、シャシーに行ったところで解決するわけでもない。どう返すのがいいだろうか。

 うーん、と悩んでみて、話を逸らすことにした。

「ありがとうね、シャシー」

「何が?」

「あなたのお陰で、テールがよく笑うの」

元々テールは表情が豊かな方ではない。私たちは患者と接するのもあるため、笑顔が作れる。心身ともにまいっている患者に暗い表情はよくないからだ。

私より作り笑顔が苦手だったテール。そのぎこちない笑顔が可愛らしかったのをよく憶えている。

今は、とても自然に笑っている。シャシーのお陰かもしれない。

「フフン。まぁねぇ! ボクかわいいし、笑顔になっちゃうよね!」

  得意気にシャシーは笑う。上手く流されてくれたようだ。

「えぇ、本当に」

「……でもさ、テールってボクをみて笑顔になってるんじゃないよ」

「え?」

「セレーネーだよ。セレーネーが笑うから、笑ってるんだ」

 私? と口からそれだけが零れ落ちる。

「そう。……ボクとの会話で何か面白い事とかあって笑ってるのもあるんだろうけど、一番笑顔なのはセレーネーといるときだもん」

 だから、笑顔じゃないのはつまらない。

 流したつもりだったのに、シャシーは巧みに元の話題に戻してしまう。このしろいもこもこは、案外知能が高いのではないだろうか。

 ずっと、可愛らしいものとしてしか受け取らず考えていなかった。

 害をなせる様子もなく、なそうとする様子もない。だから全く彼について警戒したり考えたりはしてこなかった。

 ただ可愛いだけではないと、私は思い知る。

「だからさ、ボクと約束してよ」

「約束?」

「そう。ボクがいなくなった後でもいいからさ、テールとちゃんとお話しするって。話さないとなんにもわかんないよ」

 シャシーは真っ直ぐに言葉を重ねて言う。それもそうだ。人間は会話をすることで意思疎通を図っていた。それは、人を模して造られた私とテールだって、人の真似事だとしてもそうしなくては意思の疎通などできないという事で。

「……あなたって可愛いだけじゃないのね」

「なんだと思ってたのさ!」

「ふふふ、分かった。テールとお話しするわ。でもそうね、長い話になるから、貴方を送り出してからじっくり時間をかけて、ね」

「……ほんとかなぁ。まぁいいよ。セレーネーは約束守るもんね」

 ほら、眠いから帰る、と先ほどまでの格好いい姿はどこへやら、可愛らしいいつものシャシーの様子に戻ってしまった。

「ほら、抱えて行ってあげる」

 墜落気味に浮かぶシャシーを抱え上げ、部屋へと戻ることにした。

  7 

 あれから何日もかけて、シャシーは自身の船を直し終えたようだ。キラキラと輝かせた瞳で僕らの元までやってくると、完成したんだ、と大喜びで教えてに来てくれた。

 

 僕がスリープから目覚めた日、ものすごい音と揺れをもたらしたシャシーが墜落してきた場所。下敷きになって潰れた家には割れたガラスに守られた写真がある。

「ついに、ボクが仕事に復帰だ~!」

 壊した家の側に置かれたシャシーの船は、完成しても見た目はおもちゃのようなロケットだった。ロケットの隙間には大量に草が詰め込まれている。

「……いやぁ~長かった!」

 偉そうにシャシーは短い脚を伸ばしてロケットを撫でる。ロケットの修理をたまに見に行ったりしたけれど、シャシーが何かする様子はなく、自由気ままに動く部品を叱り、はやくくっつけ、と怒っている姿しか見ていない。なんでそんなに偉そうにしているのだろう。

「ボクだけじゃ見つけられなかったよ。二人ともありがとうね!」

「そうですね。見つけられてよかったです」

 偉そうとはいえ、礼儀は忘れていないようだ。感謝の言葉に頷いて返すと、セレーネーもシャシーへと微笑んで「そうね」と言った。

 すると、何を思ったのかシャシーは僕の頭ではなくセレーネーへと寄っていくと、彼女の前で止まる。

「セレーネー、ボクとの約束、覚えてる?」

「……覚えているわ」

 小さな、声だった。

 目を閉じて、セレーネーはしっかりとシャシーを見つめて、もう一度告げる。今度ははっきり、微笑んで口を開く。

「ちゃんと、覚えているわ」

 その顔を見たシャシーは満足げに「よかった」と告げて、ぐるりと僕の方を向いて、頭の上に乗る。

「ふふん。君との勝負、ボクの勝ちだね」

「……勝負?」

「え、忘れたの? ボクの船が直るのが早いか、君の記憶が戻るのが早いか勝負してたでしょ」

 そうだった。つい、いろいろあって忘れてしまっていたけれど、どちらが早いか、で勝負をしていた気がする。

「あー、忘れてたんだぁ?」

 柔らかい足で僕の頭を三度叩く。余裕そうなシャシーを掴んで、目の前に持ってくる。

「……でも、シャシー。僕の記録も大部分が戻ったんですよ」

「そうなの? じゃあ引き分けだね」

 よくできました、と言ってシャシーは微笑んだ。

「じゃあ、ボクはそろそろ出発しようかなぁ。ここには随分と長居しちゃった」

「本当に行ってしまうの? ここにずっといてもいいのよ」

「急に引き留めてくるじゃん。ボク、仕事の途中なんだよ、これでも」

 名残惜しそうにセレーネーはシャシーを抱きしめる。

「そうよね。仕事の放棄は出来ないわ」

 でももうちょっと……、とさらにシャシーを抱きしめてから、そっと手を離す。

「満足した?」

「……ええ。とっても」

「ならよかった」

 短い足で、セレーネーの手をなぞる。その足はすぐに離れて、船へと進んでいく。

 搭乗口から乗り込んで、姿が視界から消える。ごとごとと何かをいじる物音がして、船に青い輪っかが浮いた。それは普段シャシーの頭上に浮いているものと同じだろうか。

 サイズは普段の何倍もの大きさになっている。青い輪っかは、天使の輪、のようだと思った。

 それは船を浮かせて、ついに地面からゆっくりと離れていく。

 セレーネーは浮いた船に手を伸ばして、すぐに引っ込めている。僕は、それを見ているだけだ。

 寂しい、とは思う。けれど、もともと別れしかない生活だった。だから失うことになれてしまっているのかもしれない。

 自分の手を握る。相変わらず機械で、その手は僕を握った患者たちの柔らかさやぬくもりはない。あるのは排熱時の微妙な温さと、つるりとした質感だけ。

「おーい! 二人とも!」

 声につられて顔をあげれば、もう船はだいぶ浮かんでいる。大きいのに、重力など感じさせずに、いったい何を動力にして動いているのかもよく分からない船からシャシーが身を乗り出す。

 頭上には変わらず青色の輪っかが浮いていた。あれが大きくなっていたわけではないようだ。

「あのさ! ボク、ここに来れてよかったよ!」

 高めの声がよく通る。相変わらず真ん丸な目が、しっかりとこちらを見ていた。

「ありがとー! ボクこれでまたお仕事頑張れるよ!」

 手を振れば、シャシーは満足そうに中へと引っ込んだ。セレーネーはただ静かに、遠ざかる船を見ている。

つられてまた視界を空に戻せば、空高く消えていく機体は、光を反射して輝いた。そしてそのうち、一点の光になって、青空に飲み込まれて消える。

目覚めてからの怒涛の日々の中で、当たり前にいた存在が抜け落ちる感覚は、いくら別れの記録が沢山あれど、慣れるものではないようだ。

静まり返った瓦礫の側に、軽風が吹いた。

 シャシーを見送って、二人きりになって。

「うーん、先延ばししても何にもならないものね」

 

「テール。私、貴方と話したいことがあるの」

 ゆっくり、単語を区切るようにセレーネーが告げる。黄色い瞳が、不安げに揺れた。

「……はい」

 なんの話、なんて聞かなくても分かる。あの日からぎくしゃくしたままの僕たちが話す事なんて、一つしかない。

 会話もないままに僕たちの部屋に戻る。いつもなら疲れなんて感じないこの体も、ちょっとだけ歩みを進めるのが重たくて遅くなっている気がする。

セレーネーはベッドに腰を下ろし、向かい合うように僕もベッドに座る。

 彼女は何も言わないで、ただ地面を見つめていた。

 なにも言い出せずにいると、数分の沈黙をセレーネーが破る。

「私、ずっと気が付かないように、指摘しないようにしようって思ってた」

 ぽつりと彼女の口からこぼれたのはそんな独り言のような言葉だった。

「でも、だんだんあなたはどうしようもなく、私の知っているテールじゃなくなっていくの。起きたときからあった小さな違和感が、だんだん大きくなっていって」

 何か返そうと口を開いても、何も出てこない。

「あなたはエマによってコンラートの人格移送が行われている。……ねぇテール。貴方は、コンラートなの?」

 泣きたくなるほど美しい、月を模した物言わぬ眼が僕を見ている。

 彼女(セレーネー)はアンドロイドである。ここで働いていた最後の医者(コンラート)の記憶と感情を知る僕とは違い、真っ当な一つのアンドロイド。

 そんな彼女の目は、ただ、静かに僕を見つめている。

 ぐっと喉に力を入れて、声を発する。

「僕、は……。おそらく、どちらでもないのだと思います」

 セレーネーは何も言わない。

 微笑むことも、怒ることもなく、ただそこにあるだけ。

「テールとしての記憶も、コンラートの記憶も、あるんです。そしてそのどれもが、僕にとっては記録でしかない。でも、そのどちらも他人ではなく、僕である、とも感じている」

 理解できる情報を、言語化して言葉にしていく。

「セレーネーは、どうして」

 ……視界が狭まる。それでも必死に目を開いて現状を見つめて、言葉を紡ぐ。

「どうして僕が起きるのを待っていたんですか」

 (テール)は知っていた。自分は人間の、コンラートの代わりになるための事前準備として高性能AI(人格学習能力)を入れられたのだと。

 テールがコンラートを受け入れた時点で、今までのテールはそう言うものとして受け止めて消えているし、コンラートはコンラートとしてこの機体で生きていくことを認めなかったから、コンラートの自我も残っていない。

 ぐちゃぐちゃになって震えた声に、喉を押さえた。

「セレーネーにとっての僕、テールは、エマがコンラートを入れたときにいなくなっていたはずです。テールはスリープしたんじゃなくて、処理落ちをしたんです。つまり、情報に耐えられなかったわけです。そんなの、次に運よく起動したとして、それはテールでもコンラートでもない、別の何かかも知れなかったじゃないですか。なのに、どうして僕が起きるのを待っていたんですか」

 実際に、目覚めたのはコンラートの記憶も、テールの記録も持つ歪で中途半端な僕だった。セレーネーの待っていたテールの、いわば偽物だ。

 頭の奥が痛い。この体はそんなもの感じるはずがない。手で顔を、口を押さえる。吐ける物も機能もないのに、嘔吐感が押し寄せてくる。

 長い沈黙ののちに、金属の擦れる音がする。

「そうね。端的に行ってしまえば、テールが目覚めると思い込んでいたから、なのだけれど。その説明をするとなると、そもそもなんでエマが行った人格移送を見ていたのか。その説明からかしら」

 長い話になるわね、と彼女は言って、充電コードを腕にさした。

「あなたは、私たちがここでまだ働いていたことの記録はどこまで回復しているの?」

「……曖昧に、ですが。少数の患者のことや、役割分担して会話していたことなどは記録が回復しています」

 そう。と呟き微笑んだ。

「じゃあ、忘れていたカルロスを埋葬した時の事は思い出した?」

「……、そうですね。冷たくなった彼を自立型のロボットに病院の外まで運ばせて、最終的に僕が埋葬地に彼のベッドを引いて連れて行きました」

 掘り進めた地面に、彼の亡骸を埋めた。土を被せて、ならして。

 もう今は彼も土の一部となっているのだろうか? 僕らにはなれない、命の循環というやつの一部に彼はなっているのだろうか。

「ですがこうして記録を見ていると、あの頃の(テール)はとても淡白でしたね。セレーネーは患者と深く向き合っていた姿が記録されていますが、貴方と比べても僕はあまりにも関心を持たな過ぎている気がします」

「そこは患者に対する方針が違うからでしょうね。私は患者の精神を。テールは肉体を重視した思考をしていた。テールのほうが緊急時の治療の判断は早かったし、コンラートを呼ぶまでの間、苦しそうな患者やその周囲の子を安心させるのはわたしのほうが得意だったもの」

 役割分担がされていたのよ、とセレーネーは続ける。

「私達は二機で助け合えるように、足りない部分を補い合えるように設計されていたから」

 懐かしむように、彼女は指折り数えながら患者の名前を言った。聞き覚えのある名前から、あまりなじみのない名前まで、たくさんの患者の名前を。

 それだけの人数を僕たちは見送ったのかと思うと、なんだかとても不思議な感覚だった。

 寂しい、とも思う。助けてあげられなかった、とも思う。けれど、人間の寿命はいつか必ず訪れるものだ、とも思う。それが、ちょっとだけ早かっただけかもしれない、なんて。この病棟の患者が入院していた理由は持病なんかじゃないからこんな言い方は間違っている。コンラートは患者に対して謝っていたし、世間を恨んでもいた。

 その理由を僕は細かく知らないけれど、どうしようもなかったことは彼のうっすらとみられた記憶からも分かったことだ。

「でも、エマの改良を受けてからは通常業務に加えて、私達は医者のコンラートと機械技師のエマの仕事のサポートもするようになった」

「そうですね。薬が嫌で逃げだした患者を連れ戻すのもセレーネーが行っていましたもんね」

「触ったら駄目なのに患者を追いかけちゃう医者がいたからよ」

「コンラート自身も、駄目だと分かっていても助けたい気持ちが先行してしまっていたようです。いつもセレーネーが変わりに患者に触れるたびに、自身の無力さを感じていましたから」

 そう言うと彼女は嫌そうに顔をしかめた。あぁ。こういうところが、セレーネーにとってテールではない部分が出ていて嫌な感覚になっているのだろうか。

 コンラートがそう思った、その内容も、その文字そのものも、彼女にとってはテールから出てくる発言ではないのだろう。出てきてほしくはないのだろう。それでもセレーネーは話を続けてくれる。

「……そもそも、私達は自律型だけれど、私達を制作したタルフェはこの機能を搭載していても稼働はしていなかった。この自律機能を稼働させたのはエマよ。エマは自分で判断する、と言う人間的思考を私に先に覚えさせることで人格移送をしても耐えられるようにしたかったんでしょうね」

「……そうですね。その部分に関しては、テールもそう認識しています。そのために作られ、改良されていたのだと」

「認識していた、ね。それって本当に貴方が認識したのかしら。そういうものだというデータを入れられてしまえば、それが正解だと思い込んでいるだけかもしれないわよ」

 棘のある言葉が彼女の口から出てきたことに驚いた。常に優しい物言いのセレーネーがそのように強い言葉を使うなんて、今までどの記録にもなかったからだ。

「……確かにその可能性はあるのだと思います。僕はエマのサポートが通常に加えて行っていた業務ですから、その際に彼女から情報を得ていたのかもしれません」

 でも、と続けようとして、なんて言えばいいのだろうかと考え直す。

 テールはそう言うものとして受け入れていた。それが、本当に彼の判断だと僕に言いきれるだろうか。

「私、テールにコンラートを入れると聞いたとき医者が残る方が患者にはいいと判断したのと同時に、テールがいなくなることに強い恐怖を抱いた。次に、テールにそんなことしようとしてるエマに何故そのような行為をするのかと嫌悪感が沸いた。でも、どこまで行っても私達はアンドロイドだから、人の意思を優先したの。だから私はテールにコンラートの人格移送が行われるのを止めなかった」

 一度言葉を区切って、彼女は目を閉じる。

「でも、目覚めたテールの中のコンラートは、テールの体で生きることを嫌がった。どうしてこんなことをしたんだってエマに問いかけた。コンラートのためだとか、医者が必要だとか、エマの説明を聞いても、医者のコンラートは嫌だって、こんな風になってまで生きていきたくはないって拒絶した。——そこで、私はエマを許せなくなった。衝動的に動いている私を、止められなかった」

 側にあった椅子を掴んで、持ち上げて。

 そうだ。コンラートの人格移送後、最後の記憶は音とただ一つの色だった。

 その色は赤で、音は何かをぶつけた音。

「彼女はどうしたんですか、僕、見てないですよね」

「埋めたわ。患者たちと同じところに。本当はコンラートも埋めようと思ってたんだけど、あまりにも綺麗に保存されてて、触れなかった」

 何もなかったように、セレーネーは話を続ける。そんなところに、自分との違いを感じる。これが、本来のアンドロイドの思考なのだろうか?

「全て終わって、眠っている貴方がいて、私はこれで、貴方を失わなくて済んでよかったって思ったの。生の延長なんていらないってコンラートが最後に言ったから、貴方の中でコンラートは死んだと祈った」

早く起きるように、とテールを変に弄ってしまったら、テールそのものが破損してしまう可能性があったから、彼女はただ残された数人の患者を診ながら待つことしかできなかった。

「起きたとき、テールがテールじゃないなんて考えてなくて。目覚めてからの貴方が私の知るテールじゃないことはすぐに分かったの。だって、テールは自分のことを「僕」なんて言わなかったから。でも、混濁してるだけなんじゃないかって思ってた」

 思いたかった。そう言って膝の上で握られた彼女の手は固く、スカートに皴を作っている。

「でも、やっぱりあなたはテールじゃなくて。……でもね、シャシーや貴方といると、楽しかったの。このまま、何も思い出せないテールなら、昔のテールに戻るかもしれないって思ったりもして」

 私には、テールが必要だったの。理由はもうよく覚えてないけれどね、とセレーネーは告げる。

「作り物の私に、エマの言う事を否定する権利なんてない。あくまで私達は人の仕事の補佐としてつくられ、存在するものであって私達の意見を人に強いることはできない。コンラートにだって私は従うしかなかった。彼は生き残った唯一の医者の癖に、自分の命より患者を優先する愚かな人だった。患者に治療できるのは医者だけなのよ。そう何度言っても聞きやしない。私に対しても人のように接して、何度言っても直してくれなくて。理解できない人だった。……だから、テールにコンラートの人格を入れるなんて、嫌だったの」

 彼女の表情が沈む。

あれ、と思ってしまう。セレーネーが嫌がっているのは、ただ彼女の知るテールを失うことだけではない、という事だろうか。

「テールがいなくなるから、という理由が無くても、セレーネーはコンラートが入るのが嫌だったんですか?」

「ええ。もちろん、テールがいなくなるのが嫌だったって言うのは確かに一番にあるわ。でも次に、コンラートの性格がテールに入るって言うのが嫌だったの」

「そうだったのですか? 僕が見た記憶では、二人はいつも笑顔でした。コンラートから見たセレーネーはいつも笑っていたではないですか」

 セレーネーが人格移送を拒絶する明確な理由が分からない。テールを失いたくなかった、と言う意味は分かる。でも、コンラートを入れられるのが嫌だった、と言うのが分からない。

 セレーネーが患者とコンラートを見ている時、彼女の表情は柔らかなものだった。コンラートの感覚なしに、僕は仲がいいのだと感じていた。コンラートの感覚でも、セレーネーは優しい子だと判断されている。

「私が? それはそう設定されているからでしょう。患者相手に無表情でいてはいけない。いちいち切り替えが面倒だったから常にその設定にしていただけ。エマもコンラートも、どちらも仕事の相手でしかないわ」

「そうでしょうか」

「そうよ。……あぁ、テールは笑顔を作ることはあまりしなかったものね。……テールとコンラートじゃ根本が違うわ。似ている部分があるわけでもない。それに、機械が人間の代わりになるなんて無理なのよ」

 中身をまねたところで、私達は機械で、彼らは人間。その違いを変えることはできない、と彼女は告げる。

「コンラートのことをどうしてそんなにも嫌っているのですか? 僕たちは人間に対して好意を抱く事が無いのと同時に、危険対象にはなっても嫌悪の対象にはならないのではありませんか?」

 ずっと、セレーネーに対して抱えていた違和感がある。

 僕は、ずっとセレーネーが完成された、完璧なアンドロイドだと考えていた。

思考回路も、何もかも。これこそがアンドロイドなんだ、と。

でも、こうして話をして、ふと思ったのだ。

彼女は果たして、完璧なアンドロイド、だったのだろうか。

——『私、テールがいなくなるって理解した時、嫌悪感を抱いたわ』

 ……この言葉、ただのアンドロイドには存在しないものではないだろうか?

 中身も外身も全てが作り物でしかないアンドロイドなのに、セレーネーはテールに対して『愛しい』という感情を、シャシーに対して『寂しい』という感覚を。コンラートに対して『嫌悪感』を抱いて、エマに対して『憎悪』という衝動を起こしてしまった。

 エマに対する行為など、正しくない選択を選んでしまった時点で、セレーネーは指示に沿って動くアンドロイドとして本当に完璧だったのだろうか。

 人にもアンドロイドにも分類できない僕が言えたことではないけれど、彼女もアンドロイドとしては難しい立ち位置にいるのではないだろうか。

 ここまで考えたけれど、これはあくまで彼女の話を聞いて僕が考えただけのものでしかない。悲しい、という感覚を彼女は持っていなかったのかもしれない。

 別れ=悲しい、と入れられた情報から悲しい顔をしていただけなのかもしれないのだから。

 ……でも、シャシーを離れ難そうに抱きしめていたあの様子。あの動作は、本当にプログラミングされていたものなのだろうか?

「私がコンラートを嫌っている理由? そんなの、あの時……」

 と、彼女の言葉が止まる。

そしてセレーネーは口元に手を当てて、静かに呟いた。

「……あの時、どうして私はコンラートに歯向かったんだっけ」

 セレーネーには記録の欠如がある。それもとても不自然に、不可解に。

 化学物質研究所の惨状を知らなかったことも、コンラートに対する異常な嫌悪も。

 僕が強制シャットダウンしてから目覚めるまでの間、復元した記録やコンラートの情報などから考えても、たったの十年で目覚められるわけがないのだ。つまり、彼女が目覚めた僕に言った、十年眠っていた、という言葉も間違っていたことになる。

「あれ、私は、どうして」

「……セレーネー?」

 立ち上がり、顔を覆う。絞り出した声は震えていた。

「そうだ。……わたし、この病院が、患者たちが、捨てられたって知って」

 コンラートを、じゃなくて。人そのものを理解したくなくなったんだっけ。

  8

「資源供給の停止、本当なの?」

通信機を置いて、後ろを振り向く。声の主は音もなく戸を開けた。カートを引いたセレーネーだ。

「……何のこと?」

「しらばくれなくていいの。聞こえていたから」

 彼女はそのままこちらに歩みを進め、カートを止める。

「薬も、患者の食事も、この病院だけでは賄えない。特に薬なんて、外から入れなければ患者に与える薬がなくなってしまうわ。いくらこの病院の設備が整っているとはいえ、薬を作ることまでは出来ないわ」

 言われて、患者たちの顔が頭をよぎる。彼女は静かに、テーブルに僕の食事の支度をしながらつぶやいた。

「コンラート。知っていることを教えて。私やテールはこの病院の患者のために作られて、動いていた。そして、長い時を働いて、貴方達が来た。エマは私とテールの二機にだけ自律思考を起動させて、命令せずとも二人に必要な事を志向して行動できるようにした。だから、私、気が付けるの」

 最近、患者に処方している薬の効きが悪いことも、コンラートの体調があまり優れていないことも。

 温かいお茶を置いて、彼女はこちらの目を捕らえる。

「この病院に医者は必要でしょう。貴方が体調を崩しては意味がないとずっと言っているじゃない。そして、貴方がいないと薬の処方は出来ない。そして、その薬すらもないとなるとここはどうなるの?」

「薬の処方は君たちでも出来るだろう?」

 逃げるように呟くと、セレーネーは分かりやすく息をついた。

「あのね、私やテールに出来るのはあくまで過去の情報から総合的に判断した結果だけ。患者の状態に寄り添って現状に合わせて処方できるのは医者であるあなただけでしょう。私達は医者の手伝いは業務内容だけれど、医者になることは機能として求められていたものではないわ」

 人間らしい仕草をする。腰に手を当て、むすっとした表情でこちらを見ている彼女は、自身が知り合ってきた誰よりも表情が豊かだ。

「そうだね。もう少し交渉してみるよ」

「当然でしょうに。こちらの求めていることの方が正しいのだから、これで物資支援を切ると外部が決めたのなら、それは外部がおかしいってことよ」

 支度を終えて満足げに彼女は部屋を出て行く。

 交渉を続けたとして、果たしてこんな隔離された土地に物資を運んでくれるだろうか。ここに今いる人間は病気が治ろうが、ここにいる以上もう出られはしないのだ。そうなれば、外部の人間が思うことはただ一つ、このままここで死んでいくことではないだろうか。

 ここから出させて、外の人にこの病気が感染したらどうする? 治せないものを、特効薬のないこの病気を、広げたくはないに決まっている。僕だってそう思う。せめて、治る病気であればよかった。であれば、隔離する必要なんてないのだから。

 

 脳内での言い訳にさっさと見切りをつけて、通信機に手を伸ばす。

 数度のコールの後、相手の声が聞こえた。

『はい、こちら空輸コールセンターです』

「リウム病院です」

『ああ、先ほどの。どうなさいましたか?』

「資源供給の件です。停止する可能性があるとのことでしたが、供給を続ける方面で検討いただけませんか」

 数秒の沈黙の後、とんとんと何かを叩くような音と共にため息が帰ってくる。

『……私には何とも言えません。先ほども申しましたが、上が決めていることですから』

「では、リウム病院が、いえ、コンラートがそう言っていたのだと、お伝えください」

 かしこまりました、と告げてすぐに切られた通信機からは、相変わらず重たい空気が漂っていた。

***

「え、閉鎖?」

『ええ。本日をもってそちらに物資を配達する窓口が閉鎖されました』

「いや、困ります。まだ患者もいますし」

『……すみません。私はいち職員ですのでどうしようもないのです』

「あぁいや貴方を攻めたいわけではなくて。ただ、こちらとしてもどうしようもない状況でして」

『そうですね。こちらとしても、どうにかしたい気持ちはあります。……ですが、その土地に残ると決めたのはあなたなのでしょう? 感染していない人は避難を許可されていたはずです。その期限内に避難をしなかったのはあなたの判断ですよね』

「まだ患者がいて、僕に患者を置いて逃げろと? 医者が患者を診なくて、何のための……」

『私には分かりかねます』

「……そうですね。こんな事あなたに言っても何の解決にもなりませんね」

『こちらこそ、申し訳ありませんでした』

「いえ」

 プツリと通信が切れる。大きなため息とともに椅子に座った。

「……どうにもならない、なぁ」

「勝手に患者を苦しめておいて、どうにもならないと分かればその地を隔離し、放置し、死なせるのが人間のやり方という事?」

「セレーネー?!」

 声に驚き振り向けば、予想したように無表情のセレーネーが立っている。

「なんでここに? この時間は患者のケアをしている時間じゃ」

「今日は皆容体が落ち着いていたから、テールに任せてきたの。それに、この時間に外部との連絡を取っていることは知っているわ。あの後どうなったのか気になって、この時間にあなたの部屋に来るようにしていたの」

 琥珀の機械の瞳は、僕の目を捕らえて離さない。

「……そっか」

「こうして、全員が死んだとして、外の者たちは何がしたいの?」

「それは」

「ねぇ」

 有無を言わせぬ真っ直ぐな視線が、ほんの少し揺れた気がした。

「私達は誰かのために作られている。一番最初の私の記録は、タルフェの人のためであれ、という言葉よ。私は患者のために、貴方のために、学習して、理解しようとした。人は、長く生きて、寿命で死ぬのが一番いいのでしょう。けれど、この病院にいる患者たちは決して寿命ではないわ。外的要因による病気、彼らにはどうにもしようがなかったもの。彼らがいなくなれば、確かに病気は蔓延することなく終わるかもしれない。でもそれは、何もせずに待つことは、本当に合理的かしら。私は、あの子たちに寿命まで生きて欲しいわ。人の子は、元気である、べきでしょう。子は宝、なのでしょう? ……こんなことが許されていいわけがない」

 

「仕方が、ないんだ。……治療方法もない患者たちや、この地域から出なかった僕も、もう、どうしようも、ないんだよ」

 なにか、言いたいことはほかにあるのに。

 もう一回交渉する、とか、薬を解析して、あるものだけで作ってみるとか、室内で薬草を育ててみるとか、患者のためになることをもっとしたいと、するんだと、言えれば。

 口から出たのは、ずっと心の奥にあった諦めの言葉。もう、どうしようもないのだ。きっともう一度掛け合ったところで断られるし、患者たちに特効薬はない。痛みを押さえることしか、そもそもできていないのだから。せめて苦しまずに逝ければいい、最近は頭の片隅にその言葉がよぎることだってある。

 体感は何時間も経っていた。けれど実際はきっと数秒だ。その数秒の沈黙ののちに、セレーネーは暗い目をして、淡々と告げる。

「あぁ、そう。そうね。貴方はただの一医者で、私はただの機械」

「私は、貴方に従うために作られた存在だもの」

 セレーネーは右手を自身の首に手を伸ばす。

「何を?」

「あなたに従うわ。この情報は消して、何も知らなかった頃の、貴方の側で働き始めたあの頃の私に戻るの。そうすれば、今まで通りに出来るもの」

 人間には出来ない、私だけの情報の整理の仕方ね、と瞼を閉じる姿は、まるで生きた人間のようだった。彼女の首裏に伸ばす手が震えて見えるのは、そう思いたいからなのだろうか。

 確かに人間は、記憶など消せない。忘れることがあっても、それは消したわけではない。どこかに残り続けているのだ。

「今まで通り、って……」

「ごめんなさい、コンラート。私は、必死に学習したこの感覚が、今になってとても……憎い、わ。必死に生きている患者たちを、私は長く生かしてあげたかった。そして、先ほどのようにあなたに当たってしまったことは間違いだった」

 椅子に座り、ピ、と軽い音と共に彼女の動きが完全に停止した。

「……セレーネー?」

 腕が力なく下がる。その手に触れると、普段はほんのりと熱を持っているのに、とても冷たかった。

 目の前の景色が消える。流れ込んできていた情報が波のように引いていく。

 思い出せば、確かに物資を受け取る機体の稼働はいつからかしていなかった。

 徐々に活動している機体が減っていって、廊下が寂しくなったのがつい昨日のことのように思い出せる。

 この病院は、捨てられたのか。

 今この病院が僕ら以外居なくなってしまったのは、見捨てられたから、だったのだろうか。

『……セレーネー』

 

 その時、頭に声が響いた。

いつの間にか視界は病院ではなく、暗闇と青白い光だけの空間にいる。時折ある、記録の中で意識だけが浮いている状態だ。

振り向く体などないものの、声がした方に首を向ける。

——そこにはなにかがあった。

いや、僕は知っている。あの声はずっと、フラッシュバックするように思い出していた記憶。コンラートのものなのだから。

「コンラート、ですよね」

 コンラートだと認識した瞬間、それは曖昧な形から人の形へと変化していく。

『そうだよ、テール。久しぶりだね』

少しして、目の前に立っていたのは僕のよく知る医者のコンラートの姿だ。白衣を着て、手袋をはめて気弱そうに微笑んでいる。

『ここに僕が残ってる、だなんてちっとも思ってなかったんだよね。……うーん、さっぱり意識を消したつもりだったのに、こうもあっさり戻ってしまうと恥ずかしい。それに、君に申し訳がないね』

 照れ臭そうに彼は濃藍色の伸ばしっぱなしの髪をいじっている。

『君には迷惑をかけてばっかりだ』

「迷惑、ですか?」

 そう聞き返せば、彼は頷いて話始める。

 初めは患者に接触する必要のある仕事を押し付けてしまったこと。そして、最終的にほとんどの医療行為を任せてしまっていたこと。

 さらにはエマの担当機体にしたことや、セレーネーとの関わりについてまでも。

「待ってください。貴方だけのせいではないでしょう」

『僕のせいだよ。僕がこの病院を離れないと選択したから、君はこの人のいなくなった病院に残らされて、挙句今の複雑な君にされてしまったんだから』

 彼はぐっと握りしめた自身の手を見る。そしてゆっくりと、その手を下ろした。

 そして彼はどこからか黒い表紙のファイルを取り出して、紙を一枚摘まみ、こちらに見せる。

 視線を向ければ、病院の状態が書かれている書類だった。

 とっくの昔に物資の支給は打ち切られ、見捨てられることが決定した書類。

 色褪せて、角が破けて、字も薄れて。時折滲むインクに、しわの付いた用紙。機械的な印刷された文字の最後に、手書きで書かれたコンラート、の署名。

『僕たちのいたあの病院が隔離されている中の場所に建っているってことはもう知っているんだったね』

「……はい」

『あの病院が隔離されているのには理由がある。それは患者たちの病気と周囲の大気状態が原因だ。人が住める大気でもなければ、人に感染する病気は直せるものでもなかった。だから、病院ごと隔離するしかなかった』

 悔し気に彼は俯き、小さく囁くように話し始めた。

『本当は、中にいる人は皆外に連れ出してもらうべきだった。外に出て、健康に問題のない場所で、処置をするべきだった。でも、そうはされなかった』

 隔離と言う処置で、患者以外の人を守ろうとした。

 多を救う選択だろう。そう思う。そう、理解できる。だから、だからこそ。

『……僕は諦めてそれを受け入れてしまった。僕とエマはこの隔離された場所から離れて、外の世界で生きることもできた。感染していなかったからね。……でも僕がここに残ると言ったら、エマも残ると言ってくれた。だから、僕たちはここで死ぬことにしたんだ』

 少しの間は行われていた物資の搬入も数年をかけて徐々に減らされ、最終的には無くなった。少なくなるのが分かっていたから、病院内に食料を作るスペースも作ったし、病院だけで生きられるように努力を重ねた。

『もう充分だった。ここで患者と死んでいくんだって、そう思っていた』

 残ったものだけでやりくりして、でも、ちょっと外部の人に交渉をしてみたりして。

もともとテールとセレーネーはよくある、人に命令を入力されてその命令をこなす、よくある自立型のアンドロイドだった。ほかの機械たちとの違いは人型な部分だけ。

 そのはずだったのに、エマが起動させた自律思考を持って隣に現れたセレーネーは、少しずつ与えられ、見聞きして収集した情報から考察し、理解してしまった。この場所が、人に見捨てられた場所なのだと。

そして彼女は小さな声で呟いた。こんなことが許されていいわけがない、と。

 人の醜い絶えない争い事に人間ではなく機械が投入されるようになった影響で全世界で人型を作ることが禁止された、そんな中作られた彼女が、人を想い、人のために嘆いてくれた。

『そんな彼女が、この現状に自分の思考で至ってくれたってことが本当に嬉しくて、悔しかったんだ。機械の彼女ですら憤る現状に、僕はとっくに諦めてしまっていたんだから』

 指先で彼は空間を撫でる。まるでそこに、彼女がいるように。

 合わない視線の先に、彼は誰を見ているのだろうか。

『君やセレーネーを作ったタルフェって人は、とても偉大な人だと聞いている。誰かを思い、誰かのためにアンドロイドを作っている人だって』

 

「……人間でも、アンドロイドでもない僕なのに、誰かのために、なんてできるのでしょうか」

 テールを作ったタルフェの願いが誰かを助けることだったとして、今の僕はタルフェの作ったテールではないのだ。

 縋るように、そっとコンラートを見つめる。彼は静かに瞼を伏せる。

『好きに生きればいいんじゃないかな。あの場所は奇しくも、人の生きられないアンドロイドである君たちだけの場所なんだ。誰も君たち二人を邪魔しない』

 人が住める環境ではなく、アンドロイドであるセレーネーとテールのみが意識を持って生活できる場所。そこがこの病院一帯なのだから、とコンラートは告げる。

『セレーネーはとっても優しい子なんだ。彼女は僕があの汚染された病院に残ったことも、患者たちが世界に見捨てられたことも、とても怒っていた。人間である僕たちですらしょうがない、どうしようもないとあきらめかけていたその場所で、彼女だけが怒ってくれたんだ。だからテール。セレーネーを頼んだよ』

 ポン、と最後に頭に手が置かれて、電子の塊はさらりと崩れ落ちた。

 ***

 目を開ければ、目の前には倒れ込んだセレーネーがいた。

 体を揺すっても目を覚ます事は無く、電源ボタンを押しても起動音が鳴ることもない。

「セレーネー」

 失礼しますね、と声をかけ、そっと彼女を抱え上げてベッドへと寝かせる。

 充電コードをさして、軽く回路を見る。あまり詳しくない僕でも、回路が酷く乱れているのが分かった。僕は機械修理などできない。だから、彼女を安静にしておく他無い。

 彼女を置いて、一人部屋を後にした。

ツンとした香りが鼻につく。

ここはコンラートの遺体が置かれた地下の一室。

冷え切った室内にあるコンラートの遺体へと近づく。繊細で独特な匂いはさらにきつくなり、部屋の冷たさも増していく。

匂いのもとは彼に繋がれている機械や彼の肉体そのものから発せられていて、どうやら長い期間遺体を安置するために処置されている影響によって発生しているようだ。

手を伸ばして、彼の頭につけられている機械を引き抜く。それはぷつりと簡単に抜け落ち、空気の抜ける音がする。

他にもつながれている管を抜き、電源を落とす。

何一つ肉体に繋がれるものがなくなった彼を見下ろして、管を抜くときに乱れた髪を整える。

「埋葬地まで、行きましょうか?」

 そう問いかけた。返事を求めるものではなく、行きますね、という意思で。

ずっとここに一人なんて寂しいだろう。

脳は動かず、意識ない肉片だとしても、他の人は土に帰ったのに彼だけがここで保存されているのだから、還してあげたいと思ったのだ。

横たわる彼の放り出された手に触れる。

ひんやりと固まっているその手が、やけに生々しい質感を感じさせた。

患者たちの眠る埋葬地へと運び、土を掘って埋める。

すっかり重たくなった体を持ち上げて、そっと、深い地中へと。

彼の上に土を被せ、完全に埋まったことを確認して立ち上がる。

温い風が頬を撫でる。すぐに分解が進んで、彼は土へと還るのだろう。僕ら鉄の塊には戻れぬ輪の中へと。

 ***

 窓ガラスに雨粒がたたきつけられている。

 やけに湿度が高い。それもそうか、こんなコンクリートの建物に、通気性が良すぎる場所が沢山あって。雨が降れば自然と湿気が高まるし、夏の晴天の日は乾燥して室内温度がとんでもなく上がるし。

 充電コードを抜いて立ち上がるとカーテンを閉める。

「おはようございます、セレーネー」

 ベッドに横たわり眠ったままのセレーネーに声をかけて、部屋を後にする。

 セレーネーは僕が眠っていた間、患者の面倒を見る、という作業があったけれど今の僕にはそれがない。

 だから、何となく病院を歩き回ってみたり、外を歩いてみたりしている。

 今日は雨だから病院内を探索することにした。

 そうやって過ごして、もう十年は越えたはずだ。

「わ、窓割れてる」

 階段を降りた先の廊下がびしょ濡れになっている。使わない場所とはいえ、生活している部屋に近いから手入れをしておこう。

 代わりの窓ガラスなどもうないので、どこかから板を調達してこなくてはいけない。

 いや、まだ窓ガラスはあるかもしれない。使ってない部屋のものを取ってこればいい。この十年、病院を歩き回ったおかげでどこに何があるか完璧に覚えている。

 隣の棟の受付のガラスは室内にあってもう使用されないものだ。この割れた窓ガラスと交換しよう。

 そうと決まれば、さっさと終わらせてしまうべきだ。駆け足でガラスを取って、ついでにバケツと布も持って戻って来て、枠にはめる。

 偶然にもぴったりはまった。幸運だ。

 濡れている床をタオルでふき取って、もう一枚使って今度は自身についた水気をふき取る。

 一仕事終えて、今日は自室に戻ることにした。気分的になんだか疲れた。

 重い足取りで部屋に戻る。相変わらずひどい湿気だ。

 椅子に腰かけて、ただぼうっと閉め切った窓を見る。薄暗い空模様は、未だにそのままそこにあった。

 テールの目覚めを待っていたセレーネーの気持ちが、今なら少しは分かるかもしれない。一人は寂しい。どんな状態であれ、彼女が目覚めてくれれば、それだけで充分なのだ。

 伸びをして、僕もベッドに倒れ込む。する事が無いので、今日は充電して寝ることにしよう、と思って、ふと視界にテーブルに置かれた情報端末が目に入る。

「……今日はまだお昼ですし、時間は僕にはたくさんあるからと後回しにしていましたが、そろそろこれも見ておくべき、ですよねぇ」

 体を起こして、端末を手に取る。これはテールの記録情報である。彼はこまめにこうして別端末にバックアップを取っていたようで、一人になって行なっていた病院探索時にエマの部屋で大量の端末が出てきたのだ。

 セレーネーが目覚める前に確認しなくてはと思いながら放置していた端末。

 少しだけ恐ろしさもあるのだ。もしこの記録を再生したら、今の自分はいなくなってしまうのではないかという、個人的なもの。

 ぐっと覚悟を決めて、ベッドに腰掛けると端末に映るバーコードを目に近づける。

 ぴぴ、と電子音が聞こえた。

 

 ***

 まだ綺麗な病院の廊下を歩いている。窓の外は明るく、空間は賑やかだ。

 視界はそのまま進み、エマの部屋へと向かっているようだ。

「おはようございます。エマ」

『おはよう。今日の君の仕事内容は?』

 扉を開くと、機能故障した清掃ロボットを修理しているエマがいる。

「本日は患者の食事時以外はエマの補佐です」

『……そうだったっけ? そうだったかもだ。んー、でも今日の私のやることリストに君の補佐が必要なものは無いし、コンラートの手伝いでもしてあげて』

「わかりました」

 そんな面白みもない会話を素早く済ませ、テールは部屋を後にした。

 カートを引いて患者の元に薬を運ぶ。自身を清掃してコンラートの部屋に向かえば、彼は一人カルテと向かい合っていた。

 驚かせないように開いている扉をノックして、失礼しますと声をかける。

「コンラート。本日の業務で手伝うことはありますか」

 一定のトーンで発せられたそれにコンラートは振り向くと、数秒悩んだのちに、『セレーネーを手伝ってあげて。僕は大丈夫だよ。ありがとう』と告げる。

 返事を受けて、分かりましたと頷いて部屋を後にした。

 綺麗な廊下で、セレーネーを見つける。彼女はこちらを見て微笑むと、一緒に患者を見にいきましょう、と病室へともに歩いていく。

 一人一人と会話しながら、処方と処置をして。

 全員を見終えると、セレーネーと別れてエマの部屋へと向かい、今日の行動を報告して充電コードをさして椅子に座って、一日が終わる。

 それから、このデータはずっと同じようなやり取りをしていた。

 机の上から、また別の端末を手に取ってバーコードを目に近づけて読み込んで、その繰り返し。

 同じような日々から変化が見られたのは、コンラートが倒れてからだ。

 彼はエマと何か打ち合わせをしているときに倒れたようで、すぐにセレーネーがベッドへと運び検査をしたところ、患者たちと同じ病気であることが分かった。

 すぐに隔離をして、エマを自室へと連れ戻して。

 コンラートのことは変わらずセレーネーが見ることになり、テールはエマの体調を注視するようになった。

 

「だた今戻りました」

 本日の患者への投薬を終え、エマの部屋へと戻る。

 扉を開けて、エマの様子を確認し定位置で座って充電コードを差し込む。

『あぁ、違う』

 機材と資材の散乱したテーブル。

 エマの体温は低く、心拍は安定している。

 コンラートが倒れてから一週間。彼女はずっとこうして、私が食事を渡すとき以外は自身の研究にのめり込んでいる。

『どうしたらいいの。その人をその人としうるのは脳にある情報でしょ。だから、つまりその脳の情報をデータ化して機械の体にいれる。そうすれば、人のまま機械になれる。これまでのこの情報は間違ってないし』

 壊れた清掃ロボットの修理もせず、鳴らなくなったナースコールも直さず。

 彼女はこちらの呼びかけにも答えはしない。

『人格を残せば、人格さえ残っていれば、たとえ外見が柔らかな肉でなくなってもそれはその人格の人間のはず。そうすれば、コンラートにもう一回会える。もう一回、笑ってくれる。だって彼は私の夢を否定しなかった。受け入れてくれる。受け入れられないと』

 私がここに残った意味が無くなっちゃう。

 そんな彼女の独り言を聞きながら、静かにスリープモードへと移行をする。

 コンラートが倒れてからの彼女は、今まで以上に自室にこもりきるようになった。

 この頃から、もともとあった彼女の人間をアンドロイド化するべきだという思考が少しずつ過激になっていったのをよく記録している。

 彼女がこの施設に残ることを決めたのも、コンラートがいるからである。彼が患者の治療を続けるためにここに残ると決めたから、自身も残ることにしたようだし、彼女の思考の決定権はコンラートがどうするのか、だ。

 彼女にとってコンラートは、人生の全てだったのだろう。

 自分にはない、感覚だ。人である彼女だけだが持つ、特別なモノ。たとえそれが、合理的でも、倫理的に正解でなくとも。彼女にとっては、それだけが全てだったのだろう。

 私は知っている。彼女は、昔考えを大人に否定されて育っていたことを。

 私は、彼女が自己肯定感の低い人間だと理解している。

 彼女は、自分に厳しい性格をしていたことも、誰かに認められたくて、褒められたいだけだったという事も、情報として知っていた。

 でも、それだけだ。

「エマ、食事を取りましょう」

 別の記録。あれから何日後だろうか。もしくは何か月後、だろうか。またテールはエマに声をかける。基本的には聞こえていないようで聞き流されていた言葉が、この記録は違った。

『……ねぇテール』

「なんでしょうか」

『あなた、人間に興味はある?』

 持っていた機材を置いて、エマは振り返った。その目はやけに冷たい。

「興味、というものがよく分かりませんが、私達は人間のために作られた存在です」

 たんたんとテールの口からは答えが流れる。その返事を聞いたエマは満足げに微笑んだ。

『そう。貴方達は、私達のために、稼働してくれているのだものね』

「はい、そうです」

 よし、と彼女は呟き、テールの準備している食事には目もくれずに椅子を回転させ背を向けると、また難しそうな文字たちを眺めはじめた。こうなるとエマは何も反応を返さなくなる。カメラだけを起動してシャットダウンへと移行した。

『ねぇテール。貴方はこの病院にいる患者のこと、どう思ってる?』

 それから毎日と言っていいほど、彼女は質問をしてくるようになった。その返事によって、テールに手を加える部分を変えているようだった。

 考えるに、彼女は思考をテールのものからコンラートに寄せようとしていたのだろう。少しでも抵抗なくこの体に馴染めるように、丁寧に。

「患者だと、思っています」

『そうだけど、そうじゃなくて。可哀想、とか、どうにかしてあげたい、とかないの?』

「……そ、れは」

 ここでありません、と答えたら。きっと彼女は期待外れだという顔をするのだろう。

『いい。分かったわ。そうよね、貴方はアンドロイドなんだものね』

 間違えた、とすぐに思った。しかし自身は紛れもなくアンドロイドだ。

『座って。電源を落とすわ』

 ――こうやって、また自分を組み替えていくんだ。

 ***

この機体のどこかにある一番最初の記憶に、タルフェの記録があるだろうか。

 もし見つかったとして、そこになにかあるだろうか。

そもそもタルフェは、どうして自律思考型になんてしたんだろうか。

 改良を加えられて、そうして作り上げられた僕は、一体何になるのだろうか。

 一体、どこまで行くのだろうか。

 ***

今日の天気は晴れだ。

今日は外に出て、花瓶に生ける花でも摘んでこよう。カーテンを開けて、窓も開けて。

「おはようございます、セレーネー。今日の天気は晴れです」

 眠る彼女に声をかけ、部屋を後にした。

一人外の爽やかな風を浴びながら、綺麗な花を探す。

埋葬地側は花が多く咲いている。恐らく、埋葬地を華やかにしようと誰かが種をまいたのだろう。思い返せば、テールの記録でもコンラートの思い出の中でもこの辺りは花が咲いている時が多くあった。

「……分からない」

 こうして悩んでいるのも、よく分からないものだ。答えなんて出やしないだろう。

 こうして悩み続けることでいつか僕が僕であると理解できるのだろうか。

人間とは違い酸素がいらない。

人間とは違い食事がいらない。

僕達に必要なのは電力とほんの少しの休息だけだ。

 そう言い聞かせて、セレーネーが眠る部屋へと歩みを進める。

 摘んできた花を花瓶に挿して、窓辺に置く。もう枯れるしかない花は健気に殺風景な室内を明るくさせる。

 ふっと笑う。曖昧な僕は、することもなく目を閉じた。

***

 設定している朝の時間に、僕は起動をする。

 薄暗かった昨日とはうって変わって、光が差し込んでとても明るい。

 ベッドから起き上がって窓に近づく。晴天が広がっていた。

窓を開ける。風が黄色いカーテンを揺らした。

 柵の向こうに広がる世界を夢見て、今日も部屋でセレーネーの顔を眺める。

 ベッドに横たわる彼女は、差し込んだ光の中で動く事は無い。

 腕に刺さった充電コードを指し直して、髪を軽く整える。

 

 もう随分と前に日数を数えるのをやめた今、それでも、僕の目覚めを待ってくれた彼女と、もう一度話をするために。テールじゃない僕の、思いを伝えるために、今日も僕は彼女の目覚めを待っている。

「セレーネー。今日の天気は晴れ、気温は二〇度です。風が冷たくて心地がいいですよ」

 手に触れて、立ち上がる。

「貴女に話したいことが沢山あるんです。だから早く起きて下さいね、……寝坊助さん」

 籠を持って病室を後にする。もう日課になった、花瓶に挿す花を探しに行くのだ。

  9  

 目の前にある高いコンクリートの壁を数度叩いて、分厚いコートを着込んだ青年は振り返る。

「ソキウス。この壁に俺がしゃがんで通れるくらいの大きさの穴、開けてくれ」

 彼の足元の四角の上に丸が乗った形をしたキャタピラで移動している機械に、白髪の青年、クローリクは声をかける。ソキウスと呼ばれたそれは、丸い部分にオレンジ色の光が付いたかと思うと、カウントダウンを始めた。

 クローリクが一歩壁から離れる。そしてすぐ、レーザーが打ち出されコンクリートには長方形の穴が開いた。

「よーし、よくやった。帰っていいか?」

「ダメです」

「こんな暑い中にでこんなに着こまされてよ~。はー、あのくそ上司……。こんな広いところ一人で終わらせられるわけないってのに」

 手で仰ぎ風を顔に送りながらソキウスの開けた穴へとしゃがんで入ろうとしたクローリクにソキウスが赤い光を発し、警告音を流す。

「クローリク、口も覆ってください。まだ安全は確保されていません」

 分厚い服も、防護服なのだから仕方がない、とソキウスは告げる。クローリクは嫌そうに顔をしかめ、口を布で覆った。それを確認して、クローリクに続くように、ソキウスも進んでいった。

「あーあ。だってもう二百だか二千年くらい前の事故だろ? くそ上司は汚染されてるかもしれない所に自分が入りたくないだけだよ」

「いいえ。クローリクの仕事が大気測定調査員だからです。けして嫌がらせやクローリクの発言した内容によるものではないと判断します」

 ピピ、という音と共にソキウスからたんたんとした機械音声が流れる。

「……お前はほんと、上司大好きだよな」

「私にそのような感情はありません」

「はっ、どうだか。この俺が修理したんだ。お前に偶然そんな性能が付いていたってあり得るね」

 ありえません、と冷静に返されたそれを無視して、クローリクは目的地に向けて歩みを進める。

 さくり、長靴が草を踏みつける。自然豊かなこの場所には命の気配がない。動物がいない。たまに虫がいるくらいで、その虫もほとんどいない。

「静かだなぁ。……確か、科学研究所かなんかが有害物質を放出しちゃって隔離されてたんだっけ」

「化学物質研究所です。放出理由は戦時中による電気配線の故障、および連絡ミスだと記録されています。それ以前はとくになにもない田舎の村です」

「んで、汚染された人たちは隔離されたここに取り残されたと」

「はい。接触感染をおこす細菌も広がってしまったようでした。大気中に含まれた物質は人体に大きな害を及ぼし、見た目に出ないことから領域を決めその地域にその時住んでいた人が隔離されていました」

 大袈裟な身振りで、クローリクはため息をつく。

「……可哀想だよな。ただ住んでただけなんだろ?」

「そうですね。住民や汚染者に何も問題はありませんでした。しかし健常者に害を広めてしまうのは人間の繁栄上許容できません」

 ぴたりと進んでいた足を止め、ソキウスへと振り返る。

「はー。お前さあ……、心ってもんがないのか?」

「私にそのような機能は搭載されていません」

「はいはい。そーでした。お前、最新型の癖にお喋りは下手くそだもんな」

「そも、われわれは人のために制作されたものであり人になる、人と同等になる目的で制作をされていません。そのため私に必要なのは貴方の記憶の補完、データの保存、仕事の補佐、であり、おしゃべりをすることではありません」

「うるさいぞ。俺はそういう理屈が大嫌いだ」

「存じております」

「……ケッ」

 大きくため息をついて、彼はまた歩き出す。

「そもそもよ。俺がこんな面倒な事押し付けられてるのはずーっと前にお偉いさんたちが勝手にドンパチして人間様の住む場所を汚したからだろ? 人間が住めなくなったからって放置して、今更人間が住むために調べてこいっておかしくねぇ? 怖がって入らねえくせにさ」

「連続した大戦後人類の数は大きく減りましたが、それから一〇〇〇年ほどたち、最近は増加傾向にあります。そのため、人の住む場所が足りないのです。この土地が住めると分かればすぐにでも防壁を張って安定した空調内での人間の生活地にするのです」

「いや分かってるよ。でも、なぁ」

 フェンスにも穴をあけてもらって安全に抜ける。整備されていない木は密集したり折れたりとあまりいい環境で育ってはいない。

「ソキウス、数値は?」

「……安定しています」

 ポケットから一つ瓶を取り出すと、蓋を開けて地面に撒く。中には黄色の液体が入っていて、人の免疫を模したものである。この液体が地面で赤くなれば、ここで人が住むことはできない。

「……赤いな」

「赤ですね」

 さっさと帰るか、と空き瓶をしまう。空気は澄んでいるけれど、その空気を吸う草があるからなのか、蓄積されているからなのか。土は汚染されたままだ。

「帰れません。私達の調査地点は三地点あります。ここはまだ一地点目です」

 ソキウスから青い光線が出ている。次のポイントを指しているのだ。

「はぁ……。なぁソキウス」

「なんでしょうか」

 無機質な音声。丸い部分を押し込み、四角い椅子を作る。

「よし。このまま出発だ」

 ドカッと座り、足を組んで進行方向を指さす。進め、と命令すれば、いやいやに了承を返してソキウスは進み始めた。こいつに感情がないとか絶対に嘘だ。俺は天才だから分かる。絶対に、偶然だとしてもこいつは俺に対して何かしら思うところがあるはずだ。じゃなきゃこんな反応はしない。

 人が歩くよりも断然早く、そして疲れない移動方法。電力の消費が激しいのは問題だが、仕方がない。疲れたのだ。

「次の地点ってどこらへんだ?」

「この村唯一の病院があった場所です」

「へぇ」

 自由に青々と茂る草木の向こうに、白い建物が見えてきた。

 壁はところどころ剥がれ落ち、長い時の劣化を感じさせる。入口を探して建物の周辺をぐるりと回ってみることにして、ソキウスに指示を出す。

 どこもかしこもボロボロだ。

「なぁ、ソキウス。この建物って病院だったんだろ?」

 はい、という返事の後、長々と説明が始まる。

 もともとは小さな町医者の診療所であったこと。戦時中は国境に近かったことや戦地から近かったことから負傷者の受け入れを開始し、患者数が増え始めたことから建物を大きくしたようだ。戦後は、化学物質研究所の隔離範囲から逃れていたことから通常通りに業務を行なっていたが、周辺住民に謎の感染病が多発、入院患者が続出。それによる精密な調査の結果、汚染範囲内だったことが発覚し、汚染者も多く入院していたことから病院ごと隔離。

 内部の一部の人間にのみ隔離されることが通達され、五年ほどは食料などの物資の運び入れも行われていたようだが、徐々にそれもなくなったらしい。

「身勝手な話だな」

 ソキウスは何も言わない。合理的な判断だとでも思っているのだろう。

 開かない自動ドアを蹴り開けて、中に入る。静まり返った病院の受付が一人と一機を迎え入れる。

「お邪魔しますよーっと」

 もうずっと使われていないわりには綺麗な場所だと思う。もちろん、割れたガラスから外の草や木が入り込んだり、地面のコンクリートも崩れていたりして足場も決して綺麗ではない。

「ん? こっちのほう、地面綺麗じゃないか?」

「……そうですね」

 綺麗な場所を進む。受付の横の通路に入り、まっすぐに棟を抜ける。

 通路の窓から中を覗くと、広い病室があった。天井が剥がれ落ちても、ベッドが並んでいるだけで病室だと分かるのだから不思議なものだ。

 そのまままっすぐに行くとスライドの扉があり、それを開けると次の棟へと入る。すぐ真横にある階段を三階分あがり、三部屋目の扉の前につく。

「ここ、だな」

 扉を、開くと。

「うわ」

 一瞬、人が眠っているように見えた。ベッドが二つある部屋で、そのうち一つに一人横たわっている。天井から伸びたコードも眠るそれに繋がっている。

 窓から差し込む陽の光が優しく彼女を包む。

「生きてる?」

「……いいえ、熱反応はありません。現在把握できる部分の構造から察するに……それは、アンドロイドかと」

「マジ?」

「はい。旧型ではありますが、我々と同じような機体であると認識します」

 旧式でも人型は人型。もう何年も前に人型の製造は禁止された。そのせいで人型を見れる機会なんてほどんどなかった。噂でしか聞いたこと事が無いそれを前に興奮を抑えられるやつがいるだろうか。いないだろう。

 

 傷をつけないように白い手袋をはめて、横たわるアンドロイドに近づく。

 淡いクリーム色の長い髪を下ろし、耳の後ろから一束だけ三つ編みをしている。顔の造形は繊細で睫毛一本すら美しい。

 前腕の外側に刺されたコードはおそらく充電で、電源はどこだろうか。首あたりを触ると首の裏、うなじのあたりに凹みがある。慎重に少し持ち上げて、髪を退けてうなじをみると薄く円形の一センチほどのボタンがあった。

 押し込むとカチ、と音がする。少し待って見ても起動はしない。どこか回路が乱れているのだろうか。

「なあソキウス。これ持って帰っていいか?」

「他に所有者がいないのならば、いいのではありませんか」

 いないといい。いないに決まっている。けれど、確認しなければ窃盗になってしまう。泣く泣くそのまま寝かせて、ソキウスにここに戻ってくると約束させ、位置情報を記録させて調査を再開する。

「ここまで来たけど、綺麗な部屋と完全に荒廃したのと、病院一個でいろんな様子が見れるな」

「リウム病院は、一般病棟、外来棟、療養棟、住居棟に分かれていると古い記録にはありました。今いるのは一般病棟です。比較的は損が激しかったのは療養棟かと思われます。そしてこの環境下での人間の生存、繁栄率は0%です」

「そりゃそうだろ。……生きてても死んでるよな、人間なら」

 そう答えて、ふと思う。じゃあ一体誰がこのアンドロイドの整備をしていたのだろうか。あの機体は埃一つ被っていなかった。

 少しだけ開いた窓の風にカーテンが揺れる。花瓶に一輪、花があった。

 空気は綺麗なままで、入り込んだ土こそ汚染されているものの病院自体は綺麗なままだった。他の棟も歩いて検査をして、病院から出る。

 あたりを見回し、化学物質研究所に向かうのは後回しにして、少し丘になった場所を進む。

 おそらくもともとは道であった場所は、進むにつれて花が咲き乱れ、足を出すのが申し訳ないほどだ。

 広々とした草原に風が吹きこんで、青を揺らす。

 

「……シャシー?」

 ざぁ、と。柔らかな風が頬を撫でる。

 優しげな声がした。声の方に視線をやれば、青い髪を左下で一度輪っかを作り結んだ、少年が、籠を片手に持って立っている。

「あ、ごめんなさい。そうですよね、シャシーがここに、いるはずがない」

 緑の優し気な瞳が一度伏せられて、前髪が風に揺られて目元を隠す。

 さくりと緑を踏み分けて彼はこちらに近づいてくる。そして、その肩を見た。

 人にはあり得ない、線が見える。

「こんにちは」

 柔和な笑みを浮かべて、少年は開いている手をこちらに差し出す。

「僕はテールです。貴方は?」

 ソキウスを見る。機械のそれは何も言わない。相談相手がいないのはこんなにも不便だ。

「……俺はクローリク。これはソキウスだ」

 少年の手を握る。硬くて、多少の熱を持った手はどこまでも無機質だった。

 

感想をお寄せください

error: Content is protected !!