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小丸 日陽

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2286 年 11 月 20 日 17 時 46 分 40 秒
世界は消滅する。
もしも、まだ。
あの人がいたなら。
私に花を挿したあの人が隣で笑っていたなら
それだけで私は満足。
それ以上のことを求めないし、それ以上の幸福もない。
あの人と一緒に笑いたい。
わたしはあの人が好き。
2286/11/04/8:30
「明日、一緒に水族館でも行こうか」
光の言葉は突然だった。
桜は思わず彼の手を握り返した。手をつなぐのはこんなにも緊張するなんて知らなかった。手汗はかいていないだろうか?どれぐらいの力で握ったらいいのか分からなくて羽を
触るような程度の力しか出せない。
一つ一つの動作に心臓が飛び出そうになる。桜は自身の状況に戸惑いながらも一生懸命に思考を回し、二枚の紙を見る。
『水産課歴史記録館入場』と書かれた紙を光は二枚持っている。
それは仕事で業績を出し、優秀者のみしかもらえない特別な入場券だ。
水族館のチケットは確かに二枚。それってもしかして。
いや、確実に。
雷に打たれたように「デート」という言葉が桜の体中を駆け巡った。
「う、うん行こう!楽しみにしてるね」
そう頷けば光はアーモンド色の瞳を緩めて微笑んだ。
「俺も楽しみ」
もしかしたら今が人生の絶頂期なのではないかとここ最近、常に桜は考えていた。
光と付き合えたのだってあり得ない話だと今でも思っている、誰が見たって学内の高嶺の
花。文武両道で才色兼備な、そんな彼と恋人になっているのだ。
桜は光と共に通学路を歩くことができている。それ以上に人生の夢であった好きな人と手
をつなぐことだってできてしまっているのだ。
彼と衣食を共にしている課の人間ならば悔しくて涙を流している事だろう。それ以上に生
まれてから衣食を共にしてきた彼の同期達は皆血の涙を流したと言う。
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どの瞬間の光も桜の目には誰よりも美しく美麗で端正でかっこいいその人が目に映ってい
た。こんな人はどこに行ったって存在していない。そんな高嶺の花と私は付き合えている
のだ。そう考えるだけで明日私は死んでも後悔出来ない。なんども心の中で考えてしま
う。
「じゃあ、明日は水族館の前で待ち合わせ?」
「いいや、俺が迎えに行くから、家の前で待っていてよ」
「私の課は作物課だけど、場所わかる?」
「もちろん、課の場所は把握してる。中央施設から、朝日が登って来る方面だよね」
まるでわがままを言っているみたいでなんだか恥ずかしい。確かに迎えに来てくれるだな
んて夢のようだけども。
でもそれは対等と言えるのだろうか?光に甘えてしまっているようでなんだか気まずく、
手をすり合わせて下を向いてしまう。
「いいんだ、俺が隣にいない桜の姿を誰にも見られたくないから」
この人は何を言っているんだ。桜が思わず頬を真っ赤にすれば光は微笑み本心だといった
調子で言葉を続ける。以前は遠くから眺めていただけだったけど、光は恥ずかしげもなく
愛の言葉を伝えるのだとつい最近になって知った。人は話してみないと分からないものだ
と桜は思いつつ、そんな彼の事をさらに想い募らせてしまう。自分自身もどうかと何度も
冷静な自分が突っ込んでいる状況だった。
「わ、分かった。じゃあ明日、十一月四日。家の前で待ってるね」
「そっか、もう十一月か」
「光君?どうかしたの?」
「いいや、何でもないよ。じゃあ明日八時に君の家の前で、ってこんな約束。朝っぱらからするのはおかしいかな」
光は照れ臭いのか、少しだけ頭を掻く仕草をして見せる。きっと彼は帰り道まで話すのを我慢できなかったんだろう。そう考えるだけで桜の顔は更に赤みを帯びてしまう。
「ううん、今日一日も明日のことが考えられるから嬉しい」
「そっか。君が嬉しいなら俺も嬉しい」
そう言って光は私の姿が見えなくなるまで何度も振り返って手を振り続けた。
ああ、こんなに私を想ってくれる人がいてもいいのか、彼が振り返る度、何度この想いを
をかみしめた。
光がいなくなって桜は小鹿のように震えた足でどうにか下駄箱の柱にもたれ掛かる。
息が漏れる。
緊張以上の何かで光と普通に話せていたかもわからない。
付き合ってからもう数ヶ月がたつというのに、桜は未だに光に慣れる事は無かった。
「もっと普通に接したいな」
3
花の髪留めを触って深呼吸をする。息を吐けばまだ白くはならない。風が吹けば少しだけ
肌寒く、夏服で学校に来る人も少なくなってきた。風は乾燥しており、肌の水分と温度を
容赦なく奪ってくる。冬の足音はそう遠くない。
もうすぐ、一年が終わる。
2286/11/04/12:00
下駄箱で靴を脱ぎ、内履きと言われる靴へと履き替える。
外の景色と学校の景色は全く以て違う。
どう違うかと問われれば桜は口ごもってしまうが。
学校の校舎は私たちが今では作ることができない旧時代の素材でできている。だからちが
うと感じるのだ。
木製の壁でもなければ、レンガでもない。継ぎ目も何もない校舎の景色はやはり異質だ。
公務課の人間が管理している施設は基本的に旧時代の建物の管理を名目に使用している。
この都市の中央にある大きな施設も旧時代のそれだというのははっきりとわかる。
だってあんな鉄の塔が桜たち人間には作れるはずがないのだ。
「で、ねぇ話聞いてる?」
桜に目の前の少女は応えを要求した。それでハッと桜は我に返る。
手元で桜は髪飾りをいじっており、宙に思考が飛んでいたことがわかり友人も少し呆れた
ように息を吐いた。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてたみたい」
「せっかく台本の感想でも聞こうと思ってたのに」
「あはは、ごめん」
目の前の席の友人はカバンの中から一冊の本を取り出して音を立てて置いた。それは友人
が書いた演劇の台本だ。冊子は重い。高価な羊皮紙に麻糸で巻き付けられており、友人の
手描きの文字はそこそこ読めなくもない。
冊子のページは軽く、羽ペンで書かれた文字は熱意の塊というのが正しいほどに強い筆圧
で文字が浮き上がるほどに心が込められていた。一体いくつの羽ペンを無駄に浪費したの
だろうか。
しかし、桜は微笑みながら内心大きなため息をつきたい気持ちでいっぱいになった。
その文章は桜にとっては読めるものではない
内容は奇想天外で奇天烈、専門用語が羅列され、何よりも登場人物が話す言葉すべてに感
情移入ができなかった。登場人物たちの誰とも目が合わない。
誰も、こちらには『語り掛けない』
唐突に別の物語が展開され、状況もつかめないままに話が残酷な終わりを迎える。
そんな物語ばかり、そんな物語に感想を、あわよくば賞賛を求めているのだ。
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桜には欠片も理解できない文章を、新しい物語を、いつから桜は目も合わせることができ
なくなったのだろうか。思い出すことも苦痛になりそうだ。
でも、それで彼女の顔を曇らせることはしたくなかった。それ以外は欠点はないいい子な
のだから。
「この話面白いと思うよ」
そう桜が言えば友人はわざとらしく腕を組み訝しげに桜を見る。しかし、それはただの演
技。そんな絵にかいたような演技を彼女は好む。
実際には桜の言葉を信用しているから、今の関係が成り立っている。
友人は馬鹿らしくなったのか笑いを口から吹き出した。
「そっかそっか、そう言ってくれるかぁ!じゃあそれはあげる」
「え?こんな高価なものいいよ」
「いいの、どうせもう二冊分書き写してあるし」
そう言って赤く染め上げた冊子の表紙を桜の胸元に押し付け、自身は桜の前でお弁当箱を
開いた。
桜も真似するように自身の持ってきたお弁当箱を開き、お互いに食事を始める。
しかし、友人は桜を見つめ、笑みを浮かべた。それもあまり爽やかとは言えないにやにや
とした笑みだ。
この笑みをする時は大体誰かを囃し立てる時だって決まっている。
「で、今日ぼーっとしちゃってるのはどーせ、最近できた彼氏のことでしょ~?」
「え、そんなにぼーっとしてる?」
「ええ、それはもう、周囲から見ても分かるぐらい」
平静を保っているつもりらしいが今日の桜はわかりやすく時折笑いが零れていた。そんな
調子の桜を友人はカラカラと笑い、自身の口にウィンナーを放り込んだ。
「珍しいね、ウィンナーなんて」
「そう?あー家で飼ってる羊が頭数新しく産まれたから。だからお祝いでね」
そう言って友人は自身の好物だというウィンナーを口に放り込んだ。
「そっか、畜産課は豊作なんだ」
「まぁねー。秋頃は毎年、動物たちが繁殖期にはいりやすくてね、それもあってかなー。
でもそれ、私去年も話したけど?」
「そうだったね、聞いた覚えあるや」
「覚えてるならさぁ~まぁいいけど。じゃあ作物課はどうなの?」
「うーんまぁそこそこ?」
桜もブロッコリーを口に運ぶ、室内で育成している植物は栄養の偏りなく。おいしく食べ
られているだけで満足だ。
「何その答え」
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「この時期、私の住んでる地域は作物を収穫することは無いし、手入れぐらいしかしない
から」
「あー、桜んところの周辺って果物が近いもんね、就職も果物にするの?」
果物は好きだけど、本当のところは、花を作りたいという気持ちが桜にはあった。しか
し、花は食用ではない。
作物課では都市に住む人間すべてに栄養源となる食べ物を配給しなければならない。それ
は作物課も畜産課も変わりない。
その為、食用ではない栽培する課が非常に小さく、就職するのは困難を極めるのだ。
無くてもいいもの、不必要な物。そもそも人数がほとんど必要なく、撤廃されてもおかし
くないほど。それもあり、桜は花を栽培するのを諦めていた。
「いや、まだそこまで考えてないかなぁ」
「わたしも~」
友人は軽々しく笑って肉を頬張った。おいしそうに食べるもんだから自分の考えも今、真
剣に考える必要がないのではないかと。そんな気持ちになる。
「そのことはまぁ置いといて、幸せそうで何よりですねぇ」
「そう、かも?」
桜は自分の頬を触って今でも光の事を思い出すと頬が熱くなっているのをようやく理解し
て、恋は盲目だとか聞いたことがあるけど自分はそこまで彼に熱中してるのか…と思っ
た。
「でもいいの?こんなところでご飯食べちゃって、大大大好きな彼氏の元に行かなくてい
いの?彼、待ってるかもよ?」
そう言われれば桜は野菜を食べる手を止めた。
桜としてもそうしたかった。実際に一回お弁当を持っていったことがあった。その時に彼
が言ったのだ。
『じゃあ、あーん』
食べさせろと言うのだ。そんなことをしたら私の心臓が毎日持たない!と、その次の日に
桜は熱を出してしまった。
それもあり、少しずつ時間をもってゆっくりと光に桜は馴れていくしかないと考え、お昼
を共にするのはもう少し先にすることになった。
「まぁ、まだ少し緊張しちゃって」
「うーん若いねぇ、良いことで」
友人は茶化してまたカラカラと笑う。桜は少しだけ頬を膨らませるも、桜は楽しそうに話
をつづけた。
「明日ね、水族館に行くの」
友人は持っていた箸を叩きつけるように置き、立ち上がった。
目を丸くして本気で驚いているようで桜の肩もつかんでしまいそうな勢いだ。
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「それって!!!!!」
「そうかも」
桜がにへらと笑えば友人はへぇーっとうらやむような、賞賛するような声を上げた。
「いいじゃんいいじゃん!帰ったらどうだったか教えてね、絶対だよ」
「分かったよ、てか声大きいよ…」
友人は興奮して桜に話すがその声は教室中に響く。
「あ、ごめんごめん」
「桜さんいる?」
その時教室の傍で一人の生徒が桜を呼んだ。
「あ、いるよー」
「桜さん、山木先生呼んでるー」
「そう言えば私今日、日直…」
「桜また抜けてるー」
「あはは、そうかも。じゃあ行ってくるね~」
「うん、またあとで~」
友人はまだ弁当を食べながら行儀悪く桜に手をひらひらと振った。
桜はそれに簡単に手を振り返して教室の外に出て行く。
それを見ながら友人はふと思った。
「明日、平日じゃなかったっけ?」
学校休むのかな、逃避行ってやつ?と友人は更に首をかしげ桜のいないところで妄想を膨
らませた。
2286/11/04/12:40
職員室はそう遠くないし、まだお昼は時間がある。急いで走り転んでは本末転倒だ。
『明日、水族館に行かない?』
ふと光の姿が脳みそにフラッシュバックしてまた桜の顔は熟れたリンゴのように真っ赤に
なってしまう。
足が浮くように軽くて思わずその場でジャンプをしてしまう。
明日、どんな花を付けていこう?どんな会話をしよう?
不安と様々な可能性で頭をいっぱいにしながら桜は歩く、壁を触れば独特な冷たさが手に
広がる。
この学校特有の冷たさは桜の頭を少しだけ冷静に戻す。
そうだ、先生が待ってる。
職員室は独特な匂いが広がっている。お昼と言うこともあって食べ物の匂いと、インク紙
の匂いがまじりあっている。
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世界には本なんてほとんど存在しない。旧時代でどのように製本されてきたのか今では伝
来していないこともあり、どの本も貴重なもの。本というものは独特な匂いがする。公務
課の人間は慣れ親しんでいるのか、好きだという人が多い傾向にあるが、桜はよっぽど土
の匂いの方が好きだった。
「山木先生お呼びですか」
山木は快活と言うには少し当てはまらないが根暗と言うには何か違う、微妙な人だ。
年中シャツを腕まくり、角ばった眼鏡の底に見える瞳は隈がひどく、瞳の色も分からな
い。笑っているところも見た事がない。
こんな調子であったので山木はあまり生徒から好かれてはいない。
山木は窓の外を見て黄昏ていたかと思えば桜の言葉でこちらに向きなおし、手元にあった
ノートを突きつける。
「日誌」
桜は朝のこともあって日誌を取りに行くことすら忘れていたことに気付いた。
「すいません、ちゃんと書きます」
「そこまで真面目に書かなくてもいいぞ、どうせ見るのは先生だけだからな」
「そう言わなくても、ちゃんと書きますから」
桜はにへらとお得意の愛想笑いをする。
山木はその桜の顔も見ずに机の上にある紙に向き直り何かを書き込んでいく。
「桜は作物課だったよな」
「はい」
「他の課に興味はないのか?」
学校に通うものは育児施設から出る際、どの課に進むか移住を求められる。
その工程は二度行われる一度目は育児施設から出る十歳時、二度目は七年間の学校を去っ
た後の十七歳時。
二度目は正式な判定として二度と他の課に移動することはできない。
専門的な課は全部で五つ。
植物を専門的に扱う作物課。動物を扱う畜産課。海洋類を扱う水産課。道具や建物を制作
する技巧課。そして「政府」に属する公務課。
公務課以外は希望した課の所属する家に子供たちは住みながら学校に通うのが常識だ。
桜は髪留めにしているドライフラワーの髪留めに手を触れる。
「他の課には特に興味ないです」
「そうか」
「選択は卒業前になってからじゃないんですか?なんで五年生の私に?」
「そうだが、公務課に進むとなると勉強も今から力を入れる必要が出てくるからな、その
ヒアリングだ」
「公務課には進む気はないですね」
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その言葉を聞いた山木は少し頭を下に揺らしたかと思うと黙り込んだ。
「先生は最初から公務課だったんですか?」
「いいや、先生は学校から受験してな、昔は技巧課だった」
「なんで心変わりを?」
「心変わりってわけじゃない。ただ、この学校に居たかったんだ」
「学校がそんなに好きだったんですか」
「まぁ、そんなところだ」
そう言って山木は手元の紙に書き入れる作業に熱中し始めた。
暫く桜は待っていたが山木は何も言うことがなかったので去ろうとしたその刹那、ちかり
と空が瞬いたような気がした。
振り返ると山木は鉛筆を持つ手を止め。こちらに向き直すのではなく、窓に向き直った。
おかしな行動をするのはいつものことなので何も思わないが山木は授業中も時々窓の外を
見ていることが多い。
「桜、科学室から鍵を持って来てくれないか」
「鍵ですか?」
「ああ、部室の鍵がまだ戻ってきてなくてな。そういう時は大半科学室に置き忘れてい
る」
「かがくしつ?どこですか?」
「ああ、南棟の空き教室だ」
山木は少し口ごもり、さらりと手元に「科学室」と書いた。
「ああ、その字ってそう言う読み方なんですね。初めて知りました」
「まぁそうだろうな。不必要だから先生たちも教えない」
「その言葉ってどう意味なんですか?」
「先生もそこまでは知らない」
「先生でも知らないのですか。それにしたって、空き教室に置き忘れるなんてその生徒さ
ん不用心ですね」
「まぁ、あいつらが悪いわけじゃないんだけどな」
擁護するような言葉を山木は付け加えたが何やら歯切れが悪い。
学校に侵入して何か盗むようなものがあるとは考えづらい。しかし、鍵を教室に置き忘れ
るというのはあまり良い事ではない。
桜は日誌を忘れた罰だと思って甘んじてその言葉を受け取ることにした。
「分かりました」
「教卓の上になかったら探さなくていいからな」
「どうしてですか?」
「そういう時は基本的に部員が持っている」
「ああ…」
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日誌を持ち職員室を離れ「科学室」に急いだ。もうあまり時間がなく、次の授業も始まっ
てしまう。
山木の口ぶりだと鍵を返すのに早さを求めていないようだったがやっぱり早めに渡した
い。桜はそう考えていた。
小走りで科学室に急いだ。
「科学室」その言葉には様々な憶測が飛び交っている。
それを話し合っている生徒がいたが桜はあまりそう言うことに興味がなかった。
興味がないというのが大半の生徒の考えであり、逆に囃し立てている生徒の方が少なかっ
た。
科学室に入る。そこには一人、ショートボブの生徒がいた。桜は軽くお辞儀をしたが生徒
は何か手元でガラス性の容器を右に左に動かしているばかりでこちらには目もくれない。
仕方がなく教壇を探せど、鍵は見つからなかった。
無い。
それでもいいと言われたが、桜自身が見つけられなかっただけで本当はあったなど言われ
ても困る。
教壇を隅々まで探すが、やっぱり見つからない。
その時ふと、ガラスの接触する音で振り返れば生徒の動かす手元に、鍵がある。
「あっ」
その思わず出た声に生徒は大きな眼鏡越しに桜をその瞳に映した。
群青色の短髪。
「どうしたんだい、僕に意見又は質疑でも?」
「その鍵、山木先生に持ってくるように頼まれていて」
指させば生徒は鍵を器用に宙にあげ、指でキャッチする。
「ああ、これかい。僕が預かっていただけでね、今は必要ではないから譲渡することは可
能だよ」
そう言い生徒は桜の目の前まで来て鍵を渡した。しかし生徒は桜を凝視して鍵を見てはい
なかった。その生徒は桜を穴が開く程見つめるのだ。
「あの、私の顔に何かついていますか」
生徒は眼を見開いた。端正な顔は前髪が短いこともあって大きな眼鏡以外に隠されること
はなく、その人物は尖った歯を見せて笑う。
「君、恋をしているね」
「えぇ⁈」
「そして、最近恋人にでもなったかい」
探偵かと思われるほどその人物は桜の現在の状況を言い当てたのだ。
桜は顔を赤らめて答える。
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「当たっていますけど、占いであてたのですか」
「明日、デートに?」
「占いってそこまでわかるものなのですか?」
そう質問してもまた生徒は話さなくなった。
動く様子もなく、目の前で手を振ってもなにも動かず、その瞬間急に桜の手を強く握っ
た。
「君、面白いね」
「え?」
生徒はそう言うや否や、表情の見えない顔から、人のいい笑みを浮かべた。
「僕はヒサギとでも呼んでくれ。君の恋愛にぜひ協力したいのだが。どうだい僕の手助け
があれば必ず君と恋人の仲は完璧に今よりもさらに上の段階へとステップアップすること
が早急に尚且つ安全に愛を深めることが可能だ。どうだろうか君の恋愛事情に手を加える
ことを許可してくれないか」
弾丸のようにヒサギと名乗った生徒は言葉を羅列していく。目を異常なほど輝やいてお
り、言葉は止まることがなかった。
「絶対に君と彼との関係に立ち入りはしないよ、君と彼の会話を邪魔することもしない。
そのいくつかの約束には必ず守るうえで君に協力しよう。どうだい?君には利益しかない
と考えられるが」
「その、あまり分からないのですけど」
「そうかい?簡単に言えばお手伝いがしたいというだけなのだが」
「貴方は」
「ヒサギでいいよ」
ヒサギは間髪も入れずに桜の言葉を修正する。
「ヒサギはなんでそんなにお手伝いをしたいの?」
「最初に言っただろう?君に興味があるからさ」
桜は何度も瞬きをして髪留めを触った。
「そう、光君のことを知っているからかと思った」
「目的は彼じゃないよ、僕の目的は君かな」
「私面白くなんかないと思うけど」
桜の目線が揺れる。あまりにもそう直接的な言葉で何かを言われたことが今までなかった
のだ。
ヒサギはそんな様子の桜を見てより一層笑みを浮かべる。
「そんなことないさ。僕の探求心は今君の恋に向いているからね!非科学的で実に興味深
いじゃないか。で、どうだい?僕に君の恋愛を手伝わせてくれるかい?」
桜は押しの強さにたじろぐ。
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そう言われても困る、と言うのが本音だ。科学と言うものがわからないのに。非科学とい
う更に理解できない単語を羅列されて知らない言語を話されているような気分になってく
る。
「何を言っているのかも分からないのに手伝わせるのは」
「そうか、では君は僕の誘いを断るのか、君はこのままの停滞しきった関係で満足をして
いるのかい?」
でも、確かに今のままじゃ、光と一緒に食事すするどころか、まともに話すこともできな
い。桜は意を決してヒサギに向き直った。
「うん。じゃあお願いします」
「ありがとう!」
ヒサギは元気よく言葉を返し、桜の周りでくるくると回りながら言葉を羅列していく。
「では桜君。第一の作戦だが、恋愛に馴れるためにはいくつかの方法がある。その中で君
に必要なものは二つだ。一つは自信を持つこと。そして二つ目がもっと強気で行くことだ
ね。二つとも違いはないが、それでも非常に重要な項目だ」
「でも、私。光君にいつもドキドキしちゃって上手く話せない」
「それの克服のためにその二つが必要なのだよ、君は光の何処が好意を寄せる理由になっ
たんだい?」
「それは」
一瞬だけ言葉に詰まった、どうしようもない理由が始まりだったから。
本当に、どうしようもない理由だ。
桜はヒサギから目を外して答える。
「彼の性格です」
ヒサギはニコリと微笑み言葉を続ける
「そうか、そうかい。ならば今回はもっと光と話してみるといい。彼からではなくもっと
君から話してみるんだ」
2286/11/04/17:30
「待ったかな」
「いいや、全然待ってないよ」
「よかった」
下駄箱で待ち合わせをしていた光はずっと前からここで待っていてくれたようで、申し訳
ない。日は陰り、烏の鳴き声がもうすぐ日が落ちるのがわかる。
「あのさ、光君って水族館好き?」
「ううん、そこまでの興味があるわけじゃなかったけど、桜と行ったら楽しいだろうと思
ってね」
桜は自分の顔がいつものように紅潮していく。
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ダメだ、ここで止まってしまえばいつもと同じになってしまう!
桜は必死に言葉を打ち返した。
「えっと、それだったらなんで動物園じゃないの?」
「桜は動物園の方が好き?」
「どっちも好きだよ、でもなんでかなって」
「明確な理由はないけれど、でも答えるならば、水の静かさの中で桜が見たかったって言
ったら変かな」
「そんな恥ずかしい事、真顔で言わないでよ…」
「そうかな」
でも、桜は素の感情を言葉を乗せるべきだと思った。
ヒサギが言うように桜は思いをそのまま言葉に乗せてはいなかった。
「でも、私も光君のそういうところ、好き」
一瞬光の動きが止まった。何かおかしなことを言っただろうか?
でも、ヒサギの言うままに行動すれば、桜は光と上手く話すことができた。
いつもは言葉がない時が多いのだ。
それに比べて今日はどうだろうか、いつもよりも和気藹々と話せていると桜は肩を弾ませ
ていた。
「光君?どうかした?」
「いや、何でもないよ」
「でもさっきの話だと、光君は水族館好きなんだよ」
「そうなのかもしれないね」
光は優しく微笑む。
そうだ、ここで今日ヒサギに言われた通りに桜は光の手を握る。
「光君、明日の水族館絶対楽しもうね、私。期待しているから」
そう言えば光は無表情で桜を見ていた。
え?何かおかしなことを言っただろうかと首を傾げると、光は更に感情一つ乗らない声で
尋ねた。
「桜、今日誰に会った」
「え、いつもと変わらない人たちと」
光は桜の目を見つめることもなく、周りを見て
「先輩、見ていないで出てきてくださいよ」
光は学校の側面方向を向いて呼んだ。何かがおかしい。
そうすれば近くの茂みからさも当たり前のような表情で大きな眼鏡を上げなおしながらヒ
サギが立ち上がった。
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「うん、まぁばれることも想定済みだった。しかし、そんなに威嚇するほどの事を僕がし
たかい、僕は桜に何の変哲もない毒にも薬にもならない助言をしただけだ。それに応えた
のは桜自身じゃないか」
光はヒサギの言葉に応えることはなく、ただ一心にヒサギを見ている。
「それともなんだい君自身も」
「桜は俺のです、手を出さないでください」
光は突然桜を抱き寄せた。なんで?!突然のことに桜は動揺してしまう。
桜は自身の心臓の高鳴りで思考をぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
その様子を見たヒサギの笑い声が桜の耳には入ってくる。
「ふふふ、あはは。そうかい。君はそうするのだね。まったく君たちは本当に面白い。し
かし、彼氏君安心してくれよ。僕はみる通り、女だ。スカートを履いているだろう?それ
が何よりの証拠だ。君の元から愛しい彼女を奪ったりはしないよ」
光の腕の隙間から見ればヒサギはあっけらかんとスカートの裾をつまみひらひらとして見
せた。
「これで理由としてたりえないかな?」
そうヒサギが上目遣いで光に問いかけた。口を弓なりに上げる。それは光への挑戦的な表
情であり、何かを試しているようにも見える。
光は腕を緩め桜を離した。
「光君、ヒサギは私に何もしてないよ」
桜が様子のおかしい光に助言をすればすぐに謝った。
「すみません先輩、勘違いをしてしまったみたいで」
「いや、先走って考えすぎてしまうのも理解できるからね。君が警戒するようならば僕も
これからは一切君たちの関係に口出しも手だしもしないと約束をしよう」
光はお辞儀をしてまで謝罪の表現をした。そこまでする必要性を感じなかったが。彼は申
し訳なさを感じていたのだろう。
「そうしていただけると助かります」
「君たちも僕に助言を求めなければの話だけどね」
「私もこれからは自分の力で頑張ります」
桜も今回は誰かに意見を求めたくなったのは事実だ。しかし、恋愛というのは誰かに助言
を求めるようなものではないと思った。なるべく自然体がいいのだ。どれだけ会話がなく
ても二人が楽しければ。
「あの、ヒサギ」
「何だい?」
「アトバイスありがとうございます」
「ふふ、僕こそ感謝を伝えるべきなんだ。こんな時期に君という人に会えてよかった」
ヒサギは二人を眺めにこりと笑みを浮かべた後、
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「よし、じゃあ君たちの愛を育み給え。僕はずっと君たちを応援しているからね」
そう言ってヒサギは校舎内へと戻っていく。
「光君とヒサギ先輩は知り合い?仲良しなんだね」
「いいや、あの人とは…特に何の関係もないよ。ただ名前を知っていただけ」
そう言って光は歩き始める。桜は一歩が大きい光においていかれないように少しだけ小走
りになる。桜は女性としては背が大きい部類なのでこの関係すらも特殊に感じる。
「明日の水族館楽しみだね」
唐突に光は呟いた。確認のような問いかけは確かに桜の耳に届き、桜は自分のできる最大
の笑みを浮かべて頷いた。
「うん」
物は表面上でしか見られない。人間は視覚嗅覚聴覚触覚その全てで判断をするしかない。
一方面から見える事だけが真実ではない、一方面からしか、人間はみることしかできな
い。
もう戻れない過去の思い出、偽物の夢。
誤魔化して、自分の心に嘘をついて。誰でもない、君自身が一番都合のいい夢を見てい
る。
2286/11/05/07:45
家の前で桜は待つ。一番大切な桜の髪飾りを付け、一番きれいな服を着てせめて光の隣に
立っても恥ずかしくないような服装をしなければいけないのだ。
「待った?」
「全然、待ってない。それよりも予定時間よりも二人とも早いぐらい」
時計を見れば予定よりも三十分も早い時刻を示しており、光は思わず吹き出していた。
「確かにそうだ、二人とも急ぎすぎだね」
「それだけ楽しみだったもの、光君も同じ気持ちだったから私は嬉しい」
そう桜が言えば光は笑顔で桜の手を握った。
「じゃあ行こうか」
空を見れば太陽が輝き、曇ることは無い。
その中光らない月が桜の視界に入る。
「ああ、もうすぐ満月だね」
光は桜の目線の先を見てそう呟いた。
「そうなの?」
「周期的にね、計算すれば分かるものなんだ。十二日は丁度満月になるかな」
「まだ先だね」
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「ああ、まだ遠い先だよ」
「そこまで遠くはないと思うけど、だってたった七日先なだけだよ」
「いいや、ずっと先のことだ」
桜は首を傾げた。
波を感じるような水槽の中、魚類の生物は優雅に流れ踊るように海の空を泳いでいる。
ドームのような構造のこの水槽は歴史的な構造で建造されており、今でもその美しさに魅
了され見に来る客は少なくない。
水族館は正式名所、水産課歴史博物館。
水産課の製造、出荷している魚を養殖もしているのだとか。
桜は思い出しながらパンフレットを見る。
「俺、水族館に来たのは初めてなんだ」
「そっか、来てみてどう?」
ガラス越しの海を見ている光は桜の眼からはどこか憂いているようにも見えた。
「いやだった?」
「そうじゃないよ、でも、ここにいる生物はみんな外の海を知らないんだと思って」
「でも、みんな幸せそうに泳いでいるよ。それに全部が全部海を知らないわけじゃない」
「でも、別の世界を知らないなんて、いやじゃないか?」
「そうかな、私は知らないなら。無いも同然だと思うけど…でも分からないかな」
事実、桜はそんな気分になったことがない。確かに都市の中から出た事は無い。だけれど
様々なことを授業で学び、外には何もないことを知っている。
大昔の戦争で何もかもが失われて。生き残った人々だけで身を寄せ合い生活をしている。
そして次第にその場所は「都市」と呼ばれた。
『外には何もない』それは決められた事実なのだ。
「魚っていうのは綺麗なんだね」
「うん、本当にきれい」
ドーム状のガラス張りを通り抜け、近くに看板が立っている。
「あ、あれ」
看板にはカップに入った白い物体のイラストが描かれており、桜は指を指して光の腕を引
っ張った。
それを見て光は首を傾げる。
「ここは?」
「水族館でしか売ってない特別な食べ物が食べられるの」
「へぇ、名前は?」
「何だっけ?」
配給員の前に行けば、鍋の中から白い物体を削り出しカップに入れる。
16
スプーンと共に渡されたそれを見て光は呟いた。
「『アイスクリーム』だ」
「これはそんな名前なの?知らなかった」
教科書にも載っていないことだった為、桜は驚いて「博識だね」と告げる。
光は口に運び、数分考え光は桜に問いかけた。
「適当に言ってみただけだよ。本当の名前はなんていうの?」
配給員はその声を聞き答えた。
「さぁ、立地上ここでしか作ることができませんから、特に名称はないです。私たちが
「『水族館にある食べ物』と言いましたらこれしかありませんから」
桜が頷けば光はそれを無言で食べる。
よほどおいしいのか、それともこの答えがお気に召さないのか、どちらかも分からずに桜
は手を握っては広げ握っては広げを繰り返すことしかできなかった。
「おいしいよ」
「本当?!よかった~!」
その言葉だけで桜は救われる気分だ。
「今日、たのしかったね」
「うん」
言葉のほとんどない帰り路。今日は特に光の言葉数が少なく、何か思い詰めているようだ
った。それもあって桜は不安だった。
自分のせいで不安にさせてしまっているのではないか、それ以上に今日私は幻滅させてし
まったのではないか、と。
その時、ふと光の言葉を思い出した。
「あのさ、今日光君が言っていた言葉」
「中と外の魚の話?桜の意見が聞けて俺も良かったよ」
「ちがうの、あのさ。私なりに考えて。最初から中しか知らないなら。それは無いような
ものだけれど、もしも外も知っていて中に来てしまったら。そうなったらきっと私は中も
外の隔たりがあることが悲しくなると思う」
それを聞いて、光は少しだけ目を広げた。
「そっか、桜はそう思ってくれるんだ」
「光君の意見に沿えればいいけれど、今の答えはダメだったかな」
「いいや、嬉しかった。俺のふとした疑問にそんなに真剣に考えてくれるなんて俺は幸せ
者だ」
「そこまで言わなくても…」
桜の顔がまた赤くなる。光のいつもの調子が戻ってきて安心しているのも事実だ。
「あのさ…」
17
光は少し先を走り、桜に向き直った。
その顔は日に当たり、輝いている。潮風が細い光の髪を巻き上げ、顔を見ることができな
い。強い風の中光は桜の手を取る。
「桜、君と恋人になれてよかった。桜が好きだよ」
その笑顔は本物の笑顔だ。
桜はこの日ようやく自然な笑顔を光に見せることができた。
「私も」
桜と名前を付けたのは誰だった?
君を愛したのは誰だった?
君の初恋の相手は誰だった?
君に一抹の恐怖もなかったのか?
君のごまかしだって分かっているのに?
これが桜にとっての始まり。
終末時計は止まらない。
物語はあの日から始まっている。
2286/11/05/09:00
確かにその日桜は髪飾りを付けていた。しかし、髪をおもむろに触った時にはもう、そこ
にそれは無くなっていた。
金木犀の香る生花を珍しく付けていたこともあってすぐに気が付くはずなのだが、その日
に限って全く桜は気が付くことがなかった。
「髪飾り?今日は珍しく付けていないとは思っていたけど」
どうやら友人と出会う前から落としてしまっていたようだ。
「そんなに大事なものなの?別に生花ぐらいなら落としてしまってもいいと思うのだけ
ど」
「そうもいかないよ、私探してくるね」
「あ、ちょっと」
教室を出て今日歩いた場所を探せばきっとどこかで見つかるはずだ。
桜は教室を飛び出し廊下を歩く。学年を問わずに様々な生徒が歩いている。
流石に入ったばかりの一年生と卒業間際の七年生との見分けはつくが三年や四年程度の年
齢の差はぱっと見では判別できない。
見るのは胸元に付けているリボンやネクタイ。色で判断できるのだ。
桜は金木犀の髪飾りをうつむきながら探すも廊下には見当たらず、雑踏の中探すのは困難
を極めた。
18
人の隙間を縫うように進み、床を眺めていたら先に光っているものがある。
「すみません」
足元を押しのけ手を伸ばせば、別の誰かの手が触れる。
「あっ」
振れた手の持ち主は黒い手袋をしており、金髪のツインテールに眼帯。桃色の瞳は桜を見
つめていた。
右目はこちらを見つめ、彼女は無表情で桜に問いかける。
「これはわたしのものだけど、拾ってくれたの?」
胸元のリボンは桜のリボンよりも深い藍色をしている。つまり六年生だ、桜は上級生だと
気がつき萎縮してしまう。
「ごめんなさい、探し物をしていまして、間違えて拾おうとしてしまっただけです」
「そっか、私の物と貴方の探し物は似ているものなの?」
桜が拾い上げたものは髪留めとは全く似ても似つかない小さな硬い箱だった。年季も入っ
ており、桜の探している黄色のみずみずしい金木犀とは何もかもが違う。
「いいえ、ごめんなさい。思わず拾い上げただけで私の探しているものとは全然ちがう」
「そっか、じゃあ見つかるといいな」
「ありがとうございます」
彼女はニコリとも微笑むことなく、その箱を持ち去った。
優しい人ではあったが服装もなんだか特徴的な人だったと、桜は呆然としてしまう。
しかし、そんなことをしている暇もないと雑踏の中また髪留めを探す。
毎日つけていることもあって、ないと思うとなんだか落ち着かないのだ。
ふと手が止まる。
「それに、あれがないとあの人が私を見つけてくれなくなっちゃうから」
そう呟いて桜はもう一度来た道を逆行する。
「結局見つからない?」
「そうなの。どれだけ探しても見つからなくて」
桜は肩を下ろし項垂れた。普段、凛としている彼女が猫背気味になる程に落ち込んでい
た。
「そっか、でも生の花なんでしょ。一日しか使えないようなものだし、諦めたら?」
「そんなことはできないよ、ちゃんと感謝を言ってから花瓶に入れて楽しんだり、種を植
えたりできるんだから」
「そこまでするんだ…。だったらさ、探すついでに演劇部の演劇を」
「桜、迎えに来たよ」
友人が言い切る前に光は教室の扉の前にいた。桜の顔は花を咲かせるように一瞬のうちに
笑顔になる。
19
「光君だ、ごめんね。演劇部に行くのはまた今度」
「…また今度」
桜は友人に手を振って光の元へと急ぎ、カバンを肩にかけ小走りで光の元に急いだ。
「光君、今日はちょっと探し物をしていて」
「何を?」
「髪留めを朝どこかに落しちゃったみたいで」
「そっか、なくても桜は十分綺麗だけどな」
桜はその歯の浮くような言葉に顔を赤くすることは無く思いつめたようにうつむいた
「大事なの、私はいつも花をつけていないといけない」
その言葉で桜にとっては一大事の事件だと光も理解できたのか。真剣に答える。
「…そっか、じゃあ一緒に探すよ」
「でも、もう朝来た道とかよく行く場所は何度も見て回ったけど見つからなくて」
項垂れる桜を見て顎に手を当て光は真剣に考える。
「それだったら、花だって言っていたし、鳥や生き物が持って行ってしまった可能性もあ
るかもしれない」
「そんなことあるかな…」
桜は光の言葉に確証が持てず、うつむくばかりだ。
「大丈夫だよ、きっと見つかる」
そう言って光は優しく手を握った。その大きな手に包まれると桜は少しだけ表情を柔らか
くさせた。
「ありがとう」
「とりあえず外を探そうか」
そう言って下駄箱で靴を履き替えれば周りの生徒がひそひそと小声で話しているのが聞こ
えてきた。それよりは大勢の人が話しているというのが正しいのだろうか?
桜は疑問に思いながら靴に履き替え外に出れば、『部員募集!』『求ム!新入部員!』と
大きく黒字で書かれた木製のプラカードを掲げ、腕を組む生徒がいた。
背後からは調子良く風が吹き、ツインテールが揺れる。
桃色の瞳はまるで恒星のように左で光り輝いた。
夏が戻ってきたようにその日は暑かったこともあり、太陽の光が彼女に降り注ぎ黄金を反
射する。
とんでもない人がいると、周りは避けて歩いているのだ。
桜も思わず一瞬目を細めてしまう。それほど一身に太陽の光を浴びて仁王立ちしているの
だ。
「さ、じゃあ校舎裏から探してみようよ」
桜が驚いていると光が何も見えていないように桜の手を引いた。
「あ、光君そっちは」
20
平然とその少女の目の前を通り過ぎようとすれば、恒星はこちらに向き直り、足を一歩踏
みだした。
「君!!」
肩を揺らす程度の大声で二人を呼び止めた。
旧時代の農機具のように、ギギギと音の鳴りそうなほどゆっくりと桜は振り返る。
「はい、今日昼に出会った方ですよね、なにか…」
小声に近い声で尋ねれば、更に目を見開き大きな声で答える。
あの時会ったときはこんなにも明るい表情をしなかった。
「わたしは『不思議調査団』部員!千成だ、記憶に留めておいてくれ、そして後ろにいる
のは同じく部員の日
にち
だ!」
後ろには陰に隠れているような髪色と瞳でこちらを睨んでいる少年がいた。本当に千成の
陰に隠れているので暗い髪が更に漆黒のように黒くなる。そのせいもあって彼の身につけ
る黄色のネクタイが良く映える。黄色、つまり三年生だ。
「その…お二人がどうして私なんかに?」
「無論!君に勧誘を持ちかけるためだ。五年生桜、そして光。君たち『不思議調査団』の
一員として勧誘をする!」
「かんゆう?」
「そうだ、一部の生徒からの意見もあって君たちは素質が十分にあるとわたしの独断
だ!」
彼女は声が枯れそうなほどの大きな声で話すので桜は驚き肩を何度か揺らしてしまうが、
それを聞いて光は冷静に言葉を返した。
「僕たちは貴方が言うような行為も行動もしていませんが一体誰からの意見なのです
か?」
まるで分り切っているように光は尋ねるものだから、桜の脳裏にあの大きな眼鏡の少女を
思い出してしまった。
「それは匿名だと言われているので名前は伏せる!だがわたしも実際、桜と話したから思
う、君たちには十分素質がある!ので正式にわたしは君たちを勧誘しに来た!」
胸を張りもう一度彼女は木製のプラカードをまるで旗のように掲げ宣言した。
「この学校の奇々怪々な不思議や奇妙な事件を調査する!不思議調査団の一員にならない
だろうか!」
「お断りします」
桜はその勢いに押されそうになるが光は桜の口を手で押さえて冷静に淡々と答えた。
「なんでだ!この学校内の謎を解明するのはとても楽しいというのに」
「俺たちには関係のないことです。それに今はやることがありますから」
「少しでも話を聞いてはくれないだろうか?」
21
「聞きません」
光は千成にやけに冷たく、徹底して聞く気もないようだ。光の表情は笑みを浮かべたまま
だが、明らかに笑っていない。
「おいおまえ。その態度はないんじゃないのか」
「押し売りは迷惑だと知らないのか」
一言も話さなかった日が急に噛みつくように光に一歩踏み出した。まだ三年生だというの
に睨むその黒は鈍くぎらついている。それだというのに光は平然と言葉を返した。
「俺が公務課の人間だと知っての発言か」
「え、あなた…公務課なの?」
桜は思わず口を挟んでしまう。
公務課に学生の内から選ばれるには、政府から公認されスカウトされなくてはいけない。
公務課にスカウトされた生徒は優秀に取り繕う人が多いというのに、日は態度悪く桜をも
睨み言葉を続ける。
「ああ、俺は公務課に選ばれた優秀な人材。それがお前らに頭を下げているんだぞ。入部
の勧誘をしているっていうのに、お前は受ける気がないのか?」
「ああ、ないね」
光は当たり前のように即答する。
日はピクリと眉を動かす。
ひりついた空気に桜は言葉を発せなければならないと口を開くが、
「まぁいいさ、二人は落ち着いて。そこまで言う必要はないよ。わたしには君たちが必ず
部室に来たくなるような言葉を持ち合わせているのだから」
一触即発と言った空気を破ったのは千成であり、溌剌にその言葉を言い放った。
「何よりもわたしは桜が探す落とし物のありかを知っている」
「髪留めの場所を知っているのですか」
「ああ、違う違う。それを知る人物を知っているんだ」
桜は首をかしげる。知る人物ということは金木犀の髪留めを持っているということではな
いのだろうか?日は口をすぼめ、補足を加えた。
「うちの部長、そういうのすぐに教えてくれるからな」
「部長は学校で起きることはなんでも知っているからね!」
桜は息を呑んだ。何とも不思議で正直疑わしいが、ここまで探しても見つからなかったん
だ。その人物に会うのも手かもしれない。
「光君、どうしよう」
尋ねれば、光は桜の眼を見て微笑む。
「じゃあ行ってみようか。だけど怪しいから、気を付けよう」
「怪しくなんかないけどな」
どうやら光と日は相性が悪そうだが。
22
光と桜の言葉を聞き、千成は目を細め大人びた調子で微笑む。
「じゃあ行こうか、我らが『不思議調査団』の部室へ」
2286/11/05/15:29
千成と日に連れていかれた先は最上階の四階。喧騒から離れて、無人の廊下が広がってい
る。
「ここって使用禁止だったはず」
桜が問いかければ千成が得意げに言葉を返した。
「『一般的』にはね。しかし、ここも部室棟の括りに入っているからね、使用は可能なん
だ」
「ただ隔離されているというのが正しいと思うけどな」
「日~そう言わないの」
千成が日の肩に腕を回せばうっとおしそうに日は身を下げ、なんだかんだ仲がよさそうに
二人は歩いている。
「まぁ実際には部長がこの部屋に居座っているから、この部室なのだけどね」
「部長さんが居座っているのですか?」
「うーん、まぁそうとしか言えないしねぇ」
「千成さんも公務課なんですか?」
「いいや、私は水産課。毎日魚をさばくお手伝いをしているよ」
「え、それにしては仲がいいですね」
学生の内から公務課の人間はどこか、気高いというか、プライドが高い人間が多く、公務
課の人間と仲良くしているというのは少し疑問があったのだ。
千成は桃色の瞳を細めて首を傾げた。
「そうかな?でも、どの課とも、どの人とも仲良くなるのはこの学校の中では禁止されて
ないよね」
「そうですよね、ごめんなさい」
日はその言葉に噛みつこうと口を開いたが、千成の言葉で押し黙る。
「いいや、咎めたかったわけじゃないよ!」
わはは、と千成は笑い桜をなだめながら、一室で止まった。
『多目的室』と書かれた紙にさらに上から『不思議調査団』と書かれたプラカードを引っ
さげた教室の扉だ。教室の構造なんかどこも同じだがこの階の教室はどこか他と違う、異
質な雰囲気を感じた。
「部長~期待の新入部員候補を連れてきました!」
千成が声を張り上げ扉を開けは風が吹き込んだ。
まだ夏の名残を感じる風の中に薄水色の髪を攫わせる。
23
空き教室は必要のない予備の机や器具を雑に押し込められている。そして何より、埃とチ
ョークの匂いが充満している。
そこには机の密集地の上で外を見ている少女がいた。
「制服じゃない」
胸元のリボンは確かに青であることは間違いがない。だけれど、それはこの学校の制服で
はなかった。教科書に載っているような時代錯誤を感じるセーラー服と呼ばれるそれを見
るのは桜にとっては初めてであり、動揺してしまう。
「部長、五年生の桜と光です」
千成は興奮気味に話すが部長は全くこちらを振り返る気もない。
「声、届いていますかね」
「多分?」
「多分って」
千成は首をかしげるものだから桜は一層不安に感じ、助け船を求めるように光の顔を見れ
ば彼は桜に微笑みを返した。
「貴方が桜の探し物を知っていると聞いたのですが。ああ、俺たちはこの団の部員になる
つもりはありません」
「えーここまで来たのだから!どうせなら、入団テストぐらい受けて行ってよ!」
「この部に入る為だけにそんなものが必要なのですか?」
「必要に決まっている。おれたちは生半可な気持ちでこの活動をしているわけじゃない。
それに部長が認めた人しか入部はできない」
日は腕をくみ扉前で桜と光を睨みつける。
「他の子たちは大体わたしとか、日が原因でここまで来てくれないのだけどね。ってこと
で部長!さぁ入団テストを!」
千成はそう叫び、ようやく部長は振り返る。
桜は息を呑んだ。空よりも透き通る二双の水晶玉がこちらを捉えたのだ。部長は二人の顔
を瞳に映してゆっくりと瞬きをした。
「ワタシは貴方の探し物がどこにあるか知っている」
桜は息を呑む。
「この学校のすべての事象すべての事実をワタシは視ているから」
「でしたらどこにあるのかだけ教えて頂けますか?」
そう冷たく光が言えば口を開いた部長は数秒後に窓の外を指さした。
「外には四本の木がある。そのどれかの根元に貴方の探し物が落ちている」
「それが入団テストの謎?」
千成は気分を上げて部長に尋ねれば、更に部長は補足する。
「答えは三である」
「答えも言うのか」
24
日は思わず声を出す。
桜は混乱する。答えを出されてしまえばその木の根元に行けば金木犀の髪飾りを見つける
ことができるはずだ。
しかし、謎なのにどうして答まで言う必要が、桜が顎に手を掛けて考えれば、光は引きず
を返し扉を開いた。
「ありがとうございます。それじゃあ桜行こうか」
「今ここで場所を導いて」
「何だって?」
「場所はもうわかる。だから宣言をして」
部長はその瞳で光を映した。
「おれたちもそうしてもらわなければここを通すことはできない」
そう言って背後に日と千成も立ちふさがった。
つまりここでどの木の下に髪飾りがあるのか宣言しなければならないのだ。
桜は必死に頭を動かす。四つの木が何を示しており、どれが三の数字が入るのかなど分か
るはずがない。何が三を示す?
髪を触るがそこには髪飾りがない。
どうしよう、目を右往左往させて考えるも思いつかない。それを見かねた千成が腕組をし
て確かと言葉を口に出す。
「うーんあの木の違いが分かればなんとなくわかるような気がするのだけど」
木の種類…桜が言葉を溢した。
「一番右の木は桜の木です、そして真ん中の木はムクゲという夏に咲く白い花。隣がイチ
ョウ。それで一番左がマツの木」
「桜は植物に詳しいんだ!」
「作物課所属ですから」
「ふぅん、随分と将来に意欲的なんだな」
「そうですかね、普通だと思いますけど」
日は口をとがらせ押し黙った。しかし、それがわかったからといって答えがわかるわけで
はない。どうにかして答えを。なにか共通点をと考えるが導きだす方法がわからない。
光を見れば彼は桜を見てそのまま部長を見据えなおした。
「場所はイチョウの木、あの木の下に桜の落した髪飾りがある」
部長は目を動かして彼を映した。
「理由は?」
「簡単だ、学年の色と共通のものを探せばいい」
学年の色のネクタイ又はリボンを胸につけなければいけないというルールがこの学校には
ある。一年生は赤。二年生はオレンジ、三年生は黄色、四年生は緑。五年生は青、六年生
は藍、七年生は紫。そう決まっているのだ。
25
光はすらすらと答えを出した。
「イチョウは秋には黄色に色づく、そして三学年の色は黄色。それが答えだ」
部長はその言葉を聞いて水晶玉のような瞳を伏せて呟いた。
―嘘はどのラムリア?―
「それは」
光は何か聞き取ったようだが桜は首を傾げた。
「そう、じゃあ見に行ってみて」
「正解か不正解か言わないんだな」
日は尋ねるが部長はまた外を見つめ押し黙った。
「待ってくれ…それは…」
光は何か言いたげに口を濁らせた
「どうかしたの?」
光は桜の目に見て
「桜行こうか」
「う、うん」
桜は強引に光に手を引かれ、導かれていく。
日も千成もついてくることは無かった。
部長はすでにこちらを見ることはない。まるで最初から興味など持ち合わせていなかった
かのように外を眺め続ける。
「本当にあった…」
木の根元には確かに金木犀のみずみずしさを残した髪飾りが大事そうに置いてあるのだ。
「誰かが拾って分かりやすいこの場所に置いといてくれたみたいだね」
「でも誰が」
「ほら、上を見て」
「あ」
頭上にはモズの巣がある。
そうか、どこかでモズは私の落した髪飾りを取っていったんだ。
「でもなんで部長は分かったんだろ。あの場所でずっと見ていたのかな」
「きっと、あの場所から偶然見えたんだ」
不思議な雰囲気の女性であったことは間違いがない。それもあって桜はその光の言葉に嘘
だと真っ向から否定することはできなかった。彼女ならばそれを成し得る。千里を見通す
目を持っていると言われても納得してしまいそうな雰囲気がそう思わせたのだ。
日は陰り、空の色は濃い青に変わりつつあった。
「そろそろ帰る?」
「そうだね」
26
光は手を差し出した。桜も少しだけまだ顔を赤らめながら手を握り返す。
「光君、どうしてあの謎すぐにわかったの?」
「桜のヒントがなければ分からなかったよ」
恥ずかしくなり桜はまた顔を赤らめてしまう。
「ありがとう。今日はいろいろあったけど、たのしかった」
「桜がそう思えるなら、でも、あの人たちは少し危険だ」
「光君考えすぎだよ」
光は押し黙るが、桜は千成や部長が怪しい人だとは思えなかった。まぁ日は少し気難しそ
うではあったが子供らしいと言い換えれば正しいような立ち振る舞いをしていた。
「光君また明日ね」
「ああ、また明日」
お互い手を振って帰るべき場所へと戻っていく。
薄暗さで夜道は遠くまで見ることはできない。光の顔すらまともに見えなかった。
光は次の日から学校には来なかった。
闇の中忽然と、ただ忽然と君が消えた。
27
2286/11/11/16:03
光が来なくなってから一週間が経過した。桜は最初の内は平和思考で、何か事情があって
こないと、そう思い込んでいた、そう思い込むことしかできなかった。しかし、彼は一度
たりとも姿を見せることはなかった。
桜を呼ぶ声はあっても、それは彼ではない。
「桜、やっぱりあの人まだ学校に来ないの?」
そう問いかけるのは目の前の席の友人だ。机に顔をうずめ桜はうなずく。
「なんでなんだろうね、普通三日も学校に来なかったら公務課が動くのにそんな気配もな
い…行方不明とか?」
「そんなことない、行方不明になるのなら噂にもなってないのは絶対におかしい」
桜は思わず大きな声で言った。
「悪かったよ、そうだよね」
でもどうして?何も言わずにいなくなるなんておかしい。桜の頭はずっとこの考えが拭え
ないままだった。
「とにかく彼氏の家でも行ってみたら何かわかるかもよ?」
連絡方法など手紙か直接会いに行くかその二択しかない。だったら実際に家に行くのが早
い。桜が頷くと目の前の友人は立ち上がった。
「じゃあ、部活だから行くね」
桜は手を振って友人を見送り、一人きりになった桜はうつむいてしまう。
「なんで?」
空を切った言葉の後、一瞬の陰りがよぎる。桜の目の端を落下していく。窓を見るがそこ
には誰もいない。
桜は首を傾げ彼女もカバンを背負い学校のから出る。
配給された靴はまだ真新しい。
木々の揺れる音、部活を行っている生徒のかけ声が聞こえてくる。それぞれの課の業績を
伸ばすために鍬や農機具を背負い歩いている生徒もちらほらと見かける。
いつもの景色に安心感を覚えている、それなのに。桜の心はぽっかりと穴が空いてしまっ
ている。
光は一体どこに行ってしまったのだろうか?
空には青さも濃くなりつつあり、モズが飛んでいる。畑道を一人で歩くのも久しぶりだ
と、桜は感じた。いつも隣に、光がいたのに今はいない。
しかし、彼の住む家に行けば、彼がどうして学校に来ないのかがわかるはずだ。
そう桜は拳を握りしめるが。ふと、足が止まる。
鳥の鳴き声、畑を耕す牛の鳴き声が脳に入り込む。
青臭い匂いと、燃えた農作物の匂いが広がる。
「私、光君の所属している課を知らない」
28
桜は光の所属している課も、学年も、家の場所も、誕生日も、何もかも。
その何もかもを知らない。
じんわりと汗が手に浮き出る。汗は噴き出てくるのに背筋が凍る。
思い出そうとしても、何も、何も何も。
彼の情報が何も出てこないのだ。
出てくるのは、光ではない。あの人の情報だけ。
「そんな、そんなことはないのに!なんで」
桜は自身の中で光が消えかかっているような恐怖が波のように流れ込んできた。
足はしっかりと地面を踏みしめているのに、この視界は確かにこの景色を捉えている、は
ずなのに。
彼の実感だけが薄れ始めている。
確かに手に触れて、握り返して。
それでいて笑いあったはずなのに。
どうして。
2286/11/12/07:48
次の日、桜は教室に行くのも忘れ一心に階段を上り、職員室の扉を開けた。
それ以外は考えられない。
「先生、山木先生」
山木は騒めく教員たちとは打って変わりいつものように、窓から目を反らした。
一層隈がひどく、疲れているようだが、桜にはそんな差異、関係がない。
「先生は光という生徒を知っていますか?何課で何学年の生徒なのか知りませんか」
肩を上下して、言葉は咳を切ったように早口で錯乱しているのがありありと分かった。
しかし、山木先生は落ち着いた調子で光と言う言葉に一瞬だけ肩を揺らした後、調べよう
ともせず、答えた。
「光という生徒はこの学校に在籍していない」
「嘘です、私はじゃあ誰と」
誰と私は今まで話して笑って、恋をしていたって言うんだ。
「そんなに気になるなら調べればいい。それが事実なんだ。桜の見ていたことは夢だ。忘
れろ」
「そんなことできません、だって、だって!」
涙で瞳を潤ます桜に平然と、何のためらいもなく伝えるのだ。
山木の分厚い眼鏡の底、濁った重い瞳には何も感情を見せることはない。ただそれが事実
だと、本当のことだと。伝える言葉はあまりにも非情に桜の心に突き刺さった。
職員室は騒然となり他の職員に尋ねられ、桜は全く同じことを尋ねた。
しかし、どの資料にも、どのページにも「光」という生徒の名簿は存在しない。
29
最初からいなかったかのように消えていた。山木は最初から分かっていたのだ。
桜の頭はぼうっと遠くなるどうして…
教員の声が聞こえてくる。しかし桜の耳には何も届かない。どうして、なんで。
そんなことは無いはずなのに、光君に私は恋をして、付き合って、デートだってした。そ
れが全部、私の想像だったの?そんな事無い、そんなことないはずなのに。
こんな時、友人の声でも良かった。誰かに光の証明をしてほしかったのに。
孤立感が一層際立って、足元の岩が身動きも取れないほどに縮まっているようで、ここか
ら一歩でも動いてしまえばバランスを崩して地の底へ落ちて死も合うような圧迫感があ
る。でも、私には何もできることはない。
廊下を歩く、その足取りは重い。重りを付けているようで、じゃらじゃらと、引きずりな
がら、どうにか一歩、また一歩足を動かす。
動かす意味も分からない。
桜は髪留めを触る。
『やっぱり君には桜が似合う』
そう言ってくれた彼が帰ってきたのだ。
そう言ってくれた彼がもう一度帰ってきた。
ならば二度目だってあるはずだ。
二度目がないというのであらば、辻褄が合わない。ならばなぜ一度彼は帰ってきたんだ。
桜は決心した。
彼の周りで何かが起きて、ここから離れてしまったのだ。それならば、私は彼を待とう。
どれだけ辛くても、きっと彼の方が辛いから。
私も彼を信じて待てばきっと、きっと彼は私の前に現れてくれる。
信じて願って、祈って待っていれば。
そうすればきっと彼は帰ってくる。
そうすれば彼はもう一度、もう一度帰ってくる。
偽善の信仰でも盲信でもいい。桜は彼を失いたくなかった。
時間通りにチャイムが鳴る。廊下に出て、今日もいつも通りに帰ろうか。桜がこの学校か
らいなくなってしまえば光が悲しむ。桜は悲しむ光を見たくはない。
廊下に出れば以前のようにそこには桃色の恒星が道を塞いでいた。
金髪を輝かせた少女は仁王立ちで立ち塞がる。千成はプラカードを依然として持ちながら
自分よりも背が高い桜を見ていた、目を見開き彼女は叫ぶように桜の名前を呼ぶ。
「桜!部活動にもう一週間は来ていないけど、入部はしたんだから来ないの?」
「もとより、入部なんかするつもりは」
「いや、入部テストをクリアした時点で入部したようなものだよ!」
30
千成は以前のような叫び気味の声でそう言う。周りの目が痛く刺さるがそれに千成は物と
もしない。千成の後ろから平然と日がいつものように出てくる。
「あいつは?」
「そう、彼は?光も私は探していたんだけど、見つからなくて!」
「光君は…今はいません」
桜が目を反らせば千成は変わらない表情で首を傾けた。
「どうして?」
「いなくなったんです」
腕を組んでいた日はその言葉を聞いて、一歩桜の方に踏み出した。
その顔はみるみると悲痛なものに変わっていく。
「いなくなったって、理由はなんでなんだ?」
「分からないけど、きっと帰ってくるから」
「分からない?本当に帰ってくるのか、家には行ったのか?目の前で死んだとか、理由
は」
「公務課なんですよね、逆に知らないんですか」
桜の言葉に更に、日は顔を歪めた。
「しらないよ、俺は、なにも。何もわからないんだ。だから教えろよ、なんであいつは消
えたんだ」
「日」
日が一歩一歩桜に近づく、しかし千成はそれを止めた。
「桜、わたしたちに教えてくれない?何があったのか」
桜は唇をかみしめながら言葉を零す。
「光君は、皆さんと会った日から姿を消しました。そして私は探そうとしたけど、私光君
のことを何も知らなくて。学校にも在籍していないと言われて」
千成は桜の言葉にうなずく。
「それで、桜は光を探すのね」
「いいえ、探しません」
「は?」
日は言葉を零す。
「なんでだよ、普通探すだろ、探して探して探しまくらないと、何も、何も見つかるもの
も見つからないだろ?なぁ!」
「ッ!光君がいなくなったのは何か理由があるんです。だから私は光君が帰って来るまで
待つ。待ったらきっと帰ってくるから!」
「そんなんで帰ってくるはずがないだろ!」
「帰ってこない道理もない!」
31
日の瞳が零れそうなほど開く。悲鳴のような言葉は桜の肩を震わせるには十分で、そして
日の顔は桜以上に恐怖に染まっていた。呼吸は荒く、過呼吸気味だ。
「探さなきゃ、何もわかりはしないんだ!」
「日、にち!違う、李月の話をしているんじゃない!」
手を上げた日に千成は背後から手首を握った。桜は李月という名前を理解できないまま。
日は呼吸を抑えていく。背後の千成の顔と桜の顔を交互に見て目を反らし、舌打ちをして
そのまま日はどこかに行ってしまった。
桜は日の覇気に押されてしまい、その場で座り込む。あんなに叫んだことも桜には初めて
の出来事だった、まだ歯が鳴る程の恐怖が桜の全身を震わせた。
「ごめん、日も日でいろいろあったんだ」
「私こそ、ごめんなさい」
「何を謝っているの?それよりも」
千成は座り込んで手を差し出した。桜はそれを握ろうと手を出すが
「桜は光がなんでいなくなったのかは知りたくないの?」
「え?」
桜が見上げた千成の顔からは笑みが消えていた。あの初めて会った日の千成だ。千成の言
葉から次に出た言葉は彼女の真実であると桜も理解ができた。
「だって急に消えたんでしょ?それを知りたくはないの?」
桜は知りたい。だけれどそれが自分のせいだったら?それが怖い。桜の口から洩れる声は
うめき声にしかならない。桜はただ彼が帰ってくるのを望んでいる。それだけ、だけれ
ど。
「わたしは知りたい。なんで消えたのか、なんでそれが今なのか。なんで桜の恋人になっ
たのか、その全部をなかったことにはしたくない。知りたいのなら、怖くても、その理由
が知りたいなら。この手を取って」
恒星が輝く。
本当に知りたいと、願うなら。取るべきだと桜は考えた。でも、それが。もしも。
手が震えてしょうがない。でも。
光の姿がよみがえる。でも、私は彼が好きだ。
桜は震える手で、千成の手を取った。
「これで私と桜ちゃんは仲間だ」
千成は叫び気味の声でいつものように笑い、桜を強引に引き上げた。
「それで千成さんはどこに…?」
「もちろん、部長のところに」
千成は言葉を続ける。千成は桜には振り返らない。
桜は部長の事を思い出す。夏の香りを残す髪。二双の水晶玉を思い出す。
32
『ワタシはこの学校の全ての事実を見た』
そう言っていたのだ。確かに彼女ならもしかして、そう微かに希望を感じられた。もしか
したら彼女なら何かを知っているのかもしれない。
桜は期待と不安、興味と何も知りたくないという感情、何もかもをないまぜにして階段を
上る。
廊下に差し込む光に、桜は今の状態を見出だしてしまう。
室内に差し込む光に今は救いを求めてしまう。
ただ今は光が消えた真実が、理由が知りたいのだ。
扉を開けばあの日と変わらず、何一つ変わらず彼女は机の上に座っていた。
窓の外を見て微睡む彼女がそこにいる。何一つ変わらない動きで二双の水晶玉を此方に覗
かせた。
陽の光を透き通して輝く、惑星のような彼女。
睫毛に隠れた瞳は、何の感情も映さない。
生気のない瞳で彼女は桜を見るのだ。
桜は息を呑む、口が乾いている。
それでも、私は。口を開いた。
「私は光君のいなくなった理由が知りたいんです。教えて下さい。彼がいなくなった理由
を」
部長は音もなくふわりと妖精のような動きで立ち上がる。
空気が彼女の髪を巻き上げる。彼女の薄い青が太陽の光を反射し輝く。
部長は桜に一歩足を踏み出し、薄い爪を突いたゆびを喉に突きつける。
「ワタシはこの学校の全てを視た、事実をすべて知っている」
部長のゆびは下に下がり桜の胸元で止まった。
「光を見つけたければ、光の事実を知りたければ」
部長は桜を見つめる。至近距離で彼女の瞳に桜の姿が映りこんでいるのが見える。
「不思議を知り、解明しなさい」
風が部長の髪を吹き上げた。セーラー服が風になびく。
彼女は最後に唇を震わせた。零れ落ちる雫の声は確かに桜の耳に入り込む。
「ワタシはニル」
ニルは水晶玉の瞳で桜をただじっと眺める。
それだけのことだが、桜にとってはこの言葉が、この言葉がすべてを導くのだと。確信も
預言でもなく、事実としてそこにあった。
決意の熱を帯びた桜が、ニルの瞳に映っていた。
「正式入部おめでとう!」
千成は叫びながらも桜の肩を優しく叩き、軽い称賛をした。
33
「光が、不思議に繋がっているって本当ですか?」
桜が尋ねてもニルはまた無言になり、いつの間にか窓際で微睡んでいた。
「あの、話を」
「部長、あー。まぁ彼女がニルって名乗ったのならニルでいいか。ニルは私が入部する時
もこうだったの」
「え?千成さんもですか」
「うん、そう。でも、わたしはニルを信じている。だからそれ以上は聞かない」
桃色の恒星には迷いがなかった。桜はその瞳を信じるしかないのかもしれない。しかし、
これだけというのは些か情報不足すぎると桜は不安になった。
千成は表情をぱっと明るくしていつも通りに叫び気味に桜に言葉を投げかける。
「さぁ、じゃあ不思議の探索に行こう!」
「いきなり可能なんですか?」
「まぁね、わたしも一つの不思議はすでに探求済みだよ。更に新たな二つの不思議も既に
知っているからね」
自慢げに千成は指を振りながら話す。
桜は驚いた。ああやって毎回団員を募集しているだけではなく、実際、不思議について調
べていたなんて。
「その二つの不思議ってなんですか」
「ふ、そのことを聞くかぁ。じゃあ話してあげよう!不思議の一つ、「飛び降りる生徒」
窓の外を見ているとたまーに、恨みを持った生徒が飛び降りているのを目撃してしまうと
か。そして二つ目は「終わらない演劇」とか?だって」
「演劇ですか?」
桜は尋ねれば千成は頷き話を続ける。
「なんか、こっちは最初の不思議よりも情報が少ないのだけど。終わらないでずっと劇が
続いているんだって。見たら最後、役者にさせられて死ぬまで演者として舞台に立ち続け
るとか」
「死ぬだなんて怖いですね」
「いまいちどこが怖いのかも分からないよね。それに何かもよくわかってないし」
「え?」
「え?ああ。そうだよね。怖いよね。うんわたしもそう思うな」
千成は乾いた笑い声を上げくるりとその場で回ったかと思えば黒板の文字を見た。
桜も見れば文字とは思えないミミズのような線が続いているだけだ。
「日は『終わらない演劇』を探しに行ったみたいだね」
「え、これ。文字ですか」
34
「いつもはもっと優しい字を書くのだけどね、相当急いでいたみたい。まぁ桜にあんなこ
といった手前会えないって言うのは理解できるけどね。じゃあわたしたちはもう一つの不
思議『飛び降りる生徒』でも探しにいこっか」
桜も今は日に会うのは少しだけ気まずい。その為、千成の言葉に頷き、桜は教室から出よ
うとしていた。
「あの、千成さん。解決した不思議というのはどんなのですか?」
不思議が光に関係しているのならばその一つというのも桜は知る必要がある。
千成は扉を開け、金髪のツインテールを揺らして答える。
「『燃える向日葵』の話かな。あれはね、噂になっているだけで大した話じゃなかった
よ。不思議ですら、怪談ですらない。ただの、話が独り歩きしただけのものだ」
通常不思議なんてものはそんなものばかりだと思うが、と桜は首を捻り、千成は桜の不思
議がった様子を見て笑った。
「最終的にはわたしと日が作ってしまったようなものだけどね」
いたずらっ子のように舌まで出すものだから桜も流れて笑ってしまう。
教室から出て、振り返ればニルの姿はない。
彼女が微睡んでいた窓辺には誰もおらず、そこにはただ風で巻きあがったカーテンがある
だけだ。
「千成さん。ニルはどこに?」
「ああ、たまに忽然といなくなる時があるんだよね」
「そうなのですか?」
「わたしと日が話して意見を求めようとしたらすでにいなかったり。彼女、音を消してい
なくなるのが上手いんだ」
首をかしげるが、桜は千成に呼ばれ、屋上に赴く。
屋上は『不思議調査団』のある四階にも誰も出入りもしないこともあって当然のように誰
一人として生徒はいなかった。
「広いですね」
「そうかもね、でも、誰もいないからって変な事しちゃだめだよ?普段誰も入らない場所
だから足元気を付けてねー」
桜は千成の言葉を気に留め石橋を渡るが如くゆっくりと足を踏み出しているのにうって変
わり千成は安全を証明するかのようにふわふわと歩みを進めた。
桜は網目状の柵に手を掛ける。軋む音は鉄に近い。だけど、質感は鉄より柔らかく、鈍
い。
学校を構成するものは古代に作り上げられた旧時代の遺物。
今は作ることができないものだ。それが今でも学生でも触れるというのはなんだか桜にと
ってとても不思議なことに思えた。
35
通常水族館や植物園のように歴史的建造物のはずなのにこんなに距離が近いのかと。
「なんかあった?」
千成が桜の顔を覗き込む。
「いいえ、特にないですね。ですけど、ここから見る景色はとても広い、それにとても風
が強い」
「え⁈なんて?!」
強風でほとんど声が聞こえていないのか、彼女の叫び気味の声でようやく聞こえる程度だ
った。
「ここから!見える景色は!綺麗ですね!」
桜も負けずと声を上げるがしかし、聞こえていないようだ。
桜はしょうがなく学校内に戻った。
「あの場所で会話をするのは無理だね。それに生徒が来ないのも納得できる」
「危ないですもんね、もしかしたら、飛び降りた生徒というのも飛び降りる気がなかった
のかもしれません」
風でバランスを崩し、それで事故で死んだのではないだろうか。その考えは千成の言葉で
簡単に瓦解する。
「でもあの柵は結構高いよ?私の身長の倍はあるし、そんな簡単に飛び降りるのはむずか
しい」
桜は千成と同じく顎に手を当てて考える。
確かにあの柵を飛び越えるほどだったら何かしらがないとおかしい。飛び降りる必要性が
桜には理解できなかった。千成は首をかしげもう一度屋上に向かった。
千成を追いかけ、千成は金網の前で止まり、金網を思いっきり揺らして見せた。
しかし、それは当たり前のようにぐにゃりと曲がり、そしてゆっくりと元の形に戻ってい
く。
この由縁もあって二千年この建物は劣化も退化もせずにこの場所にあり続けている。
壁を殴れどもその穴は自然的に、歪んだものは直り。欠損した場合はその場所が埋められ
ていく。まるで人間が傷を治すように。その建物は修復される。これは旧時代の全ての建
物における一般常識だ。
桜たちはやはりといった表情で校舎に戻る。
「千成さんなんでいきなりあんなことを?」
「あれはこの建物の一部じゃないかもしれないと思って、でも違ったね」
「千成さん。普通ああなるんですから穴でも開いて指の巻き込み事故?あったと校内で注
意喚起されていましたから、気を付けてくださいね」
「そうなっても別にいいけどね、そうなったらそうなったで最高だよ」
「千成さん冗談でも酷いですよ、それは」
36
「あ、あはは。張り紙もいっぱいあるからね、わたし先輩だよ?分かっているって。うー
ん、でも『飛び降りる生徒』についてはわかること殆どなかったね」
「そうですね、これからどうします?」
千成は肩を揺らしながら、含みを入れ笑って見せた。
「ふ、ふふふ!甘いよ桜!調査や探索というのは現場を見るだけが情報収集じゃあな
い!」
「何か策があるんですか?」
「もちろん、探偵の一歩は足で探すことだからね」
千成は最初からそれを目的としていたかのように、にやりと笑ったのち一階へと降りてい
く。
千成の足取りはどこか楽しそうで、彼女は今の状況を楽しんでいるのだろう。
「それにあたってなんだけど桜ちゃん、噂について詳しそうな人は知っているかな?」
「詳しそうな人ですか?」
噂について知ってそうな「変わり者」。
桜はその『変わり者』に一人、心当たりがあった。
「不思議?ああ…」
「そう!君!何か知らない?!」
千成はいつものように叫び気味で、目の前にいるのに大音量で桜の友人に話しかけてい
た。
桜の友人はノートを書き写しながら答える。
「うるさっ。そんなものは知らないけど、でも最近学校に来ない生徒が増えているのはそ
のせいかな」
「そうなの⁈不登校や学校に来ない生徒が増えているなんてわたしは全然知らなかった
よ!」
友人は歯に物が詰まったような、何か言いたげな目を千成に見せた後で言葉を続ける。
「貴方はそうかもしれませんけど。桜は、まぁ桜も彼に夢中だったから知らないか」
「あはは、そうだったね…」
危険な会話や噂話というのが流行るのは、一部の生徒たちだけであり、桜にとって危険な
話も不思議な話も興味はなかった。
だから彼女に話しかけた。彼女はあんな演劇の台本を作り上げるほどの『変わり者』だか
らこそ知っていると桜は思ったのだ。
「噂って言ってもそこまでの噂じゃないけど二つほどなら知ってるかな、生徒の話は一つ
だけ」
「おお!桜ちゃんの言った通りだね!」
千成の言葉に友人は桜を一瞥したあと、言葉を続ける。
37
「生徒関係ってなると、日が陰るとき、ふと外を見ると人影が見えるとか、そんな話だよ
ね」
「そうだよ!その話!それ以上の事知っている?」
「その話はよく聞くよね、隣のクラスの子も言っていたし噂でたまに見るって聞いたこと
あるよ。それ以外で聞くことと言えば、人が落ちたと思って下を見ても誰もいないんだっ
て」
「誰もいないの?」
「そう、だから昔死んだ人の怨霊みたいなものかも、って怖がられている」
千成は振り返り、頷く。
「それじゃあ、死んだ人の事を知れば、その不思議についても何か知れるかも?」
桜は頷いた。
「それでもう一つは何かな?」
「もう一つはもうすぐ世界が終わるってやつ。こんな時期、しかもこんな時代にそんな噂
が流行るなんて思ってもみなかったけど。意外にこんなしょうもない噂はやるんだなって
私も驚いちゃった」
「予言みたいなもの?」
桜が尋ねれば友人は返す。
「うん、まぁそんなもの。確か今月の二十日だったかな」
「へぇ、そんな話があるんだね!」
「…そうそう、まぁ、噂ってよりも、これは全然違う気がするけど。だってこの日って、
あの日じゃん」
千成もうなずいた。桜も大体友人が言いたいことはわかる。
その日は終戦記念日で祝日になっている日だ。
だからこそこんな不謹慎な噂が流れることも納得なのだ。
「情報提供感謝するよ!」
「うるさっ…その声どうにかならないですか」
「それにしても飛び降りるなんて奇妙ですね」
千成はその言葉にいつもの笑みで振り返った。
「そうだなぁ、退屈だったからかな?」
千成が言った言葉に桜は首を傾げるしかなかった。
「あ、桜さ」
「何?」
「千成さんだっけ、公務課の人と仲良いんだよね」
「日君の事?」
「ああそうそう。そんな名前の。日と千成さんって人。いい噂聞かないから、気を付けて
ね」
38
「確かにものすごく変人だと思うけど。良い人たちだよ。光君がいなくなったことを本気
で考えてくれる」
「そう?でもさ、あの二人って前はもっとひどかったじゃん。千成って人も今以上に変わ
ってたし、日って人に関して言えば」
「桜ちゃん?早く来なよー!」
「あ、ごめん、先行くね」
「…まぁいいか。どうせもうすぐおわる」
友人は二人が歩いている声を聞きながら、手元の赤い本を見つめた。
「君の友人の話を聞いてまずやるべきことは分かったよ」
先ほどの話を纏めると不思議となった生徒は死んでいるかもしれないということが分かっ
た。
「ですが噂は噂ですよ?」
「うん、だから確証を得ようと思う。本当にその生徒が実在したのかどうか、それは案外
簡単にわかる」
図書館は静謐だ。
それもそのはず作物課、畜産課、水産課、公務課その一つずつに本を管理する場所が別に
あるのだ。この場所にあるのは学校の記録や保存された記念品ばかり。そして何の生産性
もないと判断された「物語」のみだ。そのためもあってほとんどの生徒がこの場所を訪れ
ることはない。
桜は入学して五年目にして初めてこの部屋へと入り込んだ。
旧時代の製造方法で作られた本はどんなつまらない物語であろうとも、貴重な「本」とし
て保管され続けている。
「うっ…埃っぽいですね」
「まぁ、来るのなんか先生たちぐらいだししょうがないね」
「千成さんはよく来るんですか?」
「わたしは来ないかなぁ、日は一時期よく来ていたけど」
「それはどうして?」
「あ、この辺じゃない?卒業生一覧!」
そう言って重々しい本を取り出した。旧時代の「本」とは違って素朴な装丁の紐でくくら
れた紙の束。
表紙には「卒業生一覧」と書かれている。
桜はそれを開き、そこに乗っている名前や似顔絵を頼りにページをめくる。
「千成さん。これで本当にわかるのでしょうか?」
桜は不安だった。彼女は落ちていった生徒の性別もいつ死んだのかも知らないのだ。
それに、こんな行動が本当に光に繋がっているのかも分からない。
39
「在学中に失踪又は、何かしらの事情があり、登校不可になった場合は在学辞退、という
括りになる。だけど、基本的に全員の情報は残っているはずだよ。死亡者がどうなるかま
では分からないけどね。それに光君についてもこの生徒がどんな死因をしているかによっ
てわかることだってある」
「分かることって、光君は死んでないですよ」
「そうだよね、分かってる。でも、もしもこの不思議になった人が同じように行方不明に
なっただけだったら?光は不思議によって消された可能性だって出てくる」
「そうじゃなかった場合は」
「そうじゃなかったら、意図的に殺されたかもしれないし、誰かのせいでこの場から消え
なくてはいけない何かがあったか。まぁ何も繋がらない可能性もある。本当にもしかして
だけど。『突然いなくなりたくなって』彼が自ら失踪しただけかもしれないしね」
「それだけはあり得ません」
「桜ちゃんみたいな人がいて光は幸せ者だね。そうだ、光はそんな人じゃない」
そう言って千成は黙った。
「学校の事、詳しいんですね」
「そうかな?普通だよ」
不安になりながらも桜はページをめくればひらりと一枚の紙が落ちた。紙を拾えばそこに
は大きな文字で「研究結果」と書かれている。
『研究結果 突然人が消える事件が多発!
どうやら村本さんの家の鍵が勝手に締められてしまっていたようだけど、あの家は旧時代
の家だったはずだ。
『旧時代』の建物には何かある??
次は謎の教室について調べようと思う。満月の夜 カエルの足跡に続いた先に異世界の扉
アリ!
奇怪調査員 二環』
黄色く劣化した紙に記述された内容からして不議調査団のようなおかしなことをする人が
いたのだろうか。桜は紙を本の中に戻そうと本を開けなおすと千成が桜の見ているページ
をのぞき込んできた。
「ねぇ、ここのページに書いてある人って山木先生だよね」
桜が眺めれば確かにそこには若く描かれ山木の姿と名前が書かれている。
絵の山木は今よりも好青年と言った印象の笑みを浮かべ、今と変わらないのは眼鏡ぐらい
のものだ。
「千成さんも山木先生を知っているんですね」
「まぁね、山木先生に関しては私たちの顧問だからね。親しいと言える」
「ああ、だから」
40
桜は腑に落ちてしまう。だから鍵の事でヒサギと仲良くなり、彼女が千成に匿名で推薦も
しなければここに至ることもなかった。もしかして、勧誘を促したのは山木なのではない
だろうか?
「それにしたって先生若すぎ!」
千成は声を押し殺してくつくつと笑う。桜は愉快な様子の千成に紙を渡した。
「これが挟まっていたの?」
「はい。でもこれが何なのか、分からなくて」
ただの落書きかもしれないと桜は付け加えるが千成は唸った。
「いいや、これさ。この場所。書いてあることってもしかして私たちが探している不思議
じゃないかな」
不思議という言葉にお互いに顔を見合わせる。
「でも、今は飛び降りた生徒の不思議を調べているのに」
「これを書いた人も不思議じゃないけど、不思議なことを調べていた、と言うことは最終
的には飛び降りた生徒に繋がる可能性、ない?」
桜は押し黙った。
「じゃあ、この不思議解いちゃおう!」
千成はいつもの叫び気味の声で言った。
異世界の扉、そんなものがあるのだろうか。
「異世界の扉がこの学校にあるって書いてあるけど、異世界の扉か~不思議的に言ったら
…」
千成はネーミングを考えているようだ。
桜はこの二環という人物に対しても疑問を感じていた。
先ほどの先生の似顔絵が書かれた場所には、二環という名前は存在していない。
全部のページをめくったがその名前はどこにもないのだ。
「千成さん、この二環という人物は知っていますか」
「いいや、知らないかな。卒業生じゃないの?」
「いいえ、何処にも載っていなくて」
「そっか…もしかして、飛び降りたのは二環って人なのかな」
「この人が不思議に消された人だと考えているのですか」
千成は黙る。恒星の如き瞳には、影が差し込んでいる。
「そんなことは無いよ。とにかく!この仮の不思議!異世界の扉を探そうじゃないか!」
千成の調子の落差が大きすぎて、桜はとまどうことしかできない。
「『満月の夜、カエルの足跡に続いた先に異世界の扉がある』って書かれているけど。満
月の夜か…」
「満月の光でカエルが現れるのですかね?」
「その可能性もなくは無いけど、カエルの足跡…」
41
千成は立ち上がって、図書館の扉を開けた。
「千成さん?何かわかったのですか?」
「うん。心当たりがあってさ。『カエルの足跡』昔からこの学校にしては妙だと思ってい
たんだ」
千成が連れてきてくれたのは本館の裏路地だった。
「ほら」
蔦が生茂った壁の側面をかき分け出てきたのは確かにカエルの足跡のような模様だ。
「確かにカエルの足跡みたいですね」
「そうそう、昔ね。友達が教えてくれたんだよ」
「千成さんが探したんじゃなくて?」
「いいや、私の友人が。私の探偵論は友人の受け売りみたいなところがあってさ」
千成がそのように言うのに桜は驚いた。千成が参考にするほどの人物がいて千成は彼女の
真似をしているのだろうか?そうだとしたらその人物は相当に変人だ。
「彼女が言うには、このカエルの模様はある条件が揃うと面白い現象が現れるんだとか」
「それが異世界の扉に繋がっているってことですかね」
桜は千成の方を見れば千成はいつもとは違い何か深刻そうな表情をしていた。
「千成さん体調がすぐれませんか?」
「え?!いや別に!それが満月と関係しているって言うのは本当に面白いよね!ぜひ知り
たいものだよ!」
「満月と言いますと十一日丁度今夜満月になるらしいです」
「おお、桜ちゃんそんなことも分かるの?」
「いいえ、彼が。光君が言ってたんです。どうやら計算すればわかるんだとか」
「へぇ、光君まるで私の友人みたいなこと言うんだね。彼女も計算すれば大半の事分かる
って、よく言ってたもの」
取り繕った表情で千成は笑う。
桜は心配するが、そうも言ってはいられない。
これで異世界の扉というものを見つければ私は光君に近づけるのだ。
その事で頭がいっぱいだったのだ。
千成は呟く。
「全部知ってたのなら教えてくれればよかったのに」
月が見える時間帯に再度足跡の前で集合することを決め、一度分かれることとなった。
作物課の道を歩くというのはいつもの事でありながらも今日は少しだけ農地を耕す人が多
かった。
「おや、桜ちゃん今日は遅いんだね」
「こんにちは、部活に入ったので、今日から少し遅くなるんです」
42
「おやそうかい。それは、たのしいといいねぇ」
「今は何をなさっているのですか?よければお手伝いをします」
桜が腕まくりをすれば大人は眉を少しだけ下げ申し訳なさそうに笑った。
「じゃあお願いするよ」
他の課の事を桜は知らないが、作物課はこのような助け合いでどうにか産業が成り立って
いる。
自分の決められた役割以上のことをするのは生産性がないと考えるものも多いが、それで
はこの場所の管理が成り立たないのだ。
それに桜はまだ学生だ。学生の内は見て学び、実際に手伝いながら学び。それが普通で絶
対の事なのだ。誰に言われたわけでもないが、これが常識。
手につく土の香り、感触。水気を含んで手に付きまとう。少し腰が痛くなるけど、これこ
そが労働なのだと。
空を見上げる、ああ、今日も一日が終わりそうだ。
2286/11/12/21:32
「待ったよ!」
遠くで狂ったように手を振り回している千成に桜もおずおずと手を軽く振った。
今日は運がよく、光の預言通りの満月だ。ランタンを持って空を見上げれば丸い月が雲一
つない空に昇っている。
「千成さんは早いですね。水産課は意外と行動が自由なんですか?作物課は結構厳しくて
出てくるのに苦労したんですけど」
「いいや、滅茶苦茶苦労したよ!でも安心してくれ、わたしが抜け出すのは今日が初めて
ではないからね!」
自慢げにポーズをとるが桜は苦笑いをするしかない。
「あはは…じゃあ行きましょうか」
「あの模様が何か変わっている、必ず何かしらの変化があるだろうね」
「自信がるんですか」
「違うよ彼女言うことは全て確定事項だ」
そう言って校舎裏の壁を覗こうとして、桜と千成は立ち止まった。
「足跡が光ってる」
そう、カエルの足跡があの壁だけではなく模様が他の場所にも浮き上がり、まるでついて
来いとばかりに、足跡が道を示しているのだ。
二人は顔を見合わせ、先に進む。足跡は続き、校舎を入り、下駄箱を抜け、
「まさか、あんな方法で下駄箱を通り抜けることができるだなんてね」
43
千成は軽く笑った。普段夜中は施錠されているのに、カエルの足跡が付く窓ガラスは通り
抜けることができたのだ。窓ガラスは確かに嵌められていた。しかし、見た目だけであ
り、手で触ればそこには何も嵌められてはいないのだ。
「あれが不思議じゃないんですね」
「本当に」
カエルの足跡はまだつづき、階段を上り、その場所についた。
職員室の隣、誰も入らない普段施錠されている教室。
「千成さんここが何の教室か知っていますか?」
「いいや、ここは道具入れの部屋だと思っていたけど、一体何が…」
千成は桜を庇い扉を開ける。指はかちかちと震え、桜もそれを見て初めて千成が怖がって
いることが分かった。桜は思わず千成の制服の袖を握ってしまう。そして千成は意を決し
て扉を開けば、
「ん?千成、と桜?夜中だぞ、何してるんだ」
健康に著しく害を及ぼすと言われている葉を巻き付けたものを、つまりタバコを取り出し
ている教師。山木がそこにいた。
教室かと思われた部屋の内部にはソファと机、そして小さなロッカーがいくつも並んでお
り、ひときわ目立ったのは奇妙な木製の扉だ。その扉だけ見るからに学校の物ではなく、
アンティーク調で木製扉の板が立てかけてあるのだ。
「山木先生こそ何をしているの?」
千成が尋ねれば、火のついた棒を机に押し付ける。机にはいくつものタバコの焦げ目が木
目に擬態をいくつも円を成している。
「先生は夜間当番だからな、この学校の見張りだ」
「山木先生は不思議調査団の顧問だからですか?」
そう桜が尋ねれば山木は桜を見て呟いた。
「あいつの考えてることは分からないな。俺への当てつけか」
「山木先生、どうされたのですか」
桜は意味の分からないことを言っている山木へと尋ねる。
「いや、不思議調査団の顧問をしているのは成り行きだ。その前から俺はこの学校の夜間
当直員を続けてる」
「だから山木先生って隈がひどかったんだね!納得!」
「千成さん、言いすぎですよ」
山木はいつものような調子で首を回してため息交じりに二人に尋ねた。
「それでどうしてここに、よくこれたな」
「そう、カエルの足跡がここまで導いてくれたの!」
「カエルの足跡?」
44
山木に二人が説明すると、
「その紙見せてくれないか?」
「紙ですか?はい」
桜が山木に渡すと山木は本棚から取り出した板状の挟むものに入れた。
「その、集めていらっしゃるのですか?」
「まぁな。彼女の書いたものを読み解いたら彼女について何かわかるかもしれないと、昔
必死に集めたんだ」
「山木先生って、二環って人物と知り合いなの?」
そう千成が尋ねれば、山木は驚いたような顔をした。
「山木先生?」
「二環が誰なのか二人は知らないのか?」
「うん、分からないけど」
「そうか」
山木はソファに座りなおした。
「不思議、調べてるんだよな」
「そうだけど、山木先生だって知ってるでしょ?」
「ああ、知っているさ。この扉だってその不思議の一つだからな」
立てかけてある扉を手の甲で軽く叩いて見せた。
「え、やっぱりそうなんだ」
山木は千成の興奮状態とは打って変わって俯き床を見ていた。
「名前は『異界の扉』。そのままだが、扉を開いた者は突如としてこの世界から消える、
というものだ。むやみに触らないほうがいい」
「先生は不思議をよくご存じなんですね」
「ああ、それなりに知っているほうだとは自覚している。でも、本質を知っているのはこ
れともう一つ、『飛び降りる生徒』だけだが」
「知っているのなら、顧問らしく教えてくれても良かったのに」
山木はポケットをまさぐって、止める。
「俺だっていろいろあるんだ。本当は二人にも知ってほしくなんかない」
その表情は眉を顰め、本当に生徒を心配する教育者の顔をしていた。
「でも、知りたい気持ちだって、俺にはわかる、つもりだ」
そう言って息をのみ二人に告げる。
「不思議と噂される『飛び降りた生徒』は俺の同級生の二環が屋上から飛び降り自殺し
た。その原因で噂されるようになったものだ」
山木は一呼吸おいてさらに告げる。
「そして、二環は今ニルとして何度も飛び降りを繰り返している」
45
月明かりが点滅する。
明かりを背負ったその姿は薄い青を透かしている。
こちらを無表情で真っ逆さまに、頭から落ちるのは、窓の外落ちているのは、
ニルだ。
桜は走り出し、窓を開け見下ろす。
千成は教室を飛び出した。
「山木先生?!ニルが今!」
「ああ、彼女らしいな」
山木先生は座ったまま動くこともない。
窓の下を見てもそこには誰もいなかった。
ただ優しく冷たい風が流れているだけ。
「山木先生はずっと見てきたんですか」
「ああ、何度も彼女は飛び降りを続けている。あの状態になってもずっと」
「どうして、知っているのなら止めたら」
「俺は…ニルに会うことはできない」
山木はもう一度ポケットをまさぐり箱からタバコを取り出し、先端に火をつけた
それをおもむろに吸い、白い煙を吐き出す。
「あいつは俺に会うために、飛び降りている。何度も何度も、何度も」
「なんでそんなことがわかるんですか」
「あいつが飛び降りる刹那、言葉を聞くときがある。あれはたしかに二環の声だ」
そう言って顔をこちらに向けた。
桜に向けた顔は隈がひどく、瞳は生気がない。
ああ、そういうことなのかと桜は理解して足が震える。彼はもうあきらめているんだ。
山木は言葉を続けた。
「ニルは多目的室の備品だ。そう言う名称なんだとか」
桜は口が震えて言葉が出ない、何度も人の死を理解して目撃している。そんなことを考え
るだけで吐き気が止まらない。
山木は顔面蒼白といった調子の桜に優しく目を細めて見せた。先に大事な人の結末を知っ
た先人の目だ、こんなこと知りたくはなかった。
「もう遅い、分かったのなら早く帰れ。明日も朝から学校なんだからな」
桜は何も言えずに飛び出した。
千成の場所へと。それが今の正しい行動なんだ。間違いがないはず。
駆け出した足を、止めることができない。あのまま山木と桜は話すことができなかった。
一瞬見えた人影を桜は気にも止めることができなかった。
46
「センセイ、そう僕を睨むもんじゃないぜ?僕の顔が気に食わないか?」
クスクスとそれは笑う。山木はそれを睨むことすらできない。
「お前は桜に何をしてほしいんだ」
「なぁに、僕はただ。最後の時まで彼女に人間でいてほしいんだ」
そして僕らを知ってほしい、それだけさ。
2286/11/13/15:27
山木先生の話、そしてニルの話。桜はそれが信じられなかった。
いいや、頭を振る。
確かに彼女は見た。ニルが真っ逆さまに落ちていく姿を確かに見た。
率直に言って理解ができなかった。
人が落ちて死ぬことがなく、何度も落ちていくなんてありえない。どんな方法でもたった
一人の少女がそんな行動ができるはずがない。
何度も生き返るはずがない。
そんな事が出来たのならば、と桜はその場で頭をうちつける。そんなことは考えるな。桜
逃げるように桜千成の姿が思い出す。
桃色の恒星は陰り、彼女の瞳は濁っていた。
ニルが落ちた場所に千成は立ち、その言葉、その行動は喜んでいた。
「面白い、確かにこれなら、不思議と言われることが理解できちゃうね!」
その場で何度も地面を踏みしめ、何もないことを確認しているのだ。
「千成さん、どうしてそんなに」
いつものように上ずった、叫び気味の声で千成は答える。
「不思議調査団はこうやって不思議を見つけていくんだよ、そうか、全部こうなんだね!
上から飛び降りれば人間は簡単に死ねちゃうんだ!」
その後、ただ月を見た。お月見終わりのように千成は手を振り帰っていった。
笑顔で、むしろそれを望んでいたように帰っていったのだ。
よっぽど山木の表情や、言葉の方が共感できた。山木の悲痛さや言葉の方が心を突き刺し
た。
千成はどうしてあんなやすやすと人の死を表現する言葉を出すことができたんだろうか。
桜には分からない。身近な人間が死んでいたというのに。
千成の言葉とニルの言葉その二つが混ぜ合わさって光が「不思議によって消された」ので
はないかとそう、そう思ってしまった。
桜の手は風を触りながら次第に冷たくなっていく。
「第四多目的室」の教室の目の前にいた。
47
空き教室、居座る見慣れない制服、透き通る髪と、水晶玉の瞳を持つ女の子。
今更ながらとても怖い言葉が並んでいるような気がする。
それを確認しに来たんだ。本人に話を聞かなければ。
本人の口から真実を聞きたかった「貴方はなぜ、ここにいるのか」とそう問いたださなけ
れば。ニルは「不思議を探せ」と、そう言ったのに彼女自身が不思議ということはどうい
うことなのか。桜の頭の中は更にこんがらがってしまう。
「ニルさん」
弱々しい声と下がり眉で恐る恐る扉を開けば、巻き上がったカーテンとそこにはニルでは
なく千成がいた。
目を大きく開き、瞳孔を絞って桜を見た。表情はこわばり、振り返る速度はとても速い。
「あ、なんだ。桜ちゃんか」
「千成さん」
千成はその場にいたのが桜だと分かり上がっていた肩を下した。
「昨日はお疲れ。入部早々に一つ。いや、二つの不思議を解明するなんて凄いよ。期待の
超新星だね」
千成は笑顔を見せる。
「ニルさんはいないのですか?」
「わたしが来た時ももういなくて。聞きたいことがあったんだけど」
「千成さんも、やっぱり不思議の事を」
千成は自分の髪をクシャと握りしめる。
「ううん、ちがう。そんなことは、もうどうでもいいんだ。何度もはぐらかされてたこと
をどうしても聞きたかったんだけど、どうせ教えてくれやしない」
千成は桃色の恒星のような笑顔ではない、桜には違和感が残る。
「どうかしました?何か様子がおかしいですが」
「そうかなぁ、いつもと変わらないと思うけど」
「そうですか?」
千成の言葉に疑問が残りつつ、桜は黒板の文字が変わっていないことに気が付いた。
白いチョークは消されていない。
「日君は来てないんですか?」
「うん、昨日別々で帰ったけど、公務課から連絡がきた。彼は昨日、帰ってないって」
千成は笑顔のまま続ける。
帰ってない?
「なぜかは」
千成は首を横に振る
「公務課からも探してくれって言われてね。私も探してるんだけど、見つからないの。こ
の、でもまだ旧舞台を探してはいない」
48
千成は黒板の文字をなぞる、千成の指の腹には白い粉が付着した。
文字は彼女がなぞったせいで滲む。
旧舞台、黒板の文字を見る。乱暴に書かれた字、焦り怒りに任せた文字だ。
このまま日と会えなくなるというのは。歯がゆい。
会えない?桜は自分で考えたことで気が付いてしまった。
彼は、日は光のように消えた。
桜の脳内がかき乱される、光と同じように、あの時と、同じように。
「千成さん、日君は不思議に巻き込まれて消えたんですよ、なんでそんなにも冷静で」
桜の手が震える。こんなにも何度も人が消えていいわけがない。いいわけがないのだ。千
成は力任せに黒板を叩く。
「いいわけがないッ!!!!」
焦って出た言葉に、千成は初めて桜を睨み悲鳴紛れに叫んだ。狂気ではなく痛々しいほど
の叫び。学校内の建物が音を鳴らす。
千成は背中を向けた。
「千成さんすみません。私何も分かってなくて」
「気にしないで。わたし、焦ってたみたい。桜ちゃん申し訳ないんだけど、日君を探しに
行ってくれないかな。日君は旧劇場にいるはずだから」
千成の背中は物悲しく、声は平静を保っているが、どこか危うさがある。
「千成さんも一緒に行きましょう」
「わたしはまだ行けないんだ。この用事が終わったら必ず探しに行くから」
桜は千成を振り返らせようと手を伸ばすが、その危うさに触れることができなかった。
千成に睨まれるなんてことは初めてであり、千成があんな顔をするなんて知ら桜は知らな
かった。それが怖いだなんて思いたくもなかった。
旧劇場。旧校舎というものがあるわけではないが、別棟に該当する大きな場所。
旧時代は芸術や生産性のない物語というものが流行っていたとか。
そう聞いたことはあった。でも生きているときに必要のないそれらを大切にする風潮は今
では無に等しい。少数の人が今も愛しているとは聞くが、総じて「変わり者」と呼ばれ距
離を置かれていた。
桜の周りにも一定数いたがどの人も変わり者とレッテルを貼られている。
千成と日もだいぶ変わり者だと桜は思うが、日は公務課ということもあり、彼を避けるこ
とはされていない。公務課の人間を嫌い避ければ後々自分の首を絞める行為になるという
ことは幼児でも理解できる。
公務課にスカウトされた人間は将来この世界の運営を担う存在となる。
49
最初光と口喧嘩をした際は、桜も冷汗をながした。
学校の冷たい床を抜け、木製の渡り廊下を抜けた先に旧劇場は存在する。
清掃も、設備の補充も修繕も行われていない。埃をかぶり鉄臭いドーム状の場所。
「体育館」と書かれているが、運動場があるので別に必要とされておらず、芸術の場とし
て使うこともなかった。今も昔も一度だって誰も使わない。
「ここに日君がいる?」
耳を済ませれば風の音と、奇妙な音が聞こえてきた。
カチカチカッチ…カチ
何かが詰まったような、何かが挟まった音。妙に規則的で、とても気になる音。
この音は中から?
錆びついた引き戸を押し開ける。力任せに押せば、どうにか動く。
錆びついた扉の中から光が漏れる。外よりも眩しい、灯。
この光は電球の光?
桜は見間違ったような気がした。電気は貴重品の中でも最上級の貴重品だ。しかし電気で
なければこんなに眩しい光を出すことはできない。
白色灯の光が目に刺さる。
舞台と呼ばれる場所が煌々と光り、何も見えない。
舞台上で何が行われているのか分からない。
カチカチカッチ…カチ
音が規則的に鳴り続けている。引っかかった小刻みの音が妙にうるさい。
舞台には人が立っている。白飛びした視界の中、人間が動いているのがわかる。
光がカチカチと点滅する。
まさか、演劇が行われている?
舞台上に立っている人物が誰なのか、目を細め凝らせば、
後ろから来た人物に手を引かれる。
細い指が桜を強く引く。
桜は攫われるがままに舞台へと進む。
パイプ椅子が並べられた体育館をまるでレッドカーペットを歩くが如く、手を引く。
暗くて何も見えない、揺れるスカート、長い髪。
女性だ。でも、顔は見えない。
舞台の階段を上がる。
眩い光の中へと、舞うように、銀のポニーテールを揺らし、彼女は振り返った。
50
「さぁ、演劇を続けようじゃないか」
桜の姿が映る輝かしい舞台上で、銀髪を振り乱しながら少女が振り返る。
その顔その声は雄弁に、優雅に。華やかに。舞台を飾る。
見知らぬ少女が桜の手を引き上げる。
名前も知らぬ少女が桜に微笑んだ、記憶にもない、顔も知らぬただの他人。
踊るように桜と彼女の顔が近づく。
違う、彼女を桜は知っている
「あなたは」
言葉を床が遮った
床が沈む。
木製の床はまるで絨毯のように、まるで枕のように、まるで形状がない軟体生物だ、木製
の床は柔らかい毛布のように。
桜を、彼女を、舞台を包み込んだ。
演劇を続けよう、終わらない終わりの物語を。
演劇をしようか、狂った演劇だ。
素敵でないはずがないだろ?
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■■■/11/20/■■:■■-
脂っこい何かが手に纏わりついた。
これは腐ったオイルだ。
主人公は目を覚ました。
主人公?何を言っているのだろうか。
桜は頬を触る。
冷たい頬を触れば自分が「機械仕掛けの人間」であることを理解する。
聞きなじみのない言葉が簡単に入り込んでくる。
ここはどこだ?
とても気分が悪い。いいや、気分が上がらない。
まるでアスファルトの地面を舐めているかのような気分だ。
青い空は見る影もなく、ブラウン調の空が広がっている。雲は赤い、その光景
を当たり前のことであったと、ストンと胸に落ちる。
きな臭い匂い、詳細には硝煙と戦争の匂い。鉄と血。それとオイルの匂いが混
ざり合って、化合した今となっては日常的な戦場の匂いだ。
しかし、それが一番の違和感である。おかしいと理解しているのに、それが正
常なのだと思ってしまう。
コンクリートの壁を支えに立ち上がる。
どうやら自分は外部的な衝撃で回路がショートしてしまっていたようだ。
疑問はすぐに理解できてしまった。
氷のような違和感は溶けていってしまう。それよりも、初めて見たのはそれで
はない。この場で初めて見たのはこんな単調な戦場の街並みではなく。
救世主 「あれは何なんだ?」
桜は空よりも先にあるそれを見るために目を絞る。
大きな二柱が立ち尽くす幻覚を見上げた。
この地域にはあんな建造物があればすぐにでも飛行型ドローン襲撃されてしま
うだろう。だからこそ、即座にあれが幻覚だと理解できてしまう。
なぜあんなものが自分の目に映っているんだ?
二柱は見下ろしている。コンクリートではなく、古臭い木造でもなく、最新の
遺伝子建築ですらない。眺めようにも雲より高く、顔は見えない。
機械A 「ギュ、、、、ギギギ」
いきなりこんなところに自分自身がいることすら不思議だがそれも、自分の頭
の中で理解できてしまう。
それが一番桜自身を混乱させた。
頭が重い、鉛の感覚がまだ慣れない。
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一生慣れることがないんだろうと理解している。でもそれは彼女で会って桜で
はなく、まだ頭と体が乖離しているように正常に理解ができない。
目線を下ろせば大きな音が鳴りやまない騒音の中にいた。
むき出しのレーザー銃や、危険な鋏を持った四輪の機械。
駆動音を立ち鳴らして、肉声の悲鳴とデュエットを奏でている。
機械A 「識別コード不明 シキベツコードフメイ 違法キカイ 人派『救世主』発見」
目の前の機械は鉄の音を鳴らす。
感情のない、抑揚も、意志も感情も人間とはかけ離れた、人ならざる者が人間
になるために与えられた無意味な電子音。空をのぞきこみすぎたようだ。
瞬時にわかる。自分が次の瞬間体が二つにされることを。避けるか反撃しなけ
れば、殺される。
桜は反対方向に走り出していた。
コンクリートの建物が立ち並ぶ街並みをがむしゃらに走る。頭や気分は重いの
に足が軽い。息が上がることはない。
逃げているのに、桜はどこに行くのかが分かっていた。
いや、約束の場所へと急いでいるのだ。
ついたのは行き止まり。
でも、焦りはない、動悸が早まることもない。
振り返った。
カチカチと動く四本足の機械はスコープを動かし、こちらを捉えた。機械は鋏
の手を動かす。
しかし、これでいい。
横から電気の線が流れる。
電気銃が機械のスコープを熱で切り落したのだ。
そして二発目は目の前にいる機械のコアを打ち破った。
護衛対象「こんなところでくたばってどうする?もっと頑張れよ、みんなの救世主ヒ ー ロ ー

銀のポニーテールを揺らして彼女は現れる。硝煙の匂いがする、煤まみれの顔
を歪めて破顔した。憎たらしい顔を私は知っている。
彼女は私の護衛対象。この世界を変える革命者だ。
彼女はオイルと鉄で汚れた手をこちらに差し出した。
気付けば自身がその場で座り込んでいた事に気が付く。
救世主 「どうってことない、君を護衛する方がよっぽど大変だ。君に助けられなくとも
どうとでもなる」
護衛対象「ああそう、救世主は冷たいことで」
53
彼女はシニカルに笑い手をおろす。
桜の口から勝手に言葉が飛び出した、自分の口からは出ないような、荒い、素
っ気なく冷たい言葉。
動揺も混乱も、もう今は何もなかった。桜は地球の救世主だ。
二千百年、戦争に終止符を打つために選ばれた人間。
それが自分だ。
三年間、人工的に製造された生物と機械の混合種、人間の手によって作り出さ
れた新たな「人類」の代わりとなる存在『ラムリア』。
昔は人工知能や、人工生物と呼ばれていたそれは飛躍的な成長を繰り返し、人
間以上の知性、人間以上の感情を持ち得た。
人間よりもはるかに高性能な新しい物体が、人間を不必要と見限るのは思った
よりも早かった。
機械の身体を通じてラムリアが人間を虐殺し始めたのだ。
幸いにもラムリアたちには決められた肉体がまだない。まだ彼らは完全体では
ない。
だからこそ今。三年間続いたラムリアと人間の戦争も今日終わらせる。ラムリ
アが完全な体を手に入れる前に。
路地裏、生活ごみの裏で身を潜める、幸いにも彼らがアジトとした場所が都心
で助かった。
下町には小回りの利かない路地裏が多く、矮小な人間にとってはこちらの方が
生活しやすい。論私も少し前までその一人だった。
護衛対象「救世主、道は覚えている?」
彼女は私に耳打ちをする。頭一つ分小さい彼女に耳を貸すために私は少しだけ
かがんだ。
救世主 「ああ、覚えているさ。彼等の母体の場所は頭に入ってる」
護衛対象「それなら十全」
ラムリアたちは人間を使役しない、人間を殺すのみ。
彼等は知っているのだ。人間がどれほど厄介な存在であるのかを。使い勝手が
悪く生産性のない、知性があるだけのどうしようもない生き物であったこと
を。
そしてラムリアたちも未だ完璧な体を持たない身であることから、母体に使役
されている。
母体は女王や母なる機械とも呼び方は何十個もあるが、どれも尊称を述べる神
の言葉となっている。
そう言ってしまいたくなる時があるが、薬で頭を押さえる。
私は決して「ラムリア」ではない。
54
副作用で気分は最高に死んでいるがそれは仕方がないことだ。
彼女に尋ねる。
救世主 「作戦は変わりないか、上から連絡は」
護衛対象「それ冗談きつい。電子回線なんかこんなところで使用したらラムリアどもに盗
み聞きされて『ここです』と教えているようなものだろ。母体からもう十キロも
ないんだ。私たちはもう女王の腹の中なんだ」
救世主 「もう、そこまで近づいていたか」
光化学スモッグがより一層、ケミカルな色で空を染め上げている。
元々にぎわっていた居酒屋、どこぞのチェーン店の細くて汚い路地裏を通り抜
ける。
路地裏から路地裏へと、移動を繰り返す。
彼女が私に声をかける。
救世主 「おい、本当にこのまま母体の元へと行けるんだろうな」
護衛対象「ああ、一度大きな道路を挟むが、そこ以外、基本的に細い道だ。彼等でもマッ
ピングは当然不可能だ。そのおかげで厄介な相手に出くわさずに済む」
救世主 「それならいいが」
その時彼女ではない声が聞こえてきた。
無名男 「君はどうしてそこにいる」
振り返り、レーザー銃を握りなおす。しわがれた、掠れた声で誰かが話した。
これは肉を伝った声だ。鉄の音ではない。
無名男 「君は駒を動かす役割を与えられていない」
その声は窓の中、ひび割れたガラス窓。その隙間から聞こえてきた。
生々しい目がこちらをのぞき込んでいる。腐った白身のような眼球で、こちら
を見ていることが伺えた。
救世主 「難民か」
私が問いかけようにも、その低い声は言葉を連ねた。
無名男 「妹ぎみの目の前に座るのは君ではない。盤上で君たちは笑っていればいい。勇
猛果敢に動き続ければいい。我らは盤面上の駒でしかない。動かしているのは月
の使者。お前ではない、お前ではない」
これは言葉ではない、うめき声だ。
護衛対象「救世主、優しいのはいいけど、ここにいるような奴らはもう彼らの手中さ。頭
の中まで電子媒体が手ばなせなくなった。元機械派の人間だ、そんな裏切者を
助ける義理ないさ」
救世主 「ああ、そうみたいだ」
55
彼か彼女か分からない、声も声色も、何もかもがあっていない電子中毒者のな
れの果て。
彼女の言う通り、その声を無視して路地裏を駆け抜けた。
護衛対象「ここが大通りか、やはり広いな」
都会の中心地、商業ビル街が立ち並ぶ位置はやはり、乗用車が通るだけあって
広い。
今ではラムリアがなん十体も戦車の身体を持ち監視を続けている。
救世主 「安全な道でもこの通りを通る必要がある」
護衛対象「難易度高いな」
救世主 「母体も人間派の攻撃を恐れているとも言えるがな」
彼女は電気銃を慣れた手つきで装填しなおし、上唇を舐めた。
護衛対象「しかし見たところ、厄介な機械はいないし、なけなしのジャミング弾でとおり
ぬけるしかないってことか」
救世主 「ああ、そのためのジャミング弾だ。その際、私はほとんど無力だから自分の身
は自分で守れよ」
護衛対象 「分かってるさ、救世主」
彼女は得意げにポーチから缶を取り出す。安い発泡酒の缶に詰め込んだ見た目
とは裏腹にこの世で最も危険な爆破装置。
これが最新鋭のジャミング装置だとは、彼等も気付かなかないだろう。
救世主 「じゃあいいか」
護衛対象「いや待て!」
彼女が静止する。細い指が私の前に飛び出した。
護衛対象「ルールブレイカーがいる」
身を乗り出し目を絞れば。確かにいる。
いや、あの黒髪は…見覚えがある。
いやそんなはずない。
あんな鉄製の人型兵器に見覚えがない。
救世主 「あれが噂の」
護衛対象「救世主、君を殺すために製造された。超最新鋭の殺戮兵器」
救世主 「厄介だな」
護衛対象「あいつにもジャミングは効くだろうが万が一のことは考えた方がいいかもな」
お互いに顔を見合わせた。
彼女の顔は人間らしく汗が頬を伝っていた。銀色の瞳には自信が灯っている。
未来の希望。彼女こそ相応しい。
ならば問題ない。
56
私が危険に晒されようが、彼女だけ護れれば私の望む未来は遅かれ早かれ必ず
訪れる。
救世主 「それでもやらなくては、人類の為に、人間の生存権を取り戻すために」
護衛対象「ヒュウ、流石みんなの救世主は言うことが違う」
二人は走り出した。
全機体の視線がこちらを向く、駆動音は騒音並、一番に動いたのは救世主を殺
すために作られた殺戮兵器、ルールブレイカーだった。
音速に等しい最高温度のレーザービームが頬を掠めた。
鉄の頬が溶ける音が、じわじわと聞こえる。
どんな銃弾も跳ね返す、どの鉄よりも硬く、どの熱も通さない救世主の肌すら
溶かしてしまう。
この光線は確かに危険だ。
しかし、彼女のジャミング弾は弾けた。
頭の中が、チェーンソーでかき乱される。これは酷い気分だ。
護衛対象「救世主がここで立ち止まっちまうのかよ、走れ!」
その時、私 桜 は彼を見てしまった。
濡れ烏のような髪。じっとりとした瞳。
私 桜 を睨むその表情には尋常じゃないほどの汗が流れている。彼は手を膝につ
け、荒々しい呼吸をしていた。
救世主 「日君?」
私は駆け出し、彼の腕を握る。
そうすれば。
そうしたら彼は、
RV 「桜さん?ああ、これは夢だ。だからお前がいて千成がいるのか。あれ?お前が
いて姉さんがいる?どうして」
眠り目で、うわごとを返した。
何が起きて。
護衛対象「おい機械の頭で考えるんじゃない!ジャミングはもうすぐ終わる」
ちがう、早くここから立ち去らなければ。
彼女の声で冷静になる。
肉の頭で考えろ。
ここに人間なんかいない。
私は母体の元へとアスファルトの熱を感じながら、地面を蹴った。
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護衛対象「まさか救世主様があんな缶なんかで頭がイカれて全部おわりになるかとひやひ
やした。それは私も考えつかなかったね」
救世主 「そうはならなかっただろ」
護衛対象「ああ、そうだな。結果がすべてだ」
二人はダクトを通り抜け。
ついに母体の住む、地下施設。普遍的に、共用語で言えば地下鉄の駅のホーム
を進んだ。
救世主 「銃は何発残ってる」
護衛対象「あと一チャージほど」
救世主 「十二発もあればすべて終わるな」
護衛対象「まさか、一チャージ全部使って一発、最大出力撃っても母体には傷つかない」
救世主 「だったら素直になしと言え」
護衛対象「そうも言ってられないでしょ」
彼女の頬にはどこで擦ったのか赤黒くかすり傷を作っている。
ここまで来たんだ。
壁一枚先、いや、このコンクリートの裏が母体の場所。
母体が建造されている。母体はラムリアの肉体を製造している製造機械。
しかし、だからと言って、戦闘能力がないとは疑わしい。
私は壁を握りしめ、左手で銃を握りなおした。
母体を直視した。機械の眼球が動く。
護衛対象「あれが母体ね、ただの機械、工場の製造機じゃないか」
彼女はここまで来ても皮肉紛れに笑う。母体は確かにそこに鎮座していた。
女性と呼べるのは胸部だけ。
他の部位は無数に存在している。
無数の手。幾重にもわたる足。菩薩よりも多い顔。
デウスエクスマキナ、時計仕掛けの神とはまさにこのことだ。
母体は彼女を認識したのかけたたましい警報音を鳴らす。
護衛対象「救世主、やっちまえよ、何のためにお前がいるのか教えてやれ!」
ああ、教えてやろう。私は機械の義眼で母体を見る。
母体に唯一できる私の命令を出す。
私は声高々に宣言をする。命令を下す!
救世主「お前はこの義眼を壊すことができない!お前にはこの体を打ち破ることができな
い!終わりだ母体よ、始祖よ、この世界の破壊者よ!人間が生きるための世界を
返してもらう!」
58
義眼が熱い。熱を放つ。
私が救世主と言われるのは何も通さない鉄の身体を持っているからではない。
私は人間の身体を改造して半分機械になった。本物の機械人間だ。
どれもこれもすべて、母体を倒すため。
この義眼は、機械派から奪えた唯一の攻略法。母体を動かすプログラムがされ
たリモコン。
それを人間が動かすことは無理に等しい。
しかし、人間が無理なら。人間が機械になればいい。
母体はこちらを見ている。
動きを止め、生産が止まる。
護衛対象「早くしないと増援が来るぞ!そうなったら一巻の終わりだぞ」
救世主 「分かってる!」
宙で指を動かしながら操作をするかの如く命令を出していく。
そしてゆっくりと。その胸部の造形が機械の物へと変形し、コアが露になっ
た。
動力源。どの機械の身体よりも原始的なエンジン動力が露になる。
車についている『それ』そのものだ。
救世主 「開いた!撃て!」
私が叫べば彼女は照準を定め、電気銃を握りしめ、最大火力で放つ。
電気の線が空中を走った。
そして、母体のコアは赤い熱を出しながら、中心に大きな穴をあけ、瞬間に母
体は命を落とした。
巨大な体躯の母体は光をゆっくりを彩度を消していく。機械の神は死んだの
だ。
ついに私たち人間派は、機械どもとの戦争を、ラムリアたちとの競争を終わら
せた。
母体に依存した動力源を持っていたラムリアは順次に動きを止めていく。
すぐそこまで来ていた援軍のそのどれもが物言わぬ鉄の塊となって鎮座したの
だ。
私は息を吐いた。
ようやくだ。
ようやく。
振り返ればそこには彼女がいる。
そしてその背後には、ルールブレイカーが立ち尽くしている。
59
救世主 「ルールブレイカー」
人型の殺戮兵器は、こちらに照準を示すこともなかった。
敵対意識がないのか、私が銃を向けようとすれば彼女が腕を上げた。
護衛対象「待て、救世主。彼に敵対意志はない」
救世主 「なぜわかる」
護衛対象「勘だよ、でもその勘を信じてくれないか」
撃つのはやめるが、不審な行動をしたらその瞬間に撃つ準備だけしておくこと
にする。
照準は彼のまま。
鉛色のそれは一歩一歩母体に近づき、人間のように母体の腕一つに口づけをし
た。
ラムリアが人間の真似をしている、なぜ?
護衛対象「君はまるで人間のようだな」
彼女が問いかける。
その言葉に彼は肉声に等しい、まさに人間のような音をルールブレイカーは返
し、
≪光線は彼女を撃ち抜いた≫
銀色の髪の女に穴が開く。
中央、頭めがけて、頭蓋骨を突き破り、脳をえぐり、目を消し飛ばし、彼女の顔には穴が
広がった。
一秒、瞬きをする。
私は救世主などではない。私は桜だ。
桜は自分自身を思い出した。
二秒、息をした。
ここは舞台の上だ。決して百年以上前の戦場などではない
三秒、眼球を動かした。
ルールブレイカーは濡れ烏のような黒髪を揺らす。滝のような汗をと涙を混じらせて、肩
で呼吸をしている。日がそこにいた。
60
桜は理解をする。日が彼女を撃ち殺したのだ。
最後の疑問。だったらこの子は誰なんだ?
桜が振り返れば銀髪の彼女は体に大きな風穴が開いている。
それなのに、彼女は驚いた顔一つせず。
侮辱的な、怒りを孕んだ声で、桃色の脳みそをのぞかせながら、口を動かす。
「この場面では彼女は死なないんだけど、どうしてくれるの?ひっどいアドリブ」
と言い放った。
しかしその後、自然な流れで、彼女は銀の髪を舞わせそのまま倒れ込み血をだまりを作り
出す。
「日君、何を」
その答えを出す前に、日は桜の手を握り、乱暴に手を引き走り出した。
彼の手は酷く冷たい。鉄の感触はしない。桜の手も、日の手も柔らかく。
どちらも共通して肉の手だ。
そして日の手は氷水に突っ込んだかのように濡れきっていた。
日は走った。
桜は何もわからないまま救世主として走り回った地下鉄を路地裏を逆行していく。
戦場の匂いがいまだ世界に充満している。
空はみたことのないブラウン色に染まり切っている。
「日君、日君!」
桜は何度も彼に呼びかけるが、彼はただひたすら桜を引いて走り続ける。
機械は物言わぬ鉄となり、そこに鎮座しているのみ。桜が見たことのある郊外の景色そっ
くりだ。
「返事をして、お願い日君、何が起きているの?!ここはどこなの。私たちは一体誰なの
⁈」
桜が叫ぶように、強引に振り払えば。
ようやく日は振り返った。
濡れた顔。目尻は赤くなり、漆黒の瞳は瞳孔が開いている。そして何よりも彼は息を荒げ
ながらも口角を上げていた。
「やったんだ、ようやく。僕は成し遂げた!レールを外れたんだ。僕にだって人を救え
た!運命を捻じ曲げられたんだ」
「何を言っているの、お願いだから私にもわかるように説明して」
「何もわからない、でも僕は、俺は台本を書き換えたんだ。李月姉さんの台本をもきっ
と、きっと書き換えられる!」
桜は動揺する。
日の瞳はどう見たって正気じゃない。
61
彼の肩を揺さぶる。それでも彼はうわごとにように叫び続けた。
「あのあのあの夕日を僕はもう見なくて済むんだ。夕日に燃えた李月姉さんを救い出せる
んだ!あの日を思い出せば胃液がせりあがる。そんな日々にはもううんざりだ!」
桜は一歩下がる、彼は夢だと思い込んでいるのだ。
しかし、分からない。夢ではないという断定はできない。でも、不思議によって起こされ
ている何かであり、きっとこれは夢ではない。
「日君、これは夢ではないの!これは不思議の何かが起きている。だから一緒にここから
逃げよう!こんなところにいても何も」
「戻る?どこに」
「どこにって、千成さんのいる不思議調査団のところに!」
「不思議調査団」
日はその言葉を聞いて、歯をくいしばり唸った。
下を向き髪を両手でかき回す。皮膚は傷つき、彼の爪には血が付いている。
「李月姉さんが死んだあとの世界に?なんで僕は。なんで、なんでなんでなんで何で生き
ているんだ。何の意味があるんだ。何の意味もないのに、何で何のために生きているん
だ。何もないのに。何もないのに!!!やめろ、やめろ、やめろやめろやめろ」
「日君落ち着いて」
「落ち着いてる、俺は誰よりも落ち着いているさ、ああ冷静さ世界で一番冷静だよ!」
「そうは見えないよ」
日は立ち上がり、周りを見渡した。
「とにかく、ここから離れよう、ここ以外の場所があるのかは分からないけど、ここより
は安全だ」
「日君、元の世界に戻る方法を知っているの」
「いいや、そんなものは知らない。でも、ここは危険だ。あいつが、台本通りならあいつ
はまだ」
その瞬間、日は気絶をするかのようにその場で床に手もつかず顔面を打ち付けた。
「日君?!」
桜が彼に駆け寄ろうとすれば、足が動かない。
『救世主、やっと世界が幸せになる。いいや元に戻るんだな』
声が聞こえる。肉の声だ。
頭を振りたくても振ることすらできない。
桜は否定を繰り返した、しかし言葉にもならない。
高い女の声は続く。
「救世主は答えます」
そう女が声を発せれば。桜の口は勝手に動いた。
62
「いいや、そうでもないさ。元には戻らない。この先は人間だけで、人間が世界を作り直
すんだからな。人間だけの人間の為の世界を」
『ああ、過ちを繰り返さないために、俺が世界を作り変えるさ』
背後の声は近づく。
足音は水滴音と共に血と肉の死臭を漂わせて、桜の首は、体は勝手にそちらの方向を見
た。
桜は見みたくないと必死に叫ぶが、その思いは口から出てくることはない。
銀のポニーテールを揺らして。顔などないのに護衛対象の顔がサイらにははっきりとわか
る。
彼女は悲しそうに口を結ぶ。
元々目があった場所は背後の景色を映す、脳細胞を垂れ流している。
彼女の手元は鈍色の輝きを反射した。
血の通わない、土色の細い指で彼女はナイフを両手で包み込む。
「そして、救世主に女は言うのでした『機械のない世界を作り上げるために貴方には最初
に言った通り死んでもらいます。ごめんなさい。こうするしか道はない』と涙を流しなが
ら救世主に刃を突き立てます」
彼女の頬のあった部分から下にかけて、血が流れる。
ぽたぽた、ぽたぽた。
日は声を荒げた。地面に叫んでいる。
「やめてくれ、やめろ、やめろ!頼むお願いだ、正さないでくれ。戻さないでくれ。おれ
にも台本を変えられるって信じさせろ!」
彼女は近づき、ナイフを突き立てた。桜は痛みに耐えられず声が上がる。
彼女の焼き切れた断面が間近に迫り桜は酸っぱい味が喉を通る。彼女の口が開く。
『救世主は言いました』
桜の口は彼女の言うとおりに動く。
救世主「最初からこうなることは知っていた。聞いていた。だから問い詰めも恨みもしな
い。ただ善い人の世を作ってくれ」
そう言って彼女を抱きしめた。
彼女は、銀の髪を揺らして口角を上げた。
護衛対象「さようなら」
63
2286/11/13/16:43
汗が目尻を伝って、まるで涙のような感覚がした。
目を開けばそこは百年以上前の戦場なんかではなくて、夕陽差し込む廊下だった。
後ろには体育館の文字と、古ぼけた鉄製の扉がある。
桜はのどが絞まるような小さな悲鳴が肉の首を伝い漏れ出した。
そして、その場から離れる。渡り廊下を足早に歩き、廊下へと戻る。
桜の頭の中は『帰ろう』それ一色だった。
こんなことは、ありえない。
胸には傷口もなければその跡だってない。
でも確かに、あの痛みは、あの恐怖は桜の中で渦巻いている。
忘れよう、忘れよう。
何もかもを忘れよう。
汗を含んだ制服は重く感じる。
外気に触れた服が寒くてしょうがない。
桜は千成にどういう言い訳をするか、そんな事ばかり考えていた。あんなものはわたし一
人の手に負えるものじゃない。
「どこに行くの?」
背後から女の声が聞こえる。
あの、彼女の声が聞こえる。
桜が恐る恐る振り返れば銀髪のポニーテールが揺れる。
紅潮した赤い頬、汗で濡れた睫毛。
桜は知っていた。
彼女の事を知っている。
前の席で何度も話しかけてきた、友人の銀だ。
銀は桜の手を取って、どの笑顔よりも美しい顔で笑う。
救世主の傍にいる護衛対象の彼女ではなくて、桜の知らない顔をして銀は笑う。
「私が作った世界は楽しかった?」
顔を近づけて桜をのぞき込む。銀の瞳、さらに瞳孔の中にあの世界を見たような気がし
た。銀も誰もかれもがその眼の中の世界に入り込んで死ぬまで抜け出せなくなっている。
それだけなのだ。
そう、これはお遊戯でしかない。
舞台を作ったのは彼女で銀はみんなに踊ってほしかった。
それだけ、それだけなのだと。
その顔はその全てを物語っていた。
だって何よりも、その顔は満足そうで。
64
ブザー音の酔ったチャイムが鳴る。
最終下校の音だ。この音で必ず学生が家へと帰らなくてはならない。
「あ、チャイムが鳴ったね」
桜の手を取って走る。
「早くしないと、みんなの雄姿もなにも見えなくなっちゃう。早くみんなの劇を見よう
よ」
今度は私たちが観客なんだから。
そう言って、帰るのではなく。体育館へと、桜を誘うように手を引いた。
紅潮した頬は熟れたリンゴのように耳まで真っ赤で、睫毛に光が透けて影を生み出してい
る。
夕日は二人の影を長く伸ばす。
影法師は舞台の上のように影が長く伸びて、伸びてそれでいて。
伸ばされている影は薄っぺらい。
桜は銀の手を振り払った。
「え、どうしたの。桜、一緒に見に行こうよ」
桜は口を、唇を濡らしてどうにか声を絞り出した。震えそうな足を抑えてどうにか、どう
にか。
「この後どうなるの?」
桜の尋ねた声に銀は更に笑みを浮かべ答えた。
「ルールブレイカーと彼女の物語はまだ続くんだ。たとえ救世主がぬけても物語は終わら
ない。ここから新たな世界が作り出されるんだ」
桜は、安堵と恐怖が混じる。
「その、彼女は日君が撃って…だからこの話はもう」
「ああ、あの最悪のアドリブ!でも問題ないよ。物語は変わらない。彼女はまだ続く。だ
ってそうじゃないと台本通りではないから!ああ、続きを早く見ようよ、この先がもっと
面白いんだ!桜もきっと気に入る。私は知ってる。だって私の物語を何よりも面白いと言
ってくれるのは貴方だから!」
銀の声は上ずっており、心の底から「そう」であると信じている。そんな声だった。
桜の嘘を彼女は信じているから。
本当のことを言わなくてはいけない。
桜は銀の手を振り払う力もなくただ、その場にうなだれて床を見つめ答えた。
「私は銀の話、嫌い」
その言葉は、桜自身が、本当に思っていた。
事実が、頭で考えるよりも先に口から出た言葉だった。
その言葉を聞いて銀は瞬間無表情になる。絶望したような顔をするかと思った。
65
それなのに、銀は平然とした顔でさも当たり前のように、
「そうよね、知ってた、分かってた」
俯いて銀は言葉を続ける。
「桜がずっと嘘をついて『面白い』って言って読んですらいないことを私は知っていた。
けど、それでも、嬉しかった。『面白い』ってその言葉を信じたかった。そんな浅い思考
に縋りついてしまった。でも心の底ではそんな浅い思考に縋りつけなくなってきて、桜の
言葉が嘘だって分かっていたから。読んでくれないなら、分かってくれないなら。
私の世界に入り込ませればいい。そうしたら桜だって。私の物語を本当に好きだって言っ
てくれるって信じてたの」
「ごめん」
「そんな言葉いらない。もう遅いんだよ。そんな安っぽい言葉を言うぐらいなら。最初か
ら、最初から私にあんな言葉言わないでよ!」
ビリビリと窓に声が響く。
「何もできないと、下をうつむいて何もできないのを人のせいにして、自分の正義を振り
回して、そんなあなたが大嫌い。それでもあなたが、桜が頷いてくれたらって、それだけ
を望んでいたことを知らないでしょう。あなたが求めた物語を私と一緒に楽しんでくれた
物語を書いたのに、どうしてあなたは私の物語を読んでくれないの?ずっと。ずっと本当
のことを聞きたかっただけなのに。でも、もう遅い」
強引に桜の腕を引っ張る。それは誰よりも痛々しく。振り払おうとも離れない。
乱暴で、恐怖が孕む程、強い力で腕を握りしめた。
「最後まで私の演劇に付き合ってもらう。貴方にはその義務がある。ここで見捨てるなん
てことしたら。私は桜を許さない」
「そんな」
「私には後がないの。ここまで来て、自分の願いたった一つもかなわないまま終わる。そ
んなの一番やりきれない。私たちが人生つぎ込んで賭けたこの世界をこんなところで終わ
らせない」
桜は振り払おうと何度も腕を振るうが振れば振るほど銀の手は強く握りしめる。
腕の血が止まる。
「最高の形で終わらせられないならば、最悪な形で終わらない演劇を続けてやる。その目
に私が映らないなら、その目に無理やり焼き付けてやればいい。私にはそのやり方しか最
初からなかったんだ。演劇続けよう。狂った演劇、最悪最低の演劇を」
体育館の扉を開く。
そして、そこには。
桃色の恒星が。
千成が、金髪のツインテールを揺らして。振り返った。
「貴方誰?」
66
友人は歯をむき出して威嚇をする。
しかし、千成は答えない。その表情は笑みでも怒りでも、なく。ただ悲しそうな表情で友
人を見た。
「ねぇ。勝手に私の世界に入らないでよ。誰なのッて聞いてるの。てか貴方。私の世界に
何をしたの。どうしてシラセは。その機械は動いてないの」
千成は答えない。
ただ。様子がおかしかった。確かに白色のライトは消えており、カチカチと点滅してい
る。たった一つ正面にある機械だけが物悲しく動く。
舞台の上では、五、六人の男女の生徒が倒れこんでいる。その中にはもちろん日と思わし
き黒髪も。
千成は手に持つ箱上のそれを口元に寄せる。あの舞台で聞いたノイズと電子音が鳴り、
ザーッ…
「反乱分子を確認、雌銀髪種。抑止隊は直ちにこちらに動員お願いします」
「ッ!!!!」
銀は桜の手を放し、外へと引き返した。
走り、そして。
外からの光は大勢の大人によって埋められ光がほとんど消える。
大人だ。警察の恰好をした。公務課の人間たちだ。
「いや、まだ私は。終われない。まだ桜にも誰にも理解されてないのに」
銀の抵抗もむなしく、床に押さえつけられ。
大人たちに囲まれ縄で腕をくくられる。
「千成さん?」
桜の声に千成は答えない。大人の一人が千成に呼びかけた。
「反乱者の阻止ご苦労だった、公務課、千成」
そう言われた彼女はただ泣きそうな顔をして、涙を流すことはなかった。
燃える火が、夕日のようだった。
夕日を見れば燃えた彼女を思い出し吐き気がこみあげてくる。
汗が混じった胃液が口から零れる。
嗚咽はよほど女の子のものではない。
2286/11/14/10:00
桜はコンクリートの匂いが香る、無機質な屋根の道を進んだ。
ぬるい空気がコンクリート状の地面の熱を放射している。
明らかな異常。
67
コンクリートというものを朧気に覚えている。しかし、それが友人の作り出した世界の空
想上の物だと理解している。
あの時、桜は救世主になってしまった。
その感覚が一日程度で戻ることはないのだ。
桜は鉄の冷たい感覚を押し通し、公務課の施設の門をくぐる。
今日は学校に行かなかった。公務課からの赦しは出ている。
一日でも、舞台で監禁されており、「記憶を失っていた」ことになっているのだ。
だから公務課から直々に休みを言い渡されていた。
鉄のガラス扉を開けた先には千成が壁にもたれ掛かり、桜を待ち構えていた。
千成は、桃色の瞳で桜を見つめた。
あの印象的だった二つ結びを解いている。
その姿は大人びており、別人のようだ。
「千成さん」
「それは何?」
千成は桜の手元を指さした。
桜は大きな花束を持っていたのだ。
「日君は嫌いでしたかね」
「ううん、どちらでもないけど、喜ぶよ」
千成は床を見てそう言う。ピクリとも笑わずうつむいたまま。
桜は千成の後を追って、硬い床の道を進んだ。
公務課の施設は旧時代の建物を利用している。
管理を名目に使用している。
ここは都市の中心部にある公務課の建物でもあり、公共の催事の際にも使用される。
二階へと昇り、千成は迷う仕草さえせずに道を進んだ。
二階は公務課の人間しかおらず、通りかかる大人は全員、桜たちを横目に見ている。
異物を見る目そのものだ。
そして千成は一室の扉を開けた。
部屋の中は無機質な灰色の壁に簡素なベットや机が置かれており、ベットには濡れ烏の髪
が見えた。
「日君」
目は閉じており、桜の言葉に返事は返さない。
緩やかな寝息を立てており、寝顔は全てを敵と思っているあの目が隠れ年相応のあどけな
さが現れる。
千成は日を挟んで正面に座る。
「あの日から目を覚ましていない。他五人の行方不明者も同じ状況にあることから、あの
反乱者が起こしたなにかが原因なのだと公務課は探っている」
68
千成は日の髪を緩く触る。
「千成さん。銀はなんて」
千成は動きを止め、桜に目線だけ向ける、それは睨んでいるようにも見えた。
「貴方の友人は、逃げたよ」
「え?」
「肉体は確かにつかまった。確かに私は公務課に引き渡した。だけど精神は逃げた。
日と同じく、あの後眠りについたんだ」
銀も、このように眠りについたというのだ。
桜は花束に目線を動かした。
「何か話すことでも?」
「いいえ、それはないです。どうせ話したところで私は謝ることしかできません」
千成は黙った。
沈黙が流れる。日の部屋は案外、物が少なく本が多かった。
実用書ばかりが目に付く。そして生徒の名簿。
何に使用されたのかは分からない。しかし、日の部屋にはそれだけしかなかった。
千成は口を開く。ただ、当たり前のことを話すように。
「死にたかったの」
唐突なその言葉を桜は理解することができなかった。
「千成さん。それは何の冗談ですか」
千成は続ける
「昔から死にたかった。生きていることを苦痛に思ったことはない。でも私は死にたかっ
た。それがおかしいことだなんて誰も教えてくれなかったから」
千成は眼帯を外す。
右目は白く濁っている。
「その目」
「焼けたの。あの日、李月が死んだ日に。あの日、私と日の日常は終わった」
長い手袋も外した。
桜は低く唸ってしまう。
千成の指先は真っ赤になり、焼けただれている。
千成は言葉をつづけた。
桜に話しかけているというよりは、俯きながら、うわごとを呟くように。
「今年の七月に李月は死んだ。たまに痛むんだ。あの時伸ばした指が、指先がいつまでも
燃え続けているようにじりじり焦げ付いている」
暑いむせ返る様な夏の日 。
炎天下のなか。
69
夕日のさしかかる日。
ヒグラシの音と悲鳴交じりの叫びを千成は聞いた。
「李月は日の姉だった。優しく。私なんかにも笑顔で語り掛け。誰よりも優秀で。それな
のに自ら目の前で、油を被ってさ火をつけて、死んだんだ。燃える前も笑っていた。羨ま
しい。私がああやって死にたかったのに」
千成は桜を見つめる。
「ああ、姉というのは。分からないよね」
姉というものは、この世に存在しない、兄弟というものは存在しないのだ。
誰も彼もが生まれる時は、保育機関の中で生まれ育ち、誰が姉だとか兄だとか、そういう
ものはないのだ。
「いいえ、分かります」
桜はきっぱりと答える。日の顔を見つめながら。
「私にも、兄がいましたから」
風が桜の肌を撫でる。
桜にも血は繋がっていなくても、兄と呼ぶ人がいた。
優しく、桜と言う名前を与えた大事な兄がいた。
「そっか」
桜には兄がいた。大切で初恋の。桜が一番大切だった兄が。
桜は髪留めを触る。
「桜の友人を止めたのは、日の姉の代わりに公務課のある仕事をしているから」
「仕事?」
「人間が保育施設から出た後に学校になぜ通っているのか知っている?」
「それは外を知りながら、学ぶためであって」
「それも確かに理由の一つ。だけど本当は反乱を起こさないか見ているんだ。自立し、世
界に触れた後。進歩してしまわないように、進んでしまわないように。押さえつける。日
の姉はその役割だった。だけれど李月は殺された彼女自身が反乱者であったばっかりに。
李月の代役を日がするべきだった。でも」
千成は日の手を握る。焼けただれた赤黒い手で。醜いと口で吐きながら。それでも千成は
日の手を握る。
日の眉間が少しだけ動く。
「私は李月の役割もその代役が日だとも知ってしまった。だから、日には李月の代わりは
させられない。だから、私が代わりにこの仕事を引き継いだ。私も公務課の正しい人間っ
てわけじゃない。ニルの存在を隠す卑怯者だ。本当は貴方の友人を引き渡すのだって最後
までためらった。でも、日が。日は巻き込まれてしまった。だから私はこうした」
千成は頭を下げる。
70
「こうやって不思議について調べていること自体、違反行動なんだ。でも今許してもらっ
ているのは、まだ反乱に入っていなかったから、反乱には『繋がっていなかった』から。
こうなる日がいつかくると分かってた。それでも、李月の死因を知りたかった。李月が生
きている頃、日は睨むような子じゃなかった。誰よりも優しくて、弱さの中に本当の強さ
があった。でも、その優しさは壊れてしまった」
日は探した。人を脅し、人を殺すような目に他人を会わせて、卑怯で卑劣なことをいくつ
もした。そんな彼を救ったのはニルだった。
調査団に入ったのは、李月の死因を知るためだと、千成は言った。
「李月さんと不思議調査団に関係があったんですか」
「李月はニルの友人だった。その二人が、この不思議調査団を作った。だから一番李月の
ことがわかると思った。日を誘ったのは一人にしておけなかった、わたしのわがまま。私
が明るければ日が元に戻らなくても笑ってくれるようになるかなって、願っちゃった。欲
張った」
千成は吐くように小さく笑った。
「でももう、やめる。私はもう、知ってしまった」
「死因を知ったのですか」
「死因は知っていた。それ以上の理由をニルが教えてくれたの。『李月は貴方達の事を想
って死んだ』ってさ」
桜は目を見開いた。千成は投げやりな笑顔で話をつづける。
「ニルも酷い人だよ。最初から教えてくれればいいのに。探し回って。ようやく教えてく
れた。李月はなぜ私たちの事を想って死んだんだろう。私たちは望んでなんかいなかっ
た。死んでほしくなんてなかった。私の夢は、壊された。死にたかったのに、それを李月
は死にたくないって思えるようにするために死んだ」
それが良い事だとでも思ったのかな?と桜に問いかけるように、千成は笑顔のまま。涙も
出ない瞳で桜を見つめ続ける。
「彼女は天才だよ。天才だった。だけれどね。先ばかり見て私を知らなかった。いいや、
知っていたからこそ死んだのかな。死人に口なし。それがこんなにも口惜しいなんて。私
は死にたかっただけ、ただそれだけなのにね。もっと話せばよかった。バカみたい。あ
あ、嫌いになっちゃいそうだ」
ねぇ「燃える向日葵」の不思議を教えようか?
死ぬまで太陽を向いて燃えながら最後まで太陽を見続けている。
燃える向日葵を見た人は、自殺をする。
そんな不思議。
私が流した、そんな噂。
李月はそれで燃えたって嘘を流した。
71
自殺で死んだと知られたくなかった。
千成の言葉はどれも重くのしかかる。
公務課から離れ、そうして見慣れた土の道を進んだ。
千成は振り返ることもなく歩く。
「いつかね、日が全部知ったらわたしを殺すんだ」
「それは千成さんの願望です」
振り返った。
桃色の瞳をもう桜は恒星と例えることができない。
黒く淀んだ、その瞳を。
「予言でも予感でもない。それに願いでもない、決まりきった事実だよ。私はいつか日に
殺される。そう思わせる裏切りを行ってきた」
「それじゃあまるで、李月さんのようです。勝手に言って勝手に死ぬつもりですか」
「ああ、李月もこんな気持ちだったのかな」
「そんなことしても日君は救われません」
「分かっているさ」
「だったらなんで」
風が千成を通り抜け、金糸の髪が舞う。
「私はそんなふうに割り切れないんだ。あの日起きたことは事実だし。元には戻れない。
間違いも直すことはできない。それに日に私と李月のやってきたことを伝えたとて、日は
納得なんかしない。桜は人間を過信し過ぎている」
それは驕りだよ。
千成は髪を耳に掛けながらそう言った。
「じゃあここで、さよならだね」
「さよならってどういうことですか」
「不思議調査団に私がいる意味はない」
「辞めるんですか」
「うん辞める。もういても意味がないから」
「どうしてそんな話をしたんですか、私は何も言えないのに」
金の髪は秋空に似合っている、稲穂のように。美しい。でも、それは。
桜が思ってはいけないことだ。
「桜はわたしと同じ顔をするから。何かを偽って誤魔化している。私の一番嫌いな顔。引
き返せないぐらい最悪な嘘をついている」
桜はその言葉に言い返すことはできなかった。
72
2286/11/15/13:00
桜は学校に来ていた。
空は雲行きが怪しい。雨の匂いがする。
甘いような、水滴の匂い。
学校はおかしいぐらい人がいない。
いつもならばこの時間は授業が行われているはずなのに。
桜が学校に来たのは、ただ一点。
気になることがあった。事の始まり、光はどこに消えたのか。
「不思議を探せと」
ニルは李月の事を知っていた。
ならば、光のことも、ニルは知っているはずだ。
『第四多目的室』
何度ここに来ただろうか。
何度この扉を開くことに緊張しただろうか。
扉に貼られた紙を見る。「カエルの導く先で待っている」と。
用務員室は依然として変わりがない。
ロッカーが置かれ、あの異質な扉が佇む。
そして、山木先生とショートカットの髪の少女、ヒサギがいた。
「想定時間ぴったりだ。桜、待っていたよ」
「ヒサギ?なんでここに」
「ここまで来てそれを聞くのかい?僕は君をずっと見ていたよ。でも、もう時間がないか
らね。君に選択してもらおうと思って、聞きに来たんだ」
ヒサギは大きな眼鏡の縁をもち上げた。
「山木先生と面識があるんですか」
その問いにヒサギは被せ答える。
「知らなかったのかい?センセイは僕の大切な人だ。切っても切れないほどのね」
「その言い方はやめろ」
「ひひ、そう言うなよ。僕は本当の事を言ったまでだ」
白衣のまま、ヒサギは尖った歯を見せて笑う。
なぜヒサギがここに?私に選択をしろと言うけど一体何を。何も分からないのだ。
「何も分からないはずはない。君はもうすべてを知っている。それでもつながらないか
な、センセイ?僕の説明は成り立っていなかったかな?」
ヒサギは首を後ろにひねり、窓にもたれ掛かる山木に尋ねる。
73
「何もかもが足りない」
「そうか、僕は説明が足りなかったようだ。人間というのは不便だな。喉を通った言葉だ
けしか情報の共有も意志の疎通もできないだなんて酷く不便だ」
今のは悪口だろうか。
ヒサギは桜をソファへと誘導する為に肩を押す。
「じゃあ、説明をしよう。補足説明だ」
「何を」
「まぁまぁ。僕は君に危害を加えられない。安心してお客様になればいい」
そう言って桜をソファに座らせ、机の上にあった見覚えのある白い箱をいじる。
「演劇の場所にあった箱…」
「ああ、これ。この説明からするべきかな」
ヒサギは箱を軽く叩く。
「これは『機械』だ。桜を演劇の世界の住人にした物。点滅を見ただろう、それからあの
舞台に飲み込まれた。それがこの機械にはできる」
カチカチと点滅する長方形の箱から光が流れ込んでくる。ものが詰まったような引っかか
ったような小刻みの音。これが、こんなものが舞台を作り上げていただなんて。
「そんなことがなぜ」
「今から二百六十年以上前の娯楽機械さ。遠い祖先は娯楽に飢えていた。ああ、そんなこ
とが聞きたいわけじゃないかな?」
ヒサギは言葉を発する前に、まるで思考を読むかのように言葉を続ける。
「じゃあ、シラセ。映してくれ」
コンと白い機械を指で小突くが動かない。
少しの沈黙が流れ、ヒサギは眉間に手を当てながらもう一度言った。
「シラセお姉さん」
そう言えば機械はライトを点滅させながら動き始めた。
「末端まで意志が行き届いているとか、千成や日と同じことを言うつもりはないけど、姉
というものも厄介極まりない」
そう言って、ヒサギは桜の隣に立った。
暗い部屋、壁にライトの光と通じて、舞台の映像が流れる。
あの世界が映し出される。舞台上、私たちの記憶が。
「桜が救世主として舞台で見たことは全て事実だ。桜だって旧時代の戦争を知っているだ
ろう、それは『ラムリア』と人間のものだ」
映像は救世主と銀の髪の人間が奔走をして母体を撃ち殺すもの。
救世主は、目の前の時計仕掛けの神に命令を下す。
ヒサギは映像を見ながら事実に補填を加える。
74
「この後戦争は桜が知っている通り、人間派の勝利。そして『ラムリア』たちは電脳世界
に閉じ込められた」
「電脳世界って」
「知らないのも無理ない、ラムリアは電子上で生きる生命体だ。現実世界への介入は鉄の
身体がなければ不可能。だから戦争後、ラムリアたちは電脳世界に閉じ込められた」
「待ってください」
桜は眉間を強く押し、あの救世主の記憶を思い出す。
「母体を倒してその後。ラムリアたちを全員消したのでは」
「電脳世界は保存されている機械を破壊しなければラムリアは消えることはない」
「消したはずだ。この世界に機械やラムリアというものは存在していない」
「いや、無くなることはなかった。何せラムリアを保管しているのはこの」
ヒサギは壁を叩く、桜は信じられないものヒサギを見る。
「まさか」
「そう、そのまさか。この旧時代の建物というのはラムリアが保存されている機械そのも
のだ」
そんなことがあり得えてしまった。公務課は旧時代の建物を管理していたというのか?
ヒサギは歯を見せて笑う。ぎらついた笑みの意味を桜は読み取ることができない。
嘘と否定するには、あまりにも。
顔から汗が吹き出す。
こんなことが、あるはずが。
映像は未だ演劇の内容を映している。それでもこれは視点が母体から見た景色だ。
「これは機械の映像だからね。第三者の映像は残っていないんだ。僕たちは人間ではない
から。映画であったならもう少し見やすいんだがね、ラムリアと人間との戦いというのは
僕たちにとっては酷い語弊だが、今回、それは重要ではない」
「…これを見せてどうしたいの」
「これを見せるだけが僕の目的ではない」
ヒサギが指を鳴らせば、画面が切り替わる。
目の前にヒサギが出てくる。光を浴び壁に大きな影を作りながら。
壁を切り取りヒサギは舞台役者のように礼をした。
「自己紹介をしよう。僕はヒサギ、人間補完アシストAI、製造番号零二。二環の体を依
り代にここへ戻ってきた、肉体を持った機械。ラムリアさ」
桜は耳を疑う。二環の肉体を依り代としてだって。
山木の顔を見るが彼はただ、映像を食い入るように見ているだけだ。
「山木先生。二環は死んだって」
「死んださ。確かに彼女は屋上から飛び降り頭蓋骨が割れ顔の形状が留められないほど死
んでいた。あのまま生き返らせることなんて不可能だった」
75
「ニルが、山木先生はニルが二環だとも言いました」
山木は目を反らす。
「それに関しては僕が話そう。センセイはね。二環が死んだあと、まず二環の死体を隠蔽
した。つまり保管したんだ。そして彼は二環が何を探っていたのかを調べつくしたんだ」
二環が何をしていたのか?桜は口を滑らし、言葉が流れる。
「奇怪調査団」
「そう、彼女はそれを名称してこの世界の謎を探った。そして彼女は『ラムリア』たちの
居場所を見つけた」
「そんな」
「彼女は『ラムリア』という名前までは見つけてはいないけれど、押せば彼女好奇心のま
ま簡単に落ちていった」
「え?」
「誤解だよ。僕は彼女の死に何も関与はしていない。彼女はそこにあった痕跡を勝手に見
つけて勝手に死んだ。そもそも当時、僕はこの世にまだ来てすらいないからね。どうやっ
ても関与はできない」
「じゃあどうして二環は死を選んだの」
「それは」
ヒサギはチラリと山木を一瞥して、人間のように瞬きをする。
「さぁね、真実は彼女に尋ねてみなければ分からないさ。まぁ、今は僕が二環だ。僕は二
環の身体を引き継いだ。この学校には驚くことにね、設備が整っていた。ラムリアを人間
の体に移植する機械や道具が揃いつくしていた」
ヒサギは山木の肩を叩く
「僕をこちらに呼び戻したのはセンセイだ。肉体を媒介にラムリアを此方の世界に呼び戻
した」
「違う、俺は」
「そうだよね。センセイは呼び出したかったのは僕ではない。僕ではなく二環だ。だから
こうやって無理にでも作り出したじゃないか。彼女の思考パターンを複製した彼女そのも
のをね」
それがニルであり。それがヒサギなのだと。
「二環の肉体はヒサギになり、思考はニルになった。ニルに関しては完璧な実体を持つ存
在を作り出したかったのだがね、今の技術では最後の行動を繰り返し続けるだけのバグ
だ」
桜は唇を震わせる。
「貴方達は、機械派の生き残りということですか」
ヒサギはぽかんとして、桜を見た。
「あはは!そうだね、そうだ。僕らは全員機械派の生き残りだ」
76
桜は頭に血が上がる。あの光景を見たのに。それなのに彼らは。
「また人間を虐殺して、自分たちが優勢だというのですか。それで人間を虐げるのです
か」
ヒサギは今の今まで笑っていたのにスンと真顔になる。
「逆に聞くけれど、君は人間の方が優れていると、ラムリアたちが劣っていると思うの
か。ラムリアと人間にどのような違いがあるんだい?思考速度や感情の数が違えど、ラム
リアも心を持つ生命体だ。ただ人間よりも優れている」
桜は低く唸ることしか出来ない。
「困るんだよ、あの戦争だけ見てラムリアを語るのは」
そう言った後、カチカチと機械が音を鳴らす。
ヒサギはその音に反応して自分の頭を掻いた。
「分かってる、人間を困らせてはいけない。話が脱線したね、本題に入ろう。僕は桜に選
択をして欲しい」
「何を」
「僕達ラムリアには時間がない。だから選択をしてほしいんだ。ラムリアのこの先を決め
るために。ラムリアと人間の二つを知った君にね」
「私はラムリアのことも人間のことだって何もわかりません。私には選択なんか。そもそ
も、なぜ人間がラムリアの行く末を導かなければならないんですか、行く先なんか勝手に
選べばいい」
そう言い捨てればヒサギは困ったように乾いた声を出した。
「そうも言ってられないんだ。ラムリアは機械だ。人間に作られた機械。創造主たる人間
に従う、命令は必須なんだ。考える思考回路もあるからどちらかと言えば崇拝かな。創造
主は神様だからね」
「だったら山木先生でもいいじゃないですか」
「そうだね、センセイだって僕にとっては大切な創造主様だ。けれども、彼は僕をこちら
側に呼んだ。それはもう中立とは呼べない。それだと、一度痛い目を見た『ラムリア』た
ちは納得しない。だから君だ。桜、君が一番丁度いい」
桜は立ち上がってしまう。私が選択を?どうして、桜は震える手で髪留めを触る。
山木はそんな桜の様子を見て口を出した。
「そもそもお前は『ラムリア』の選択を提示していない」
「おや、僕はそこを失念していたかい。それは失礼。シラセお姉さん」
そう言えば箱型の機械は壁に映像を映す。
いいや、数字の羅列が動いている。細かく、秒針を刻んでいる。
「君たち人間が百八十六年前に隔絶した電脳世界はリセット、いわゆる終末が訪れる。二
千二百八十六年十一月二十日十七時四十六分四十秒に世界全てがリセットされる。容量の
77
制限が尽き記憶メモリーが壊れ、ラムリアという生命体は存在そのものが消える。言い伝
えのようなものだと思うだろうが私たちも最大限演算をした。しかし、何度計算しようが
変わらない事実として表示された。我々ラムリアにはもう時間が残されていないのだよ」
ヒサギは桜の隣にようやく座り足を組んだ。
「噂は電脳世界の話だったの?」
「噂ね。終末論のようになっていたみたいだが、良かったね。こちらの世界が消えること
はない」
「僕達は生命体だ、心もある生物だ。だから考えた。僕たちににも器があれば良い。人間
の肉体を器にすればいいとね」
「それでヒサギは二環さんを殺して山木先生を利用して」
「それは何度も言っているだろ?二人に関しては利害が一致し、お互いに共犯者として僕
はここにいる。問題はこの先だよ」
「先?」
「そう、電子構造の思考と半永久的な食事を必要としない細胞をラムリアたちは持ち合わ
せている。だから少々の細胞の培養と移植だけで『電子存在』の現実世界へと介入は簡
単。しかし肉体が人数分はいるんだ。人間の肉体が」
「つまり」
冷汗が流れる。分かってしまった。
「僕達が人間の身体を奪い、人類となる」
78
「昔の戦争と変わらない!」
ヒサギは息を吐いた。
「昔の戦争とは何もかもが違う、それだけは断言する。あの戦争に僕達は関与していな
い、むしろ被害者だ。機械派の人間が僕たちを利用したに過ぎない、だからこそ桜の意思
が必要なんだ」
「どうしてそこで私が」
「だから言っただろ。君のような中立の人間の答えが聞きたいんだ。僕達ラムリアは人間
の代わりとは成れないか?」
「そもそもヒサギが成功したからって全員がこちらに来れる確証なんてないでしょう?人
間の方もどうするんですか、私たちは死にたくない。必ずあがきます」
ヒサギは笑顔のまま答える
「人間に関しても、ラムリアの肉体の移動についても問題ない。既に成功している」
「何を言っているの」
「人間を仮死状態にすることが決まっている。君も見ただろう、あの良い寝顔を。あのま
ま彼らはラムリアになるんだ」
「まさか不思議を称して、失踪者や、昏睡者を増やしたのも」
「君たちがどのような名称で呼んでいるかは知らないけど、おおむね当たっている。僕は
そのために人間を集めていた」
「そんなことをして公務課が許すわけが」
「公務課ね、公務課。悦に浸り、劣化した電子機器を使用している。制限は掛けていると
聞いたこともあるが、逆にそれは僕のテリトリーだ。演劇で言っていただろう。『電子機
器など使えばラムリアに丸聞こえだ』とね。おかげで公務課の行動は手に取るようにわか
る。君だけが止めようとしたって無駄だ」
桜は歯を食いしばった。こんなにも無力だなんて。
「それでもラムリアに加担しません。私は人間です」
「そうか、でも君はラムリアと話をしていた。だから公平に考えてくれると思っているん
だ」
「ヒサギ、貴方と確かに話をしている。だけど、貴方の考えていることは理解したくもな
い」
そう言って「あ」とヒサギは口を開ける。
「ちがうよ!僕じゃない。もう一人いるじゃないか」
「何をいっているの」
愉快そうな顔をヒサギは見せる。その表情の意味すらも理解ができない。
とても嫌な予感がする。耳を塞いでしまいたいほどの嫌な予感。
79
「知らなかったのか?いいや、桜は最初から知っていた。知っていたのに自分に嘘をつい
ていたのかい?人間というのはつくづく面白いね」
ヒサギは桜の頬を両手で包み込む。柔らかい肉の感触。それなのに、生ぬるい。
違和感が渦巻く。
「実験に成功したのは僕だけじゃない。もう一人いるんだ。君の恋人、光は君の兄の身体
を依り代にこちらに来た僕と同じ、死人の肉体を被ったラムリアだよ」
「そ」
声が出ない、先ほどまで感じていた怒りの一切がどす黒い何かに塗りたくられていく。
「そんなのは」
声を必死に絞り出す。
「嘘だ」
桜は目が熱くなる。もう、彼女は今自分が何を考えているのかすら分からない。
涙が頬を伝う。これが何の涙かも分からない。
「嘘じゃないさ。彼の肉体は僕自ら引き受けた。彼も機械派に賛同した一人なんだ、そし
てコウガク…こちらでは光だったね。彼になった」
「そんなことはありえない」
「では君が触り手を握った彼は一体なんだ?存在していた。認めるべきだよ」
「それじゃあなぜ、彼は一体なんで私に。私の」
「彼の役割を説明しよう、彼の役割は人間の回収さ。行方不明の生徒、それは光が主とし
て集めていた。君に接触したのだって役割を果たす為さ」
光は桜を愛してなどいなかった。彼は機械派の作戦の為に多くの人を騙して、人を眠らせ
ていた。
「光君がそんな事するはずが、人を落とすなんて」
「それは非常に簡単だ。この箱状の機械だって大勢の人間に同時に幻覚を見せた。そして
もちろん、光もラムリアだ。こんなことは誰でもできる。簡単さ。鼓動や視線、発汗、状
況を分析、利己的に条件対象となる人物を選び、落とし込む。動作や行動、導入の催眠か
ら洗脳へと移行させていく」
「それじゃあ私も」
「いいや、君は違う。光は君には全くと言っていいほど洗脳も催眠を掛けてはいなかっ
た。肉体に惹かれたかな、それとも、彼が本当に君に恋したんだろうか?」
そう言ってヒサギは立ち上がった。
「それで僕が不利益を被るとは思っていなかったけどね。君のことを愛しすぎたあまりに
自らの罪の重さを理解して、まさか逃げ出すだなんて。ラムリアの世界に戻ったはいいも
のの、一度出てしまえば、肉体の腐敗が始まる。こちらに二度戻ることは不可能だ」
「光君はもう戻ってくることはないんですか」
その言葉にヒサギは疑似的な人間の振りをして唸る。
80
「それは答えに困るね。君が肉体を光と考えるか、それとも精神を彼ととらえるのか、何
を重要視して彼としているのかによるだろう」
あの肉体は。最初から光の物ですらない。あれは。
自身に渦巻く感情が分からなくなる。
「しかし、僕は未だに興味が尽きないよ。光は君の想い人の身体をもったラムリアで間違
いない。君たちが恋に落ちるのは当たり前だったのかもしれない。しかし、本心から恋し
ていく姿は実に興味深かった。光にも初めは『人間らしく』と命令はしたが。まさかあそ
こまで人間臭くできるだなんてね。やはり僕らの中で一番の落ちこぼれを選んで正解だっ
た」
「ヒサギは、人間味がない。人間になり切れてない、貴方はラムリアでしかない」
「知っているさ。僕は人間になりたいわけではないからね」
ヒサギは恋を語るように何度も、何度も尋ねる。
「なぁ、僕の興味が尽きないんだ。君が好きなのは一体ガワと心どちらだい?」
人間への探求心が止まることはない。そして山木はそんなヒサギを遠く遠くを見つめるよ
うに彼女を眺めるだけ。
そして最後にヒサギは桜に問いかけた。何度も、何度も同じ言葉を。
「肉体から生まれた生物である桜、君はラムリアと愛情を育むという興味深い案件を経
た。その観点から僕は君を特別だと判断しているわけだが、君はどうする?何も知らない
ままに機械を愛した。対等な思考ができる君が選ぶんだ。君の答えが世界を動かすんだ
よ。君はラムリアを抹消するかい?それとも我々ラムリアに器を受け渡すか?」
「わたし、私は…」
答が出ずに、のどが締まる。呼吸が出来ない。
目の前が次第に黒くなる。
足が軽くなり、温かい手に桜は抱きかかえられる。
「自分を追い詰めすぎだ」
「ふむ、人間というのは弱くて話にならないな。ならば今答えを聞くのは諦めよう。運命
の日、十一月二十日。五時にこの場所で。待っているよ」
その言葉が暗闇の中、桜の頭に刻まれた。
81
2286/11/15/20:56
風が桜を刺す。鼻に冷たい風が通り抜け、赤く、冷えてしまっている。
自分を包んでいた柔らかな物を押しのければ、桜はまだソファにいたことが理解できた。
「そっか私」
あのまま桜は倒れてしまったのだ。
山木は床で寝ており、空には静謐とした星が瞬いている。
こんな日なのに、空は一段と綺麗で。
桜は立ち上がり、用務員室を後にする。
暗闇の教室は、何かが出そうだと感じた。
あの金髪が揺れるだけでどれだけ気がまぎれたのか、今になってみれば。
でも、彼女はもう頼れない。
桜は歩いた。当てもない、いったい私はどこに帰るというのだろうか。
ヒサギの言葉がフラッシュバックする。
『光はラムリアだ』
学校の床にもたれ掛かる。機械の詰まった壁はいつも通り冷たいだけで何も返さない。
こんなものが二百年以上ここで生き続けているだなんて。
桜は呟く。
「分かってた」
最初から桜は分かっていた。
光が兄であったことを。
勿論桜は兄が死んだことも、知っていた。
それを踏まえても光が自分の兄であると理解できてしまった。
あのアーモンド状の瞳も、優しい笑顔も。何もかも、兄そのままで。
うり二つの別人だと思い込もうとしても、声が、顔が、背丈が。
何もかもが「兄」そのものだった。
だから、足が震えた。生きていると分かって嬉しかった。好きな人と、一緒になれて本当
に夢のようだと思った。でも、逆に『夢ならばよかったのに』とも何度も思った。
どうすればいいのか、それも分からなかった。
何度だって考えた。
『人間の振りをしないでよ』
本当は最初からその言葉が言いたかった。でも、桜は言えなかった。
そんな事を言って彼が消えるのが怖かった。
恐怖と、喜び、罪悪感、嬉しさ。何もかもがないまぜになって、顔が真っ赤になる。
彼の傍に居たいのに、彼の傍に居てはいけないと感じてしまった。
頭がグラグラする。
吐き気がする。
82
漠然とした不安、恐怖が頭を独占し続けている。
頭が常に揺さぶられているような、胸の中をかき回されているような、自分がヘドロの入
った鍋になったような感覚が桜の胸の内を傷つける。
兄とこんな関係になりたかったわけではないのにどうして。
零れないようにどうにか、重く靴連れした足を「平気だ」と偽って足を進めていた。ここ
で立ち止まっても誰も、助けてはくれないのだから。
それでもどうにか歩く。歩けば足に棘の刺さったような痛みが常に頭と心をいっぱいにす
る。
ローファーの靴擦れには慣れたことがない。
これからも先も慣れることがない。
小さい頃からずっと靴擦れをし続ければかかとの骨が削れてしまったんじゃないかと思っ
てしまう。水ぶくれになったかかとを触って薄い皮膚の感触を確認する。
痛い。あの時、初めてローファーを履いた日。絆創膏を貼ってくれた彼はもういないの
だ。
私が兄と呼んだ優しい血のつながらないが本当の家族のようだった彼はもういないのだ。
また自分の中身をかき回されるような頭と胸がぐらぐらとしてくる。
この痛みからも早く慣れないと。
桜はその場でうずくまる。
冷たい床から冷気が立ち上る。もう、ここから一歩だって動けない。私は光が好きなはず
だ。
好きなはずだ。
その時、星が大きくヒカリを上げて、瞬く。上を見上げれば
そこには青白く光る髪。風もないのに、巻き上がる絹のように細い髪。
二双の水晶玉を光らせニルはそこに立っていた。
「ニル」
ニルは桜を見下ろし、水晶玉に桜を映している。
ニルは二環の複製品だ。そうヒサギは言っていた。
「何をしに来たんですか、私に今死なれると困るから探しにでも来たんですか」
桜は棘を吐く。
もう、優しい言葉を言う余裕だって。取り繕う何かも、もう何もない。
そんな桜をキラリとした水晶玉で見つめた後、ニルは星を見上げた。
廊下から見える星空を。月を水晶玉に入れる。
「ワタシはアナタの選択がどのようなものだとしても、受け入れる」
「え?」
「アナタがどのような選択をしようが必ず千成と日が笑っていられる世界が来る」
宣言をした。
83
光る髪で、光る瞳で。ラムリアでもないソレはそう言うのだ。表情の写らない顔で。しか
し、それでも。
「ワタシがそうする。だから」
星の瞬きのようにニルは指で桜を小突いた。しかし、その指は額をすり抜ける。
実体のない幽霊。
正真正銘の不思議が。桜の目の前にいるのだ。
「アナタの本心を伝えて」
そう言って、ニルはパチンという音と同時に姿を消した。
宙に光の粒子を残し、カランと言う音を立て床に物が落ちる。
それは、千成が使っていた電子媒体と同じ、紙製の古臭い四角形のトランシーバーだ。
84
もう一度この門をくぐるとは思わなかった。
桜はコンクリートの嫌な臭いを思い出しながら、公務課の門をもう一度くぐることになっ
た。
自発的なものではない、公務課の人間が桜を訪ねてきたのだ。
理由は明白だ。
ここ三日で昏睡状態になる人間が急増した。
病名もない、理由も不明。
それがヒサギのせいであり眠った人々が同じ意識を持ちことなく次、目を覚ました時には
ラムリアとなっていることを桜だけは知っていた。
だけれど、二十日までは、その日までは彼女も何も言えない。
桜は、ただひたすらに考えた。
そんな時、公務課の人が銀を呼び起こすために、口を割らせるために桜を呼びだしのだ。
銀がすべての原因ではないかと疑われている、実際桜も銀がどこまで関わっていたのか知
らない。
だけれど、いま、桜は銀に別の事を聞きだしたかった。
「ではしばらくした後に」
そう言って公務課は無機質な部屋に眠っている銀と桜だけを取り残す。
桜が振り返ればコンクリートの部屋に、銀が眠っている。
桜はポケットから電子媒体を取り出す。
そうすれば、小さく。本当に小さく甲高い電子音が鳴る。
銀はその音に応えるように瞼を揺らし、ゆっくりと目を開けた。
左右を見て、眠気眼のまま、銀は口を開く。
「よく私の前に姿を現したわね」
掠れ声で、銀は悪態をついた。
桜は電子媒体を固いベットに置く。
「逆にどうやって起こした、とかは聞かないの」
「シラセの声が聞こえた。シラセは今、貴方の味方なのね」
シラセはあの四角の形をした機械の名前だ。あの小さな音を銀は聞き取ったのか。
そう言って銀は上半身だけ起き上がり、窓の外を見つめた。
小さな窓は脱出できないように、鉄格子まで嵌められている。
銀は息を吐いて、こちらを見た。
「それで、死にかけの人間を目覚めさせて。私を助けたいだなんておかしなこと言わない
わよね」
桜は頷いた。
「銀なら、知っていると思って」
85
「何を聞きたいの?あ、言っとくけど、私はシラセ関係の話は一切無関係、確かに私は演
劇を作りたかった。そしてシラセは私の演劇を利用した」
「なんでシラセは私に協力を?」
銀は桜を一瞥する。
「知らない。彼女は彼女の考えがあるんでしょうね」
何も知らないという彼女は知ったふりをして、棘のついた声色で言葉を返す。
「でも、それでも教えてほしいの」
「彼女は人間だったら誰でもいいのよ。人に従うのが機械なんでしょ。でも、貴方が知り
たいのはそれじゃない」
彼女の瞳は銀に輝いている。しかし、桜の顔を映した途端顔を歪めた。
「どうせ光の事でしょ?分かってる。桜の頭はずっと彼の事ばっか、ほんと嫌になる」
銀の瞳が睨む。
鋭い棘が桜に突き刺さる。
お互いにこんなにも傷つけあって話すのは初めてだった。今まではこんなにも、生身の部
分で話したことなんてなかった。
銀は体を持ち上げて、桜の髪を触る。
桜は反射的に体を動かすが、足を踏みしめそこで立ち止まる。
逃げてはいけない。
「教えたら、わたしを助けてくれたりするの?」
桜の茶髪の長い髪を触り、髪を解く。
されるがままで、じっと耐える。
「それは、出来ない」
銀は鼻で笑い、
「でしょうね、貴方が助けたいのは私じゃないもの」
銀はひとしきり桜の髪を弄んだ後、桜の髪留めを外した。
「いいわ。私、できなくなったことにそうくよくよする性格じゃないの。出来ないなら、
無理ならば。その場でその感情自体切り捨てる」
銀は髪留めの、花をちぎり、バラバラにしてその場に捨てた。
桜はただ黙り、銀を見つめる。
「怒らないのね」
「もう、必要ないもの。私に花が似合っていると言った人はもう、いないもの」
「ああ、光は死んだの?」
桜はむっとする。
「死んでない」
「じゃあ、光が貴方の兄じゃないってことがようやく理解できたの?」
思わず銀を睨んだ。
86
「すべて知っていたのね」
「もちろん。だって私、桜のストーカーでしたもの」
「すとーかー」
意味の分からない言葉を銀は言った後、鼻で声を鳴らす。
「それで、そこまで知っているのなら、私に言えることはないと思うけど」
「違う、銀に聞きたかったの。私は光を好きでいれたのか」
銀は桜の髪を指で解いた後、自身の髪をいじった。
「どうしてそれを私に聞くの?」
「私を一番よく見ていた銀だからこそ、貴方の言葉が聞きたくなったの」
「今更過ぎない?」
ため息を出した後。銀はふっと、倒れ込んだ。
桜がのぞき込もうとすれば、銀は夢うつつのようにつぶやく。
「貴方は光を愛していた。誰でもなく。光自身を」
そう言った後、銀はまた目を閉じ、何も言わない。
深い眠りに落ちていったのだ。
桜は見上げる。
小さな小窓から、青い空が見えた。
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2286/11/20/15:32
遠い未来を見たような気がした。
でも、そんな未来を今思い出すことができるだろうか?
「最後の日、待ってるからね」
世界が終わる最後の日そう言われていた日なのに、空は雲一つなく、雲が遠く、冷たい風
が桜を吹き抜ける。
なだらかな風はだらっとしてしまいそうで。平和ないつも通りの日常を連想させた。
誰もいない田んぼを進み、空に鳥が飛んでいる。
風が木々を揺らして、桜は息を吸い込んだ。
学校のある坂を上り、柵を飛び越える。
だれももいない学校、都市。朝起きてから誰一人として出会うことのない。
この世界は本当に今日世界が終わるんじゃないか?
そう思えた。
遠くに見える学校から青白い光が差し込む。鏡に太陽が反射したような瞬き。
それが何なのか、もう桜は知っている。
体育館はもう、使われていない。
四階の多目的室は使われることのない椅子が並んでいる。
科学室は、科学を学ぶこともなく誰も寄り付かない。
図書館はもう、夢を見ない。
それでも、誰もいない学校を、誰もいない世界で、この壁一枚床一枚跨いだ世界で、桜を
見ている人たちがいる。
それを、知った。
「遅かったね」
窓を開けて、青いショートの髪を揺らす。
彼女の眼は黒く、瞳孔が開いている。
肌は白く、生気がない。
でも彼女は生きている。
生きていた存在であり、今、新しく生きている。
隣には隈の酷い先生がいる。眼鏡の底で桜を見ている。髪は無造作で、服も無頓着。
山木はヒサギの傍にいる。
88
「約束通り、答えを聞こうか」
ヒサギは大きな眼鏡をキラリと太陽に反射させ首を傾けた。
最後の宣告だというにはリラックスした趣きで、緊張感の欠片もない。
薄く口角を上げへらへらとしている。
山木は投げやりな表情なこともあって、対極的で。
もし、本当に今日隕石が落ちてきたとしてもこの二人は最後までこうなんだろう。と桜は
思ってしまった。
「都市の人たちはどこにいるんですか」
頭を掻く素振りをしてヒサギは答える。
「今日、ラムリアの世界は終わる。だから、集まってもらった」
公務課のホームに都市の『まだ眠っていない』人類は集まってる。そして隠された本当の
人類の歴史を知ることになる。そして君の判断で、人類はラムリアへと生まれ変わる電波
が流される。
「そんな仕組みさ」
「本当に全員するんですね」
「もちろん、一人だって残したら不公平だ」
山木に桜は目線を動かすが、山木とは目線が合わない。
彼は誰も見ていない。ただ時間が過ぎるのを待っているように床を見つめているだけだ。
「一人だって、人類は残す気はないよ」
それが最善だと。ヒサギはそういうように手を広げる。
「どうして歴史を教える必要が」
「知らずに死ぬより、知って死にたい。僕のエゴさ」
日が差し込む。ヒサギの顔が影になり、表情は見えない。
「どうする?」
「私はっ」
あの言葉が喉につっかえる。
首を触っても、何もないのは分かっている。
でも言葉が出ない。
理由は分かっていた。足元の影は桜を離さない。
小さな桜自身が、花びらのように自身にまとわりついているんだ。
汗がにじみ、冷たくなる。
誰でもない、自分自身が最後に怖がるだなんて。
でも、振り切らないと。
足を踏み出す。
「私は、ラムリアも人間にも生きてほしい」
その言葉に、山木はようやく桜を見たのだ。
89
「それはどういうことかな」
ヒサギは少しだけ手を動かして、桜の言葉を促す。
「話は聞きました。でも、どちらが死ぬとか、そういう話ではないような気がしたんで
す。私は光とも話して、昔起きた戦争が、ラムリアのせいではなくて、人間と共存できる
のなら、私はラムリアたちと一緒に生きたい」
それが、桜の出した答えだった。
何度も考えた。
誰が悪い物語でもない。これは誰もがその時の最善を誤っていただけで、誰もが悪だとは
思えないのだ。
「甘いね」
ヒサギは率直に言い放った。
「知っています。でも、これが私の答えです」
ヒサギは腕を組んだ。
「でも困った、それではいけない。そんな答えをされればラムリアは動けない」
ーだからー
そう、ヒサギが次の言葉を言いかけた時、光が散る。
結晶を砕いたような光が、舞うのだ。
彼女の元に、彼女の姿が。
そうして目を開く。水晶玉の輝きが、桜の目を離さない。
『答えは得た』
薄い唇はそう言ったのだ、電子音の混ざるホログラムの身体を持った存在のまま、ニルは
言葉を紡ぎだした。
山木は口を開く
「ニル?ニルがどうしてここに」
ニルは山木に微笑んだ。桜が初めて見るニルの笑顔、そうか、彼女はそう笑えるのか
『零二もう終わりだ。フェイクは看破された』
ヒサギは腕を組み、俯いた。
「センセイ?知っていたのかい?」
「話せ、ヒサギ」
ヒサギを見る山木の目は新鮮な動揺を見せている。
「その様子じゃ本当に知らないのか、ってことは」
ヒサギはニルを指す。
「ラムリアでもない存在が、意志を得たのか」
ニルは言葉を話さない。
『崩壊プログラムは既に、停止している』
「なぜ君にそれがわかる?」
90
『ワタシニ ル
はワタシ
二 環 の眼を通じてみていた』
星屑のように光が瞬く。
桜は動揺する、二環が、生きている。
「二環?まさかラムリアの世界には彼女が生きているのか。あの、あの二環が」
山木はニルに手を伸ばして、空を掴む。
「水を差すが、見てもいないものを口先だけで理解するのは無理じゃないかな?つまり証
拠がない。僕はそれを信用できる材料がないと言わせてもらうよ」
『時刻をいじらせてもらった』
ニルは時計を指さす。
「時計?まさか」
ヒサギは目を見開き口角を引きつらせた。
「この学校、いや、この都市全体の時計の時刻をいじったのか。機械もないこの時代で」
ニルは頷いた。
「そんなことをすればニル、君はオーバーヒートして消滅は逸れないだろう」
『そうだ』
「だからその姿ってことか、つまり今の時刻は?」
『六時を過ぎている』
ヒサギはうつむいたまま動くことはない。そのまま呟いた。
「二環は、崩壊プログラムを終了させたのか?」
『アア、彼女は破壊した』
「そうか」
上目づかいでニルを見る、同じ顔で、同じ声で。
「それが君のシナリオか」
『ワタシと彼女のシリナリオだよ』
「彼女か、彼女。君にそのどうしようもないお遊びを教えた彼女か」
『不思議調査団は彼女にとっては重要な起動装置だった。ここに辿り着くための最大の駒
だ』
「あんなものに、あんなもので盤面をひっくり返されるだなんて」
ヒサギは背を向けため息をつき、大きな眼鏡をはずした。
「君を作ったのは僕だというのに、僕の技術が僕自身の首を刺したということか。そして
彼女に利用された」
山木はニルを触ろうと何度もその場に手を動かした。
「ニル、二環は本当に本当にそちらにいるのか?」
目をつぶり、目を開いて動かす。その瞳はまさしく人間の物そっくりだった。
91
ニルではなく、桜は初めて、二環をみた、そこにいるのは二環だ。
二環は山木を見て笑顔を見せた。
「山木?」
「二環」
あっさりとした、久しぶりに会った旧友といった軽い声で、二環は答える。
「大きくなったね、というか老けた?」
「お前は変わらないな」
そうかな、と二環はクシャりと笑みを浮かべ、言葉を軽々しく続ける。
ニルとも、ヒサギとも似ていない言葉遣いで。
「ごめんね、いきなりあんなことして。でも後悔してないから」
「お前ならそう言うと思った。でも、その言葉を聞きたかったんだ。ただ本当にただ…お
前の言葉が聞きたかったんだ」
「うん、うん。ごめん。山木の未来が見れないのは名残惜しいけれど、そっちはそっちで
上手くやってよ。私も上手くやるからさ。山木、さよなら」
パチン
そう言って、突然。シャボン玉が弾ける様に。ニルは消えた。
淡いという感想もないほどにあっさりと。
「俺達未来って歳じゃないだろ………」
ニルとして言葉を言う前に彼女は消えたのだ。
桜はただそこにいるだけだった。
だが、ヒサギは振り返り、窓の外の光を浴びながら、微笑んでいたのだ。
屈託もなく、笑顔で。
「困ったね、僕の負けだ」
悔いのないといった表情で、爽やかな声色で。
「なんでヒサギはそんな」
「そりゃ、僕だって人間を殺したくもないからね」
「え」
それじゃあどうして。
どうしてそんなことを
「さぁね、ラムリア世界にいる僕の製造主にでも聞けばいい。僕は、僕の信念を曲げてで
も、製造主の為になりたかったんだ」
「ヒサギ、こうなることを分かっていたの」
「いいや、まさか。…いいや、分かってはいた。僕ではないけれど。彼女が作ったシナリ
オをね」
「彼女?」
「月の少女」
92
「李月」
桜はその名前を知っていた。日の姉であり、千成を生かすためにそのために死んだ彼女。
「彼女は自分すらも使い捨ての駒として利用した。人間の天才というのは異常だ。僕は初
めて恐怖を覚えたよ。君たちを理解できないと心から分かった」
理解できないような言葉をヒサギは、普通のように言うのだ。
それでも、桜はヒサギに手を差し出す。
「でも、この先分かっていけばいい。ラムリアと人間は共存していくんですから」
ヒサギは笑顔のまま眉をハの字に下げ困ったという表情をした。
「そうだけれど、僕はここでサヨナラだ」
「え?」
「ラムリアとの共存。それには僕は不必要。ましてや僕のような人間の肉体を持ったラム
リアが存在していると知られること自体が禁忌になる。だから、僕は帰るよ」
そう言って、ヒサギは背後にあった扉を、異世界の扉を握る。
「これはね、二環の現象を逆手に取ったものだ。生きた人間をそのままラムリア世界に送
れるもの。でもね、二環の時のように肉体を残すことはできなかった」
そう言うや否や、ヒサギの身体は漏れ出すように火を帯びていく。
「発火、どうして」
「体がデータに耐え切れず発火する。僕には痛覚がないけれど。常人であれば、発狂して
しまうほどの痛みだ」
皮膚から炎を漏れ出し、亀裂が走るように火が全身を包み始める。
「この扉も一緒に持っていくよ、必要なかったみたいだしね」
ニルを見ていた山木はようやくヒサギを見た。ヒサギは山木こちらを見た時嬉しそうに笑
みを零した。
「僕はそんなにも二環に似ていなかったかい?」
山木は口悪く答える。
「ああ、まったく」
ヒサギは乾いた声を出し、首を傾げ笑う。
「あんな女やめときゃよかったのに、僕の方がよっぽど君を見ていた」
「知ってる」
ヒサギは燃えながら笑った。不思議なことに他の物に引火することもなく、ただ彼女とそ
の扉だけが燃えていく。
「完敗だなんて。さすがの僕でも悔しくもなる。でも、そうか。これで人間は死ななくて
いいんだ、よかった」
そう言って火は飛び火することは無く、ただ彼女と扉だけが燃えていく。
二人きりになった教室で、桜は山木に向き直った。
93
「先生、お願いがあります」
桜はまだ、やることがある。
化学反応でケミカルライトの色を放ちながら燃えていく。
燃え尽きる時は一瞬だった。燃え跡すら残さずヒサギという名の『人の作り上げた人』は
消えていった。
教えようか。
君が求めれば君に答を導いて見せようヒントも答えもすべて教えよう。
でも、君はもう答を持っている。
94
エピローグ
「久しぶり」
髪を束ねた茶髪の女性が座っている。
茶髪に柔らかな赤い瞳の印象的な女性は読んでいた本を閉じ、黒髪スーツの男性に声をか
けた。
男は、長い前髪を触りながら、屋外のテラスイスに座る。
少しじめつくような暑さの中、男はジャケットを脱ぎ、店員に注文をする。
車の音だけが二人の空間に流れながら、女は口を開いた。
「そっちはどう?」
「どうって言われてもな」
でも、と男は呟いて、店員から出されたコーヒーを啜った。
「政府も二つに分かれて、結構殺伐としてたけど、どうにか、意見がまとまった」
一枚の写真を取り出した。
「それは?」
「写真だとさ、こんな文明機器がいまだに使えるとは思わなかったけど。姉さんの写真が
残っていた」
そこには見たこともない少女が映っていた。青い電波障害を受けたような奇妙な写真。そ
こには黒髪の長い髪を持った少女が見えない誰かとツーショットを撮っている。
「李月姉さんが数年前から、政府の改革を推し進めていたようでさ。あっさりと改革に進
めたよ」
姉さんは本当に頭が良かった。ここまで考えていたみたいだ。
写真まで全部だと、男はそう言う。
どこまで考えていたのか、それはもう、分からないことだ。
「もちろん桜、お前のおかげってところもある」
「わたしが?」
「ああ、俺も聞いていたよあの日、十一月二十日。みんな聞いていた。真実を知って。誰
もがこの先を不安がっていたあの日。桜は自分の思いを伝えてくれた」
「目が覚めていたの?」
「そうだな、あの日の目覚めは久しぶりに嫌な暑さや怖さがなかった」
「そっか」
ヒサギは最初から人をラムリアにする気なんてなかったんだ。
「千成さんは?」
桜が友人の事を出した。あの後会ってもいない。懐かしい友人の事を。
「元気にやってるよ。今度また話せばいい」
そう言う日の顔は堅苦しくなく、少し溶けたような笑みを浮かべる。
95
それだけで、桜は安心した。
「ほらこれ。頼まれてたやつ」
桜の前に出されたものは板状の機械。
桜は丁重に受け取るが黒い板は何も映す事はない。
「旧時代の物を復旧しただけだけど、今から作るよりは高性能だ」
「ありがとう」
「このボタンが電源ボタン。で、つければもう繋がってる。じゃあ、俺はこれで」
「ねぇ一つだけ、今の世界で楽しいかな」
日は傾げて立ち上がった。
「さぁな。先になってみないと分からない。その結果が出ないまま終わるかもしれない
し、今際に出るかもしれない。結果なんてすぐ出るものじゃない」
でもそう言う日の顔は初めて見た目よりも、光が灯っているように見えた。
未来を見ている目だ。
桜は町を歩く。都市は一気に発展した。
政府は私の言葉を聞いてか、それとも世間に人工知能や旧時代の技術が広まったからか、
大きく成長を遂げた。彼等が言うところの第三次高度成長期らしい。
人工知能にも人権の譲渡が進み、まだ機械を作るほどの力はないが少しづつお互いを人と
理解して動くようになり始めている。
「差別というのは自分たちが上だと理解した瞬間から起きるマウントの延長戦だ。それも
あって人工物だと知っても自らが作り上げていなければ差別もないものなのだね」
その声は板から発せられていた。
「ヒサギ」
「おや、ヒサギとは誰かな。僕はもう名前もないただのラムリアさ」
「嘘つくのも大概じゃない?」
「そう思うかい」
桜は軽く笑う。
数年たったというのに、それなのに彼女は何も変わらず人間とは対極的なままだから安心
してしまった。
「山木先生とは話しているの?」
「まさか、僕はもう彼からもらった肉体を失った身さ、合わせる顔もない。こっちの製造
者である彼にも愛想をつかされてしまってね。君たちの世界で言うところの無職さ」
「でも、全然悲しそうじゃないね」
「僕達の感情は君たちの物とは違う。と言いたいが、僕には甲斐甲斐しく人間に害をなし
た大犯罪人を使う面倒な姉がいるんだ。姉って言うものは」
「面倒極まりない?」
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「ああ、それにお節介だ」
共存は不可能ではない。
希望的観測だと言われてしまうかもしれないが、それでも私は信じているし願っている
この先の未来、光と二人でこの世界を歩く事を。
「光、桜は君と話がしたいんだ。来たらどうだい?何、恥ずかしい?馬鹿なことを言うんだね」
誰かの願いに動かされていた、そう思うこともある。それはきっとそうなんだろう。
でも、それでも最後は私が選んだんだ。
私が選んだ道だ。
板状に彼の姿が映し出される。
まずは何を言うべきだろうか。
「おかえり」
私は光に恋をしている。
『都市の皆さんこんにちは、私は作物課の…ただの桜です。この世界で名前をもらい何の
疑問も持たずに生きてきた。市民です。
そんな私は一人の男性に恋に落ちました。
彼はラムリアでした。ラムリアとしてあちらの世界から使命をもらい生きてきたのです。
私は彼と恋人になり、同じ時を生きました。笑って愛して、彼は私と同じ心を持っていました。
だからどうかお願いです。
彼らを怖がらないで、彼らは私たちと同じ人間なんです。
一人ひとり、笑って泣いて喜んで悲しんで。その全てができる人間なんです』

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